・説教 ルカの福音書9章37−45節「こんなにもダメな弟子たち」
2023.10.29
鴨下直樹
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今週も先週に続いて、ラファエロの「キリストの変容」の絵を見ながら、今日のみ言葉に耳を傾けていきたいと思います。
ラファエロの描いた、「キリストの変容」はルカの福音書9章の変貌山での出来事と、その時に地上で起こっていた出来事が一つの画面に描かれています。下半分に描かれているのは、主イエスが山の上で天の輝きの中におられたその時に、霊に取り憑かれた子どもが親に連れられて来たのですが、取り残された他の弟子たちは、何もできなかったということが記されています。
この二つの出来事を一枚の絵に上半分と下半分とで描きました。まさに、このところで福音書の著者は訴えたいことを見事に描き出していると言えます。
今日の説教題を「こんなにもダメな弟子たち」としました。はじめに予定していたタイトルを変えたのは、まさにこの言葉が、今日の内容を一番的確に表していると思うからです。
いつも、水曜と木曜の祈祷会で、日曜にする聖書箇所を先に丁寧な学びをしています。わたしはこれを「共同の黙想」と呼んでいます。教会に集われるみなさんと共に、み言葉を聞くのです。私一人で聖書を読むのと違って、実にいろんなことに気付かされます。疑問が出てくれば出てくるほど、聖書の洞察は深くなります。一緒にみ言葉を味わう経験は、とても有意義なものです。説教では30分ほどの時間しかとれませんが、祈祷会の時は、1時間から2時間ほどの時間をかけて、み言葉を味わいます。
そこで、いつも最後に聞く質問があります。「この箇所から語られている福音は何ですか?」という質問です。聖書を読んでも、そこから道徳的な教訓を見出すことは、あまり意味がありません。特に、今日の聖書箇所などはなかなか積極的な言葉が見出せませんから、福音を聞き取ろうと思うと、少し考えなければなりません。
すると、一人の方がこんなことを言われました。
「弟子たちがこんなにも理解できないのだということは、福音です」と言われました。
それを聞いて、みんなで笑ったのですが、同時に確かにそれも慰めになるなと考えさせられました。ここまで主イエスが弟子たちに、あの手この手で、ご自身がキリストであることを示しておられるのに、一向に理解できない弟子たちの姿に慰められるというのです。
これは、確かにそうで、みんな出来が良い人ばかりだとプレッシャーに感じるのですが、弟子たちがここまでダメっぷりを発揮してくれると、ああ、自分もこれでも主に受け入れていただけるのだということが分かって平安を感じることができるわけです。
想像してみると、主イエスの三人の弟子たちが山に祈るために出かけた後、弟子たちの所には大勢の群衆が詰めかけています。すでに9章の1節で、弟子たちは悪霊を追い出したり、病気を癒す力と権威が与えられたりしていると記されています。
実際に、弟子たちは遣わされたところで、すでに与えられた力で、主の御業を行って来たはずなのです。ですから、自分たちだけでも大丈夫という自信のようなものは持っていたかもしれません。
ところが、その弟子たちの前に霊につかれた子どもが連れてこられると、弟子たちは誰もどうすることもできなかったというのです。そこに、主イエスたちが戻って来ました。すると、その子どもの親が、姿を現した主イエスにこう言います。40節です。
「あなたのお弟子たちに、霊を追い出してくださいとお願いしたのですが、できませんでした。」
弟子たちにしてみれば悔しかったに違いありません。三人の弟子たちがいない間に、自分たちの価値を証明して見せたかったと思うのです。今日の箇所の次の箇所である46節以降では、「だれが一番偉いか」という議論が起こったわけですから、弟子たちの中には、そういう意識は当然のようにあったと考えられます。
いいところを見せることができれば、株があがったはずなのですが、実際は主イエスがいないと何もできなかったのです。
「あなたのお弟子たちに、霊を追い出してくださいとお願いしたのですが、できませんでした。」
この言葉はどれほど弟子たちを苦しめたことでしょう。しかし、この子どもの父親だけの評価に終りません。41節で主イエスはこう言われました。
「ああ、不信仰な曲がった時代だ。いつまで、わたしはあなたがたと一緒にいて、あなたがたに我慢しなければならないのか。あなたの子をここに連れて来なさい。」
主はそう言って、その子を癒されて、父親にお渡しになられました。弟子たちのこの時の気持ちはどれほど悲しかったことでしょう。
私たちも、毎週のように同じような経験をするかもしれません。礼拝に来て、み言葉を聞きます。神様の素晴らしさを知って、嬉しい思いになりながら自宅に戻ると、そこから現実の生活が待ち構えています。
夫が、妻が、子どもが、職場が・・・それぞれみなさんの生活の場所で待ち構えています。そこで、み言葉で聞いたように希望に溢れて生活出来れば良いのですが、そんなに理想的に整った生活を私たちはしているわけではありません。財布をひらくと、残金に厳しい思いになることもあるのです。私も主イエスの弟子だから、この世界の中にあって、何か意味のある働きができればと思うのに、たいしたことは何もできない。
そうであれば、先の福音の言葉のように、「主イエスの弟子たちも全然お役に立てていない」ということの方が、かえって慰めになるというものです。
今、教団の11月総会の準備をしているのですが、来年は教団の青年たちで鹿児島県の離島である口永良部島に長期キャンプをする計画を立てています。長い間、長期キャンプをしていませんので、長期キャンプという計画に驚いた方もあるようです。20年ほどまえには、マレーネ先生や、この教会にみえた浅野先生たちと、北海道で二週間の学生たちの長期キャンプをしました。この長期キャンプは大変好評で、その後も岐阜の白川郷や、島根県の沖ノ島に行ったり、熊本に行ったり、いろんなところに行きました。本当に、とても豊かな時間でした。その頃のキャンプに参加していた当時の学生たちは今40歳を超えていますが、先週も何人か集まって、オンラインで座談会をしたりもしました。
こういう長期キャンプをすると、だんだん終わりの日が近づいてくると、家に帰りたくないと言い出します。自分の現実の生活に戻るのが怖くなるのです。仲間たちだけで守られて、いつでも相談できる牧師や宣教師がいてという環境ではなくなります。
そこでキャンプの最終日になると私が説教をして、毎回、あなたがたが生活しているのは、自分の生活の場なのであって、甘えた気持ちでいてはいけないと、気を引き締めるようなメッセージを語ったものです。
私たちは、それぞれの生活の中で、困難に直面すると、自分の力ではどうすることもできないと、半ば諦めてしまっているのです。それこそ、主イエスからも「ああ不信仰な曲がった時代だ」と叱られないと気づかない部分があるのです。主イエスはここで、弟子たちをお叱りになりながら、ご自身の御力を示されました。それを見て、人々は驚きます。弟子たちも驚くのです。でも、主イエスがいないと、自分はどうしようもなく頼りない存在だと現実を突きつけられるのです。
そこで、主イエスはあなたがたを救うと約束された人物に目を留めるようにと、ご自身のことを語ります。
主イエスはここで弟子たちをしかるだけではなくて、二回目の受難の予告をしています。44節です。
「あなたがたは、これらのことばを自分の耳に入れておきなさい。人の子は、人々の手に渡されようとしています。」
主イエスはここでも「人の子」という称号を使っておられます。これは、先の一回目の予告を語られた26節でも使っておられます。
「人の子」というのは、もう何度も説明していますが、ダニエル書7章13節に出てくる予言の人物のことを指しています。「見よ、人の子のような方が、天の雲とともに来られ」と預言されています。これまでユダヤ人たちはそれほど意識してきたメシアの姿ではありません。けれども、主イエス、この約束された「人の子」は、この世界を裁く権威をもっておられるお方で、この人物は苦しみを受ける人物なのだと、イザヤ書53章に記されている「苦難の僕」のイメージと結びつけて語っておられることが分かるのです。
けれども、このことも、弟子たちには全然分かりません。自分たちの描いているまさにヒーローのような救い主のイメージから抜け出せないのです。
主イエスがここで示しておられるのは苦しみを受けるキリストです。人の手に渡されてしまうのが、キリストだ。私なのだと語っているのです。
でも、弟子たちはここでも、さっぱり理解を示すことができないのです。
本当に、今日の説教のタイトルにした通り、「こんなにもダメな弟子たち」なのです。しかも、分からない、理解できていないのに、質問することさえできないのです。ここには、あのキリストの変容のお姿を見た三人の弟子たちもいるはずなのにです。
さて、ではここにどんな福音が私たちに語られていると言えるのでしょうか? この福音書を記したルカはここからどういったキリストの姿を私たちに語ろうとしているのでしょうか。
私たちはここからいくつも慰めの福音を聞き取ることができます。主イエスは、こんなにもダメな弟子たちのことを諦めてはいないのです。主イエスの弟子たちに選ばれたのは、特別に有能な人たちではなかったことはここからもよく分かります。弟子たちも、私たちもなんの違いもありません。ダメさでいえば互角でしょう。その弟子たちのことを主イエスは愛しておられるのです。だから、この弟子たちに何度も声をかけ、ご自分のことをお示しになり、声をかけ続けられるのです。
ルカの福音書の9章は、山の頂点だと言いました。ということは、ここから後は降るばかりです。つまり、ここからどんどんと弟子たちのダメさが明らかになっていくのです。本当に、その姿は私たちに大きな安心感を与えてくれます。けれども、弟子たちがダメだから慰められるのではなく、主イエスがこのダメな弟子たちのことを諦めていないところに、私たちは慰めを見出すことができるのです。
「いつまで我慢していなければならないのか」という厳しい言葉さえ、主イエスの愛が詰まっている言葉だということに気づくようにされるのです。
44節もそうでしょう。「これらのことばを自分の耳に入れておきなさい」というのは、今はまだ分からなくても良い、でもまずは「耳に入れておきなさい」いつかこのことの意味が分かるようになるからということでしょう。
主は、天のまばゆいばかりの光の中におられたお方なのに、今、こうしてこの愛すべき弟子たちと共に、暗い闇の世界の中で共に生きてくださっているのです。これこそが福音なのです。
見ても分からない、期待されていても、どれだけ教えられていても分からない。そんな弟子たちのことを、主イエスはことの他、愛してくださっているのです。そして、それでも私たちに期待し続けてくださっているのです。
それが、私たちの主イエス・キリストなのです。
お祈りをいたしましょう。