・説教 ルカの福音書9章46−50節「こんなにもダメな弟子たち2」
2023.11.05
鴨下直樹
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今日の説教題は、先週に引き続き「こんなにもダメな弟子たち2」としました。今日の箇所は先週の続きの部分です。
このルカの福音書の9章は、弟子のペテロが主イエスのことを「あなたはキリストです。」と告白したところから、大きな転換点を迎えています。この「主イエスはキリストである。」という言葉は、いったいどういう意味を持っているのか、このことを主イエスはこの時から弟子たちに教え始めておられるのです。
そこで、変貌の山ではモーセとエリヤが現れて、主イエスが旧約聖書の預言の人物であることを弟子たちに示し、また、天からの神の言葉を聞かせることで、神自ら、主イエスがキリストであることを明らかにしてくださいました。そして、山から降りて戻ったところでは、悪霊に支配されて困っていた子どもから悪霊を追い出す力があることを改めて示され、再度、主イエスが人々から苦しみを受け、殺されることを予告されます。
ところが、主イエスと一緒にいる弟子たちは、なかなかこの神の意図を受け取ることができません。なかなかどころか、まったく分かっていないのが、今の状況です。
ルカの福音書は、ここまでずっと一貫して、主イエスは弱い者、虐げられている者の傍におられることを示してきたのです。弟子たちも、その姿を見てきたはずなのです。
ところが、今日のところでは、弟子たちは誰が一番偉いのかという論争を始めているのです。それで、今週も先週に引き続いて「こんなにもダメな弟子たち2」としたわけです。主イエスからしてみたら、もう泣きたくなるような状態であったに違いありません。
もちろん、弟子たちにも、弟子たちの言い分というものがあります。弟子たちは、主イエスがキリストであるということを示されたわけです。キリストといえば、イスラエルを治める王というイメージがありますが、3人はその確証をあの山の上で得たわけです。しかも、3人だけが特別に山の上にご一緒させて頂いたわけですから、3人の弟子たちにしてみれば、自分たちは今、他の弟子たちよりも抜きん出ていると考えたに違いないのです。
それで、誰が一番偉いのかという議論を始めたのです。もし、主イエスがイスラエルの王になるようなことがあれば、これまで一漁師や、収税人というような仕事をしていた一般的な人たちには、棚からぼた餅が落ちてきたようなものですから、色めき立ったに違いないのです。この弟子たちの無理解っぷりといったらないと言わざるを得ません。
私たちは、どうしても人と比較してしまう世界の中で生活しています。上には上がいますから、頭では人と比較するのは終わりが無いことだと理解できるのですが、比較からなかなか自由になることはできません。
スーパーに買い物に行けば、レタスを次々に手に取って見比べます。牛乳も日付を見たり、他の種類と見比べながら買い物かごに入れるかもしれません。比較するということは、私たちの生活に染み付いているものです。
ものを比べることは悪いことでもなんでもないのですが、問題は、人と自分を比べる時に、そこで起こるのは何かということです。そこにはどうしても人の醜さが出てしまいます。弟子たちは、他の弟子たちや自分が、どのくらいのポジションにいるのか気になって仕方がないのです。そこに、どうしても人の卑しさが出てしまいます。
人と自分を比べる時の基準というのは一体何に根ざしているのでしょうか。私たちは、子どもの頃から、この比較の世界の中で苦しんで生きているのだと思います。他の子どもと比べられた時に嫌な感情を持たなかった人はいないのではないでしょうか。けれども、自分が子どもを持つと、どうしても他の子と比べてしまうようになるのです。
そこで、私たちが気づかなくてはならないのは、比較の世界に愛は入り込む余地を失うということです。能力を愛する、成功を愛する、比較の中で生まれる愛というのがあるのだとすると、それはどうしたって条件付きの愛です。ということは、条件が整わなくなった時に、愛することをやめてしまうのです。
もちろん、その人を愛するが故に、叱る、注意するということはあります。子どもの時のしつけというのは、これにあたるものです。けれども、これも人との比較の中でするものではありません。その人の為を思って語ることはあると思います。けれども、そこに比較が入り込んだ途端、その言葉は愛ある言葉ではなくなってしまうのです。 (続きを読む…)