2010 年 4 月 4 日

・説教 「義に飢え渇く者の幸い」 マタイの福音書5章6節

Filed under: 礼拝説教 — miki @ 20:39

  —イースター礼拝説教—

 

鴨下直樹

 イースターおめでとうございます。今日、主イエスがよみがえられた日を祝うこの日に、先ほど洗礼を受けられたNさんと、子どもたちも共にイースターを祝うことができることを本当に嬉しく思います。

 

 今、私はイースターを「祝う」と言いました。礼拝はそもそもこのイースターだけでなく、いつも日曜ごとにお祝いをするために礼拝するのです。この四月から私たちの教会にマレーネ・シュトラスブルガー先生が加わってくださいました。マネーネ先生の国、ドイツでは、礼拝を「祝う」「ファイアーン」という言葉を一般的に使います。私たちは礼拝を「する」とか丁寧な場合は「ささげる」などという言い方をしますけれども、ドイツ語の方が礼拝の性質をよく表わしていると言うことができるかもしれません。なぜ日曜にお祝いするかと言いますと、この日に主イエスがよみがえってくださったからです。死を打ち破られたからです。人間の絶望の源である死を打ち砕かれた。復活なされたことによって、死は終わりではないことを示してくださったのです。

 

 今日私たちに与えられている御言葉は「義に飢え渇いている者は幸いです」という御言葉です。「義」というのは、「正しさ」と言い換えることができるかもしれません。パウロは、コリント人への手紙 第一 15章32節で「もし、死者の復活がないのなら、『あすは死ぬのだ。さあ、飲み食いしようではないか。』ということになるのです。」と語っています。正しい生活というのは、キリストの復活が無ければ、なりたたないのだ語っているのです。もし、キリストのよみがえりが無いなら、人間は死んで終わりになるのだから、それまで好きなことをして生きればいいということになる。けれどもキリストの復活は、人間は死で終わりではないことを示されました。とすると、誰もが正しく生きざるを得なくなるのです。

 

 では正しく生きるというのはどういうことなのでしょうか。 (続きを読む…)

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