・説教 ヨハネの福音書7章37−39節「生ける水の川が流れ出る」森山剛 兄
2023.11.26
森山剛
2023.11.19
鴨下直樹
今日は、子ども祝福式礼拝です。私たちの教会にこうして多くの子どもたちが集まってくれているのは、教会として大きな祝福です。
今日は、羊とオオカミというタイトルにしました。今日の聖書の言葉の中に、主イエスが言われたこんな言葉があります。3節です。
「さあ、行きなさい。いいですか。わたしがあなたがたを遣わすのは、狼の中に子羊を送り出すようなものです。」
主イエスは、ここで72人の弟子たちを伝道に送り出されます。そこで、言われたのが、この言葉です。主イエスの弟子たちに対する愛に満ちた言葉です。
すでに、9章で主イエスは12弟子たちを伝道旅行に送り出していますが、ここではさらに多くの弟子たちを伝道に派遣するところです。
主イエスからしてみれば、弟子たちのことが子羊のように可愛くて仕方がないです。この子羊が遣わされていくのは、狼の中に送り出すようなものだと言われました。
きむらゆういちさんの書かれた絵本で「あらしのよるに」という本があります。ご存知でしょうか? この方はいろんな絵本を書いている方で、主に赤ちゃん向きの絵本が多いのですが、この絵本は小学校低学年向きの絵本です。また、大人にも人気のある作品です。出てくるのはオオカミとヤギの話です。
ある嵐の夜に、ヤギは嵐を逃れるために山小屋で一夜を明かすことにします。すると、そこに、もう一匹が嵐を逃れるために山小屋に入ってくるのです。小屋の中はまっくらで相手のことが見えません。そこに入ってきたのはオオカミだったのですが、お互い、そのことに気づかないで、仲間だと勘違いしたままの言葉の掛け合いが、実にスリリングで面白いのです。その嵐の中で、二匹は仲良くなります。そして、あくる日、一緒におひるごはんを食べに出かけようと約束して終わるのです。
この続きの2巻は、「あるはれたひに」というタイトルです。翌日は、すがすがしい天気を迎えます。おひるごはんを食べる約束をした二匹は、お互い顔を合わせてびっくりします。そんな中で、二匹はえさ場まで歩いて向かうのです。その時の会話もまた、スリリングで、ユーモアにあふれています。ヤギがいつ食べられてもおかしくないという緊張感の中で物語が進んでいくのですが、ヤギにできることはオオカミを信頼するということしかできないのです。この物語の中で二匹はとても仲良くなっていくのです。物語はシリーズを重ねて第七巻まで出ています。
この物語に多くの子どもや大人が惹かれるのは、ありそうもない話だからです。けれども、同時に、そんなことが起こったら楽しいだろうなと思うのです。
オオカミには力があります。その持てる力で相手を恐れさせることによって、オオカミらしくあることができます。力を持つ者が、上にたつことで優位さを示そうとするのは普通です。そして、この世界では残念なことですが、誰もがこのオオカミのような力を手に入れたいと願いながら生きているのです。
ヤギのようになりたい。今日の聖書の言葉でいえば羊のように生きたいと思う人はごくわずかしかいないのです。 (続きを読む…)
2023.11.12
召天者記念礼拝
鴨下直樹
今日は、召天者記念礼拝です。主のみもとに送った家族のことを覚えて、こうしてたくさんの方々がこの礼拝に集ってくださっています。
特に、今日はこの礼拝の後、墓地で行われる墓地礼拝で3名の方の納骨式を致します。その亡骸(なきがら)を納骨堂に収めるのです。私たち、はそうすることで主のみもとに送った家族のことを思い起こし、彼らが主のみもとにいることを覚えようとしているのです。
今、私たちの教会ではルカの福音書からみ言葉を聞き続けています。今日、この召天者記念の礼拝に丁度当たっている場所がこの箇所です。ここには、父親の葬儀をしたいと言っている人に、それは他の人にやらせなさいなど、主イエスが言われたということが書かれています。読んでびっくりされた方もあると思うのです。けれども、ここには今日私たちにとってとても大切なことが記されていますので、ぜひ、一緒にこのみ言葉に耳を傾けていただきたいと願っています。
私たちは今日、天に送った家族や信仰の仲間のことを覚えて、この召天者礼拝に集っています。ここで私たちは、私たちに与えられた人生について一度立ち止まって考えようとしています。
人の生涯というのは本当に不思議なものです。若い時は、自分がどんな大人になるのかと悩みながら人生を歩みます。大人になれば、自分の今の生き方が間違っていないのか、もっと意味のある生き方ができたのではなかったのかと不安になりながら、毎日を送ります。年をとっても悩みがなくなることはありません。自分の過去を悔いたり、今からでも充実した時間を過ごそうと、そこでも悩みを持ったりするのです。
自分の生き方はこれで正しいはずだ、間違っていなかったと思えるのだとすれば、それは幸いなことと言えると思います。
豊かな人生というのは、いったいどう生きることを言うのでしょう。豊かな人生というものがあるのだとすれば、それはきっと、神からあなたの生き方はこれで間違いないとお墨付きをいただくことができる人生でしょうか。人は神様からそう言っていただいてようやく平安を抱くことができるのだと思うのです。しかし、それにはどうしたら良いのでしょう。
今日の聖書の箇所は、主イエスの生涯の中でも、重要な局面を迎えた時のことが記されています。51節にこのように書かれています。
さて、天に上げられる日が近づいて来たころのことであった。イエスは御顔をエルサレムに向け、毅然として進んでいかれた。
ここに「天に上げられる日が近づいて来たころ」とあります。主イエスが、ご自分の死を意識するようになった時のことが、ここから書かれているのです。つまり、ここからの主イエスの歩みは死に向かう歩みであり、それが始まったということです。
これは余命宣告を受けた時のようなものだと言ってもよいかもしれません。以前、この教会にホスピスケアの働きをしておられる柏木哲夫先生をお迎えして、講演会をしたことがあります。私はその時に聞いた話を今でも忘れることができません。
柏木先生はその時、「余命宣告を受けた方は、はじめはそれを受け入れるのにとても動揺してあらがうのだけれど、一週間ほど過ぎると誰もがみな何か吹っ切れたような状態になる」という話をなさいました。そして、人は自分の死を受け入れた時に、その人はそこから新しく生きるようになるのだという話をしてくださいました。これは私にはとても印象的な言葉でした。
余命宣告を受けて自分の死を受け入れるというのは、簡単なことではないはずです。けれども、それを受け入れた時に、残された時間をどう使うか、そこに集中するようになるというのは、分かる気がするのです。
主イエスはここで「イエスは御顔をエルサレムに向け、毅然として進んでいかれた」とあります。少し不思議な言葉ですが、意図していることはわかると思います。エルサレムに行くというのは、この場合、十字架にかかりに行くということです。自分の死に向かって覚悟を定めて、ひたすらに進んでいこうとするということです。 (続きを読む…)
2023.11.05
鴨下直樹
今日の説教題は、先週に引き続き「こんなにもダメな弟子たち2」としました。今日の箇所は先週の続きの部分です。
このルカの福音書の9章は、弟子のペテロが主イエスのことを「あなたはキリストです。」と告白したところから、大きな転換点を迎えています。この「主イエスはキリストである。」という言葉は、いったいどういう意味を持っているのか、このことを主イエスはこの時から弟子たちに教え始めておられるのです。
そこで、変貌の山ではモーセとエリヤが現れて、主イエスが旧約聖書の預言の人物であることを弟子たちに示し、また、天からの神の言葉を聞かせることで、神自ら、主イエスがキリストであることを明らかにしてくださいました。そして、山から降りて戻ったところでは、悪霊に支配されて困っていた子どもから悪霊を追い出す力があることを改めて示され、再度、主イエスが人々から苦しみを受け、殺されることを予告されます。
ところが、主イエスと一緒にいる弟子たちは、なかなかこの神の意図を受け取ることができません。なかなかどころか、まったく分かっていないのが、今の状況です。
ルカの福音書は、ここまでずっと一貫して、主イエスは弱い者、虐げられている者の傍におられることを示してきたのです。弟子たちも、その姿を見てきたはずなのです。
ところが、今日のところでは、弟子たちは誰が一番偉いのかという論争を始めているのです。それで、今週も先週に引き続いて「こんなにもダメな弟子たち2」としたわけです。主イエスからしてみたら、もう泣きたくなるような状態であったに違いありません。
もちろん、弟子たちにも、弟子たちの言い分というものがあります。弟子たちは、主イエスがキリストであるということを示されたわけです。キリストといえば、イスラエルを治める王というイメージがありますが、3人はその確証をあの山の上で得たわけです。しかも、3人だけが特別に山の上にご一緒させて頂いたわけですから、3人の弟子たちにしてみれば、自分たちは今、他の弟子たちよりも抜きん出ていると考えたに違いないのです。
それで、誰が一番偉いのかという議論を始めたのです。もし、主イエスがイスラエルの王になるようなことがあれば、これまで一漁師や、収税人というような仕事をしていた一般的な人たちには、棚からぼた餅が落ちてきたようなものですから、色めき立ったに違いないのです。この弟子たちの無理解っぷりといったらないと言わざるを得ません。
私たちは、どうしても人と比較してしまう世界の中で生活しています。上には上がいますから、頭では人と比較するのは終わりが無いことだと理解できるのですが、比較からなかなか自由になることはできません。
スーパーに買い物に行けば、レタスを次々に手に取って見比べます。牛乳も日付を見たり、他の種類と見比べながら買い物かごに入れるかもしれません。比較するということは、私たちの生活に染み付いているものです。
ものを比べることは悪いことでもなんでもないのですが、問題は、人と自分を比べる時に、そこで起こるのは何かということです。そこにはどうしても人の醜さが出てしまいます。弟子たちは、他の弟子たちや自分が、どのくらいのポジションにいるのか気になって仕方がないのです。そこに、どうしても人の卑しさが出てしまいます。
人と自分を比べる時の基準というのは一体何に根ざしているのでしょうか。私たちは、子どもの頃から、この比較の世界の中で苦しんで生きているのだと思います。他の子どもと比べられた時に嫌な感情を持たなかった人はいないのではないでしょうか。けれども、自分が子どもを持つと、どうしても他の子と比べてしまうようになるのです。
そこで、私たちが気づかなくてはならないのは、比較の世界に愛は入り込む余地を失うということです。能力を愛する、成功を愛する、比較の中で生まれる愛というのがあるのだとすると、それはどうしたって条件付きの愛です。ということは、条件が整わなくなった時に、愛することをやめてしまうのです。
もちろん、その人を愛するが故に、叱る、注意するということはあります。子どもの時のしつけというのは、これにあたるものです。けれども、これも人との比較の中でするものではありません。その人の為を思って語ることはあると思います。けれども、そこに比較が入り込んだ途端、その言葉は愛ある言葉ではなくなってしまうのです。 (続きを読む…)
主日主題: 謙遜
聖餐式礼拝: 午前10時30分(Zoom配信)
聖書のお話:「大漁の奇跡」河合和世
聖書: ルカの福音書9章46−50節
説教:「こんなにもダメな弟子たち2」鴨下直樹牧師
礼拝後:誕生月の方のための祈り/役員会
主日主題: 召天者記念
公同礼拝: 午前10時30分(Zoom配信)
聖書: ルカの福音書9章51−62節
説教:「主イエスの決意」鴨下直樹牧師
礼拝後:礼拝準備会/月間予定確認会、墓地礼拝(14時~ 鳩吹園)
主日主題: 子ども祝福
公同礼拝: 午前10時30分(Zoom配信)
聖書のお話:「マタイを招く」鴨下愛
聖書: ルカの福音書10章1−16節
説教:「羊とオオカミ」鴨下直樹牧師
礼拝後:聖歌隊練習、ゴスペルカフェ
主日主題: 感謝
公同礼拝: 午前10時30分(Zoom配信)
聖書のお話:「パリサイ人と罪深い女」可児宏子
聖書: ヨハネの福音書7章37−39節
説教:「生ける水の川が流れ出る」森山剛兄
礼拝後:55+の会活動報告、大掃除、クリスマスツリー飾り付け
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