・説教 ルカの福音書9章28−36節「光と言葉を」
2023.10.22
鴨下直樹
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今日の聖書箇所は「変貌山」とか「キリストの変容」と呼ばれる出来事が記されているところです。前回の箇所で、主イエスの弟子のペテロが「あなたは神のキリストです」と、主イエスへの信仰を告白しました。このペテロの理解は正しかったのですが、主イエスはこのことを誰にも話さないように言われました。どうしてかと言うと、当時の人々や、この時の弟子たちが考えているキリストの理解と、主イエスの示そうとしているキリストのあり方が、まったく違っていたためです。
この出来事に続いて、今日の「キリストの変容」という出来事が記されているのです。この意味について、私たちはここからしっかりと受け取りたいと思います。
ルカはこの28節で「イエスはペテロとヨハネとヤコブを連れて、祈るために山に登られた。」と記しています。
そして、この後、キリストのお姿が変わるという出来事が起こった時、32節では「ペテロと仲間たちは眠くてたまらなかったが」と書いていますから、この出来事は夜通し祈りをしておられた中での出来事だったことが暗示されています。
こういう書き方は他の福音書では書いていませんので、ルカはこのところで夜の祈りの中での出来事であったことを伝えようとしています。
ラファエロの描いた「キリストの変容」の大きな絵がヴァチカン美術館の一番奥の部屋に置かれています。この絵は、マタイの福音書をもとにして書かれたと言われていますが、マタイでは弟子たちが眠かったという記述はありませんので、ルカの福音書の場面を描いたのではないかと考えて良いと思います。この絵もやはり夜の祈りとして描いています。
みなさんは夜、山で祈るという経験をしたことがあるでしょうか。私たちの教団は、根尾にクリスチャン山荘を持っています。ここからだと45分くらいで行くことができます。私は、神学校に入る前に、当時は管理人もおりませんでしたのでこの根尾山荘に半年ほど住んでいたことがあります。このキャンプ場の周りには家がありません。明かりも道にでればカーブのところに街灯が辛うじて一つ点いているだけで、あとは真っ暗です。夜は猿だとか、鹿の声が聞こえてくることもあります。
そんな夜の山の中で、時折祈った経験があります。不思議なものですが、とても祈りに集中することができます。気を紛らわせるものが何もないからかもしれません。
弟子たちはそんな祈りの時に、眠くなってしまったようです。ということは、主イエスの祈りが長く続いたということと、弟子たちには祈る必要性をあまり感じなかったということなのでしょう。言ってみれば主イエスに付き合わされているわけです。そして、この時まで、なぜ、自分たちがこの祈りの山に招かれているかを理解できていなかったのです。
ところが、弟子たちが寝ている間に、とてつもない出来事が起きています。29節から31節にこう記されています。
祈っておられると、その御顔の様子が変わり、その衣は白く光り輝いた。
そして、見よ、二人の人がイエスと語り合っていた。それはモーセとエリヤで、栄光のうちに現れ、イエスがエルサレムで遂げようとしておられる最期について、話していたのであった。
暗闇の山の中で、突如主イエスの御顔の様子が変わり、衣が光り輝き始めたのです。そして、そればかりか、主イエスの周りにはモーセとエリヤが姿を現わします。
一体ここで、何が起こっているというのでしょう。この主イエスから発せられる光は一体何を物語っているというのでしょう。こんなとてつもない出来事が起こっているのに、三人の弟子たちは、眠さの中にあって、この姿にはじめ気づいていなかったというのです。
ここに、祈りに何も見出すことの出来ていない弟子たちの姿が描き出されているといえます。自ら、神に向かう心のない祈りは、目の前に神の御業が示されていても、眠気の方が優先されてしまうのです。それはそうです。神に何の期待もしていないからです。
先週もお話ししましたが、このルカの福音書はこの9章が頂点です。「分水嶺」という言い方ができるかもしれません。「分水嶺」というのは、この岐阜だと「ひるがの高原」に分水嶺があります。ここから、水が日本海に流れるか、太平洋に流れるかが決まるのです。
そんな重要な局面に立っているのに、しかも、主イエスによってこの幸いな祈りの場に招かれているのにも関わらず、弟子たちはその重要さが理解できていないのです。
少しして目の覚めた三人の弟子たちは目の前で起こっている現象が、ただならぬ出来事だと言うことに気づき始めます。見ると、主イエスの傍には、モーセ五書を記したモーセと、預言者の代表としてエリヤが立っていることに気づきます。
すると、ペテロが変なことを言い出します。33節です。
「先生。私たちがここにいることはすばらしいことです。幕屋を三つ造りましょう。一つはあなたのために、一つはモーセのために、一つはエリヤのために。」ペテロは自分の言っていることが分かっていなかった。
ペテロが考えられたことは、この一つのことでした。テントを立てて、三人がしばらくの間ここに滞在できるようにしましょうと言ったのです。このペテロの発言は今でいえば、「ちょっとスマホで録画してもいいですか?」とでもいうようなニュアンスです。
ここにモーセとエリヤがいるというこのとても不思議な空間を少しでも長い間留めていたい、ここにいて欲しいと考えたのです。
ここからも、この主イエスの弟子の筆頭でもあるペテロが、何か特別な存在というのではなくて、私たちと同じような感覚の持ち主であるということが分かります。
暗闇の中に光り輝く主イエスと、旧約聖書の重要人物であるモーセとエリヤ、つまり律法と預言者が、主イエスを囲んでいるのです。旧約聖書の律法と預言者とが、この主イエスがキリストであるということを証ししているというのです。ここで示されているのは、まさに世界の光そのものです。暗い世界の中にあって、光として存在するお方が主イエスなのだとここで示しているのです。この世界の誰もが必要としていた光です。この光のあるじである主イエスは、この世界の光そのものであるということを、モーセとエリヤが証ししてくれているのです。
そして、このモーセとエリヤの二人は「イエスがエルサレムで遂げようとしておられる最期について、話していたのであった。」と31節に記されています。
ここに書かれている「最期について」という言葉は、原語では「エクソダス」についてと書かれています。それは「脱出」とか「出口」という意味の言葉です。また、「エクソダス」と聞くと「出エジプト」という言葉がすぐに出てくる方もあるかもしれません。「出エジプト記」は、英語の聖書などでは「エクソダス」と書かれているのです。
文脈から翻訳すれば「最期について」と訳すのが正しいのですが、そこで意味しているのは「死」についてというよりも「死からの脱出について」と理解することもできる言葉です。そうすると、分かってくるのは、このモーセもエリヤも旧約聖書の中で死が直接的には描かれていない二人でもあるということに気付かされるのです。
モーセの死については、申命記の最後34章に記されています。ここで、モーセは死んだと書かれているのですが、申命記34章7節では「モーセが死んだときは百二十歳であったが、彼の目はかすまず、気力も衰えていなかった。」と書かれています。これは、モーセが寿命を迎えて死んだというのではなくて、神がすでに語っておられたように、モーセに約束の地に入れないと言われたことのために神ご自身がモーセの命をとられたためであったと考えられています。
エリヤもそうです。エリヤも、アハブ王と戦いバアルとアシェラの預言者たちを打ち破りますが、アハブ王の妻イゼベルに執念深く恨まれて恐れを抱き、自分の死を願うようになってしまいます。それで、主はエリヤに変わって、エリシャを次の預言者として立てられます。エリヤはこの後、死をみることなく天から燃える馬車によって迎えられて天に帰って行ったと記されています。
モーセとエリヤというのは、そういう意味でも「死」に対して特別な距離のある人物ということができます。このモーセとエリヤが主イエスのところを訪ねて、この後エルサレムで遂げられる最期について、死からの脱出について話し合ったというのです。
この後、どうなったのでしょうか? ペテロがここで幕屋を三つ造りましょうと提案したあとです。34節と35節でこのように書かれています。
ペテロがこう言っているうちに、雲がわき起こって彼らをおおった。彼らが雲の中に入ると、弟子たちは恐ろしくなった。
すると雲の中から言う声がした。「これはわたしの選んだ子。彼の言うことを聞け。」
これまで使っていた新改訳とこの新改訳2017では雲の中からの主の言葉の内容が変わっています。これは、聖書本文批評といいますが、写本などの研究が進んでより厳密にオリジナルの聖書本文に近づいた結果だと受け止めてくださると良いと思います。
ここで、雲の中からペテロたち弟子たちは主の御声を聞くことになります。ここで主なる神からの言葉を直接聞くのです。ここで主なる神が言われたのは、主イエスの言うことを聞きなさいという言葉でした。
光の中でモーセとエリヤによって、主イエスが神の約束されたキリストなのだということが、明らかにされただけではなく、今度は神ご自身が雲の中からその臨在を示されて、語りかけられたのです。
雲というのは、旧約聖書では常に神の臨在のしるしとして描き出されています。その雲から、神の声で「これに聞け」との言葉を聞いたのです。
まさに、神からの光と、神からの言葉によって、主はキリストであるということが証明されたのです。まさに、ルカの福音書の分水嶺とも呼べる部分だということがお分かりいただけるのではないでしょうか。
ところが、この後の弟子たちの反応が36節で書かれています。
この声がしたとき、そこに見えたのはイエスだけであった。弟子たちは沈黙を守り、当時は自分たちの見たことをいっさい、だれにも話さなかった。
これが、この壮大な神の奇跡の御業のあとの、弟子たちの反応です。祈祷会の時にもお話ししたのですが、これではまるで「費用対効果」が悪すぎと言わざるを得ません。
モーセやエリヤが登場し、主イエスが光に包まれただけではなくて、神が雲の中からご臨在を現して、直接主イエスの言葉に耳を傾けるようにと言われたのです。
言ってみれば、フルコースの神様の奇跡をここで三人の弟子たちは経験したのです。その割には、彼らは心の中にこれを秘めておいて、「いっさいにだれにも話さなかった」で結ばれているのです。
けれども、考えていただきたいのです。私たちはこうして毎週教会に集い、神の言葉に耳を傾けています。ここでみ言葉を聞いて、私たちは何かが私たちの中で起こっているはずです。何も起こらないで礼拝から家に戻るだけであれば、何も起こっていないのと同じことです。けれども、どんなに小さな出来事であったとしても、私たちの心はそこで何かが起こっているのです。
心密かに決意するということもあるでしょう。悔い改めるということもあるでしょう。誰かのために祈ろうと思ったということかもしれません。ああ、神様とはこういうお方なのかということが分かったということかもしれません。大きな出来事としてあらわれてはいなかったとしても、そこで何かが起こっているのです。
「費用対効果」などと言われてしまうと、私たちは主の前に申し訳ない思いになるのかもしれませんが、神の言葉を聞いて起こる小さな出来事の一つ一つが、私たちの信仰の歩みを作り上げていくのです。
弟子たちはここで経験したことは、まだこの直後にはそれほど大きな意味を持っていなかったかもしれません。けれども、この経験はやがて、主イエスの十字架を経験し、よみがえりを経験し、ペンテコステの出来事の後に、一気に確信へと変わっていくのです。
ひとつひとつ、小さな積み重ねが、しっかりとした土台を築き上げることになるのです。
キリシタンの時代、この美濃の国で織田信長の長男、織田信忠は、やがて豊臣秀吉の名前を一文字もらって、織田信秀と名乗るようになります。この信秀はキリシタンでした。そして、我らが岐阜城の城主でもあったのです。そういうこともあって、秀吉がキリシタンを禁止していた時代も、この美濃にはキリシタンが多く隠れ住んでいました。関ヶ原の戦いの後も、はじめ尾張藩と美濃藩は藩主となった松平忠吉によってキリシタンは庇護されていましたが、1615年からキリシタンの弾圧が始まります。ついに、1631年ごろキリシタンを庇いきることができなくなってしまい、この地域でも一斉にキリシタンが検挙されはじめます。
そんな時代に今の御嵩町に小原村という小さな村落がありました。ここに小倉一族という代々庄屋という一族がおりました。この小原村の人々がキリシタンになります。ですが残念なことに、この里もキリシタン宗門改めによって村人みんなが検挙されることになったのです。その時、この村の庄屋であった小倉一族24人が、村人の身代わりに磔にされて犠牲となって、村人を救うという出来事が起こったのです。このことは長い間知られていませんでしたが、この地域ではこの庄屋さんを祀るお祭りが行われていたのだそうです。この小原村にまるで主イエスのように人々のために犠牲を払った庄屋さん一族がいたことが分かったのはつい30年ほど前のことであったようです。この話は、私が東海聖書神学塾で学んでいた時に、東海地区の宣教の歴史という授業の中で、鈴木健之先生が教えてくださいました。
この庄屋さん一族の犠牲によって、小原村の人々は救われたのです。それは、まさに主イエスがなさった救いの御業のようです。まさに、はじめは小さな出来事でしかなかったはずの信仰が、ここで大きな光として示されたのです。小原村の人々には希望の光が照らされたのです。今も生きている、生かされている。この喜びが、後々村の人々に受け継がれてお祭りとして祝われるようになったのです。
暗闇の世界に光が示される。これこそまさに神の御業です。そして、この神は、言葉を持って語りかけられるお方でもあるのです。私たちは、今の世界が暗いからと、顔を伏せるのではなく、光の方に顔をあげて、主の語る言葉に耳を傾けるのです。
「これはわたしの選んだ子、彼の言うことを聞け」とここで神ご自身が語りかけておられます。主イエスの語る言葉は、この世界に示された救いの言葉なのです。暗闇の世界に光をもたらす言葉なのです。だから、私たちは主の言葉に耳を傾けるのです。主のしてくださった光の御業に目を向けるのです。そこに、私たちはこの暗闇の世界の中で、自信と確信をもって生き抜く神の言葉を聞き取ることができるのです。
お祈りをいたします。