2023 年 10 月 15 日

・説教 ルカの福音書9章18−27節「すべては祈りの中で」

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2023.10.15

鴨下直樹

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主イエスが一人で祈っておられた時

 今日の箇所は、この言葉から始まっています。静かな場所で主イエスが祈っておられる。このお姿を見るだけで十分と言えるような世界が、弟子たちの前に示されています。

 祈っておられる主イエスの姿。草原だったのか、荒地だったでしょうか。

 風の音、草木がたなびく音、鳥や虫のまでが美しく調和している。

 弟子たちはそんな中で、主イエスの祈る姿を見ているのです。それは、誰も主の祈る姿の前に割り込むことのできないような完成された世界であったに違いありません。

 どんな絵画よりも、どんな景色よりも崇高な世界がある。その姿を見ることが出来たならば、何と幸いなことだろうと、私などは羨ましくさえ感じます。

 まだ私が高校生の頃、この箇所を読んで素朴に驚いたことを今でも覚えています。「主イエスでも祈るのか」。聖書を読み始めた頃に、心に留まったそんな思いは、今でも覚えています。

 聖書学者や、解釈者たちは、この箇所がルカの福音書の頂点だといいます。頂点ということは、そこからすべてのものを見渡すことができるようになるということです。ここに記されている一切の出来事は、この主イエスの祈りがもたらしたものです。

 私たちは自分の人生の頂点がどこにあるかなど、知る由もありません。その多くは、気づいた時にはもう手遅れになっているような状況で…ということも少なくないのかもしれません。

 私たちは自分の人生の道半ばで立ち止まり、何度も後ろを振り返りながら、この道でよかったのか、あるいは今、目の前に差し迫っている壁や障害を、どう乗り越えたらよいのかと途方に暮れてしまうのかもしれません。

 そんな中で、信仰が一体どんな役割を果たすのか、神は私に何をしてくれるのかと思いながら、心を悩ませているのかもしれません。

 今、私たちは連日のように、戦争や災害の話を耳にします。最近ではイスラエルとハマスとの間で起こった争いや、ミャンマーでも政府の軍隊が難民キャンプを砲撃したというショッキングなニュースが入っていました。最近ではモロッコやアフガニスタンでも大きな地震があったというニュースも入ってきています。

 こういう時に、私たちは主がそれぞれの被害に遭われている土地の人々に、慰めを与えられるようにと祈ります。その時に、私たちは少し立ち止まって「私たちが祈っている主は、どういうお方なのか」と考えることはないでしょうか?

 今日の聖書箇所では、主イエスは祈りの後で、弟子たちの方を振り向いて言われました。

「群衆はわたしのことをだれだと言っていますか」

 この主イエスの問いかけは、今日の世界に生きる私たちにもそのまま通じる問いかけであると言えるかもしれません。

「この世の人々はわたしのことを誰だと言っていますか?」

 この主イエスの問いに、私たちは何と答えることができるのでしょうか?

 「昔はすごい奇跡をしたけれども、今は何も出来ないお方」と答える人があるかもしれません。あるいは、「聖書にはいろんな奇跡が書かれているけれども、どうやら私たちとはあまり関係なさそう」という答えもあるかもしれません。「立派な方だとは思うけど正直よくわからない」そんな答えが、今であれば一番多く聞かれるのかもしれません。

 これが、今日の群衆の答えなのかもしれません。

 弟子たちはここで、「エリヤのようだとか、昔の預言者の一人とか、バプテスマのヨハネがよみがえったのではないかと言っています」と答えています。

 すると、主イエスはさらに尋ねて言われます。

「あなたがたは、わたしをだれだと言いますか。」

 さあ、今、あなたなら何と答えるでしょうか? この主イエスからの問いかけはいつも私たちに向けられている問いと言っていいと思います。

 私たちは、毎日毎日、この問いの前に立たされています。

 信仰に生きるということは、それは、私たちの生き方が問われることです。私たちが今、どう生きているか。その生活の中で、私たちは主イエスをどのようなお方だと思いながら生きているのか、どのように自分の生活の中で、この問いに答えることができるのでしょうか。

 ここではただ、一つのことだけが重要です。それは、私たちの生活の中で、自分の言葉で主に答えていくことしかできないということです。

 そして、ここで弟子の筆頭でもあるペテロが主イエスの問いかけに答えます。

「神のキリストです。」

 少し珍しい言葉です。神のキリスト。「キリスト」というのは、旧約聖書では「メシア」という言葉です。これは「油注がれたお方」という意味です。旧約聖書の中で油を注がれる職務というのは三つあります。「祭司、王、預言者」の三職です。そして、これらの神から油注ぎを受けて、主の働き人として任職された人が、神の民イスラエルを導いて来たのです。

 ところが、神の民イスラエルは、神から離れてしまったために、バビロンから支配され、バビロン捕囚を経験します。イスラエルの民の有力な人材が捕虜としてバビロンに連れて行かれてしまうのです。その後も、隣国の強国であるペルシャ、ギリシャやそれに続くローマといった国々に支配されていきます。

 この時代になると、イスラエルには民を導く指導者がいなくなってしまいます。それで、イスラエルの人々はもう一度「油注がれた者」「メシア」の出現を心待ちにするようになります。そのことはまた預言者たちが語った神からの約束でもあったのです。

 そして、この「油注がれた方」は「救い主」というイメージで受け止められていくようになります。先の主イエスの問いかけに対する群衆の反応は、集めてみれば限りなくこの待ち望んでいる「救い主」のイメージに近づいていたのです。

 それで、ペテロは「神のキリストです」という告白に導かれたのです。ペテロがこの時告白した「神のキリストです」というのは、「神から遣わされたキリストです」「神がお遣わしくださった救い主です」という意味です。

 ここで、イスラエルの民が何百年も待ち続けて来た救い主が、現れたのだということを、ペテロは気づいた、受け止めたのです。

 するとそれを聞かれた主イエスは21節でこのようにペテロに答えられました。

するとイエスは弟子たちを戒め、このことをだれにも話さないように命じられた。

 主イエスはこのペテロの告白を受け止められました。「誰にも話さないように」ということは「その通りだ」ということです。

 しかし、もしそうだとすればこれはもう大事件です。イスラエルの人々が700年以上にわたって待ち焦がれて来た約束の救い主が、出現したのです。

 人々が、この箇所をルカの福音書の頂点だというのは、そういう意味です。長い間、世界に対して沈黙し続けておられた神の救いの御業が、このお方からいよいよ始められることになったのです。

 ところが、ここで主イエスはペテロたちに言われました。「このことをだれにも話さないように命じられた。」のです。

 せっかく、とても大切なことが分かったのに、主イエスは秘密にしておくようにと言われたのです。何故なのでしょうか? 少しこのことを頭の片隅において、この後の言葉を見ていきたいと思います。

 ここから主イエスの口から信じられないような言葉が次々と語られることになります。22節。

そして、人の子は多くの苦しみを受け、長老たち、祭司長たち、律法学者たちに捨てられ、殺され、三日目によみがえらなければならない、と語られた。

 主イエスの受難予告と呼ばれる言葉です。ここで主イエスはイスラエルの指導者たち、宗教指導者たちに捨てられ、殺されると言われたのです。耳を疑いたくなる言葉です。人々から大歓迎で迎えられるのではないというのです。

23節では続いてこう言われました。

イエスは皆に言われた。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負って、わたしに従って来なさい。」

 ここから、だんだんと雲行きが怪しくなっていきます。

 人々が「救い主」、「メシア」、「キリスト」に期待していたものは何かといえば、救っていただくということです。それは、具体的にいえば、イスラエルを支配していたこの土地支配者たちの権力から解放されることです。

 私たちもそうでしょう。救い主が来たと聞けば、自分の病気や、苦しみや、人生の悩みを解決してくださる方が、救い主だと思うに違いないのです。

 けれども、主イエスはここで毎日、自分の十字架を負って、私に従って来なさいと言われるのです。続く24節では、「自分のいのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしのためにいのちを失う者は、それを救うのです」とあります。

 自分の命を救ってもらおうと思うのではなくて、自分のいのちを失うことになる、それが救いだと言われるのです。

 耳を疑いたくなるような言葉ばかりが続きます。どうやらここで主イエスが明らかにしようとしておられるのは、人々が期待するキリスト像と、主イエスが行おうとしておられる救いの中身の違いです。この主イエスと人々とのズレを、主イエスは明らかにしようとしておられるのです。

 25節にもこういう言葉があります。

「人は、たとえ全世界を手に入れても、自分自身を失い、損じたら、何の益があるでしょうか。」

 主イエスがここまでの言葉で言おうとしておられるのは、二つの生き方があることを明らかにしておられます。一つは手に入れる人生、もう一つは与える人生です。私たちはさまざまなものを手に入れようと歩んでいます。お金、地位、経験を手に入れ、健康や豊かな人生を手に入れたいと願っています。けれども、そのような手に入れていく人生も、死んだらそれで終わりだと言うのです。けれども、主イエスのために自分のいのちを失うという生き方がある。主に従って、そのためにいのちを失う人生、そのような人生は、自分を救うことになると言うのです。

 とても、謎めいた言葉です。この時は、まだ誰も、この主イエスの言っている言葉の意味は理解できませんでした。弟子たちも理解できていません。だから、主イエスはわたしがキリストだということは、まだだれにも話さないようにと言われたのです。人々の願っているキリスト像、言ってみればペテロが理解しているキリスト像は、主イエスが示そうとしておられるキリスト像と中身がまるで違うのです。だから、間違った理解のままで人に話してもらっても混乱をきたすだけなのです。

 すると、先週の祈祷会である方がこんな質問をなさいました。でも、この前のところで主イエスは弟子たちを各地に送り出して、神の国の福音を伝えるために遣わしたはずだというのです。もう、弟子たちは各地で主イエスが語ろうとしている神の国を伝えているのに、ここで話してはいけないと言うのはおかしくないですか? という質問です。実に的を射た質問です。

 弟子たちが語るように言われた神の国の福音は、弟子たちがどの程度理解できているかは疑問ですが、それでも弟子たちを遣わされました。それは、そういう実践を経験することで、神の守りがあることを弟子たちに身をもって経験してもらいたいと思っておられるからです。神が支配して下っているということは、その経験の中で分かって来ます。そして、それは、少しずつ自信をもって語れるようになりますし、経験したことは説得力を持ちます。だから、無理解のままでも弟子たちを積極的に送り出しているのです。それは、群衆のためというよりはむしろ弟子たちのためであったと言えるかもしれません。

 しかし、肝心のキリスト理解については、この時の理解は全く天と地ほど違っているのです。そして、まさに、ここから弟子たちは少しずつこの言葉の中身を理解していくことになるのです。そして、最終的に理解できるのは、主イエスの十字架と復活、そして、ペンテコステを経験した後で、やっと語れるようになることなのです。だから、この時はまだその時ではないと言っておられるのです。

 最後の27節に、「ここに立っている人たちの中には、神の国を見るまで、決して死を味わわない人たちがいます。」とあります。これは、まさに神の国が始まる、つまり教会が誕生する時まで、死を味わわない人がいるということです。多くの弟子たちはペンテコステの出来事を経験して、この神の国の始まりを見るようになるのですが、それはまだ先のことなのです。

 主イエスはここで、自分の十字架を負うようにと語られました。しかも、日々、自分の十字架を負うのだと言われます。私たちは、私たちが担いでいる十字架の重荷を下ろすことが救いだと考えています。それを全部、主が担ってくださると考えるのです。自分で負わなければならないのなら、救われたことにならないとさえ感じるのです。

 そうだとすると、主が与えようとしておられる救いとは何でしょう。私たちが考える救いは、私のところに神が来てくださって、神の救いを頂くことよって自分の希望すること、願っていることができるようになることです。

 それは徹底した自己中心的な思いがその真ん中にあるのです。けれども、主イエスがあたえようとしている救いは、私たちが中心でいる自己中心の中に救いがあるとは考えていないのです。主イエスが考えておられるのは、神中心の生き方です。

 なぜなら自己中心の思いからでるものは、他者を愛する思いではなく、それでも自分がという思いです。それでは自分自身以外の誰も幸せにはしません。

 けれども、その中心が神の思いを中心とするならば、神は私たちの周りの人のことをも愛されるお方ですから、そこでこそ、その人だけでなく、その人の周りの人たちさえも幸せになる道が見出すことができるようになるのです。

 これが、神の示す救いです。そして、そのためには、まず自分自身が犠牲を払うこと、人のために死ぬような真実な愛を示すことによってしか、人はこの神の救いを理解することができないのです。

24節で主イエスはこう言われました。

「自分のいのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしのためにいのちを失う者は、それを救うのです。」

 これが、キリストのなさる御業です。自分を犠牲にすることで示される愛があるのです。いや、愛とはそもそも、自分を犠牲にすることなしに人に伝わるものではないのです。

 人に親切にする、人に気を配る、人を配慮する、そのどれもが、自分を犠牲にすること、自分のいのちを失うことで示される愛の御業なのです。

 主イエスはこの山の頂点とも呼べるところで祈っておられたのは、この救いがここから少しずつ明らかにされていく前に、人々にこのことが理解できるように、受け止められるようにと祈っておられたのです。この祈りもまた愛の御業です。自分を犠牲にして、他の人の幸せを願う心が、祈りなのです。

 主イエスは弟子のペテロの思いに先立って祈っておられます。また、私たちの思いに先立って祈っておられるのです。私たちは、この主の祈りの支えの中で生かされているのです。
 
 この祈りの主イエスは、今、私たちのためにも祈られた後で、こう問いかけておられます。

 「あなたは、わたしのことを何といいますか?」 と。

 お祈りをいたしましょう。

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