2023 年 11 月 12 日

・説教 ルカの福音書9章51−62節「主イエスの決意」

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2023.11.12
召天者記念礼拝

鴨下直樹

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 今日は、召天者記念礼拝です。主のみもとに送った家族のことを覚えて、こうしてたくさんの方々がこの礼拝に集ってくださっています。

 特に、今日はこの礼拝の後、墓地で行われる墓地礼拝で3名の方の納骨式を致します。その亡骸(なきがら)を納骨堂に収めるのです。私たち、はそうすることで主のみもとに送った家族のことを思い起こし、彼らが主のみもとにいることを覚えようとしているのです。

 今、私たちの教会ではルカの福音書からみ言葉を聞き続けています。今日、この召天者記念の礼拝に丁度当たっている場所がこの箇所です。ここには、父親の葬儀をしたいと言っている人に、それは他の人にやらせなさいなど、主イエスが言われたということが書かれています。読んでびっくりされた方もあると思うのです。けれども、ここには今日私たちにとってとても大切なことが記されていますので、ぜひ、一緒にこのみ言葉に耳を傾けていただきたいと願っています。

 私たちは今日、天に送った家族や信仰の仲間のことを覚えて、この召天者礼拝に集っています。ここで私たちは、私たちに与えられた人生について一度立ち止まって考えようとしています。

 人の生涯というのは本当に不思議なものです。若い時は、自分がどんな大人になるのかと悩みながら人生を歩みます。大人になれば、自分の今の生き方が間違っていないのか、もっと意味のある生き方ができたのではなかったのかと不安になりながら、毎日を送ります。年をとっても悩みがなくなることはありません。自分の過去を悔いたり、今からでも充実した時間を過ごそうと、そこでも悩みを持ったりするのです。

 自分の生き方はこれで正しいはずだ、間違っていなかったと思えるのだとすれば、それは幸いなことと言えると思います。

 豊かな人生というのは、いったいどう生きることを言うのでしょう。豊かな人生というものがあるのだとすれば、それはきっと、神からあなたの生き方はこれで間違いないとお墨付きをいただくことができる人生でしょうか。人は神様からそう言っていただいてようやく平安を抱くことができるのだと思うのです。しかし、それにはどうしたら良いのでしょう。

 今日の聖書の箇所は、主イエスの生涯の中でも、重要な局面を迎えた時のことが記されています。51節にこのように書かれています。

さて、天に上げられる日が近づいて来たころのことであった。イエスは御顔をエルサレムに向け、毅然として進んでいかれた。

 ここに「天に上げられる日が近づいて来たころ」とあります。主イエスが、ご自分の死を意識するようになった時のことが、ここから書かれているのです。つまり、ここからの主イエスの歩みは死に向かう歩みであり、それが始まったということです。

 これは余命宣告を受けた時のようなものだと言ってもよいかもしれません。以前、この教会にホスピスケアの働きをしておられる柏木哲夫先生をお迎えして、講演会をしたことがあります。私はその時に聞いた話を今でも忘れることができません。

 柏木先生はその時、「余命宣告を受けた方は、はじめはそれを受け入れるのにとても動揺してあらがうのだけれど、一週間ほど過ぎると誰もがみな何か吹っ切れたような状態になる」という話をなさいました。そして、人は自分の死を受け入れた時に、その人はそこから新しく生きるようになるのだという話をしてくださいました。これは私にはとても印象的な言葉でした。

 余命宣告を受けて自分の死を受け入れるというのは、簡単なことではないはずです。けれども、それを受け入れた時に、残された時間をどう使うか、そこに集中するようになるというのは、分かる気がするのです。

 主イエスはここで「イエスは御顔をエルサレムに向け、毅然として進んでいかれた」とあります。少し不思議な言葉ですが、意図していることはわかると思います。エルサレムに行くというのは、この場合、十字架にかかりに行くということです。自分の死に向かって覚悟を定めて、ひたすらに進んでいこうとするということです。

 もともとの言葉は「エルサレムに向けて進む」と書かれています。これは直訳すると「顔を固くする」ということです。もうその一点だけを見つめるということです。それで、「毅然として」という言葉を補っているのです。

 主イエスは、自分の人生を豊かなもの、意味あるものとするために一点を見つめて進むことにした。そう書いているのです。

 私たちもその思いはよく理解できると思います。「よし、この進路に進もう!」と決めた時に、腹が座ってその目的のために勉強するとか、資格を取ろうとするとか、そういう決断をするのだと思うのです。ところが、そのように決めた途端、私たちの人生というのはさまざまなことが起こるのです。上手くいかない壁にぶち当たることを経験するのです。

 それは、主イエスも同じです。53節を読むと、「サマリア人はイエスを受け入れなかった」と書かれているのです。

 主イエスはこれまでもずっと、虐げられている人、困っている人、病気の人、まさに救いを必要としている人たちを支えるために、彼らの傍を歩んでこられました。時に、サマリア人というのは、イスラエル人の中でも最初に道を踏み外してしまった12部族の中の10部族の人たちのことです。この人たちをユダヤ人たちは見下していました。けれども、主イエスはその人たちのことを大切に思っておられるので、その土地に足を延ばされたのです。

 この人たちのもとを訪ねられたというのは、このサマリアの人たちに寄り添いたいと思ったからです。けれども、主イエスの顔はエルサレムに向いていました。つまり、サマリアの人たちからすれば、このお方は自分たちの方を見ていないのではないかと感じたので、人々はイエスを受け入れられなかったと書かれているのです。もちろん、そんなことはないはずなのです。

 これはとてももどかしいことです。誰でもそうですが、目標も持つことが大切なのは理解できるのです。けれども、その時に目の前にいる人のことも見てくれなければ人は納得してくれません。そういう難しさを主イエスはここで味わっているのです。

 しかも、主イエスの思いを理解してくれるはずの弟子たち、ここでは弟子のヤコブとヨハネの兄弟までもが「主よ。私たちが天から火を下して、彼らを焼き滅ぼしましょうか」と言い出すのです。

 二週間にわたって、「こんなにもダメな弟子たち」という説教をしてきましたが、ここでも、弟子たちは相変わらず主イエスの愛の眼差しが理解できていないのです。

 ヤコブとヨハネからしてみれば「我々に正義があるのだから、敵は滅ぼしてしまいましょう」という理屈です。もちろん、これは主イエスの意図ではありません。けれども、こう考えてしまう弟子たちの理屈も、私たちにもよく分かることです。自分に正義があると思う時は、悪いのは相手ですから、悪いものはやっつけてしまっても良いという考えがどこかにあるのです。

 今の戦争もそうです。ハマスもイスラエルもそれぞれに正義を主張します。ウクライナとロシアも同じです。どちらにも、言い分があるのですが、それぞれ自分の方が正しいと思っているので衝突が起こるのです。親子間の諍いも、親子喧嘩も、友人同士の争いも、自分の言い分の方に正当性があると思えるから、あのエネルギーが生じてくるのだと思うのです。

 弟子たちがここで考えていることも同じです。このお方はキリストなのに、このお方がわざわざサマリアの人たちーイスラエルの人々が見下している人をわざわざ訪ねてあげたのに、その態度は何かという苛立ちが弟子たちの中にはあるのです。

 けれども、主イエスはそのような争いを終わらせるためにこの世に来られたのです。そのためにも、エルサレムに向かおうと決意されたのです。主イエスはここでサマリア人たちよりも、むしろエルサレムに思いが向いています。主イエスの顔が向いている方向はエルサレムだけなのです。つまり、この先に待ち構えている死を見つめているのです。

 そして、ここで弟子たちに「あなたがたにこのわたしの思いが、願いが分かるか?」と問いかけておられるのです。主イエスがここで示したいのは、主イエスの決意です。何よりも優先すべき、優先順位はこれだと示しておられるのです。

 このあと57節から3つの対話が出てきます。この対話はどれも、まさにこのこと、つまり主イエスの優先順位を表しています。

 最初の人は主イエスに「あなたがどこに行かれても、ついて行きます。」と言います。弟子としては100点の答えです。けれども、主イエスは答えられました。58節です。

「狐には穴があり、空の鳥には巣があるが、人の子には枕するところもありません。」

 主イエスはこう答えられて、私には住む家もないのだがそれでも大丈夫か? とその決意を問いかけておられます。

 次の人には、今度は主イエスの方から「わたしに従って来なさい」と声をかけています。先ほどとは逆です。ところが、今度の人はまず父を葬らせてくださいと答えます。すると、ここで主イエスは驚くようなことを言われます。

「死人たちに、彼ら自身の死人たちを葬らせなさい。あなたは出て行って、神の国を言い広めなさい。」

 まるで葬式をすることが悪いことでもあるかのようにも感じてしまう言葉です。もちろん、父を葬ることが悪いことだと言いたいわけではありません。先ほどもいいましたが、ここで主イエスは優先順位を明らかにしています。家族の死というのは、どうでしょうか? これは、私たちの一般的な考えから言えば、優先順位を変えてでも大事にすべき出来事だと思うわけです。会社などでもみな同意しているので、仕事や学校を休んで葬儀をし、家族と別れの時を持つのです。けれども、この世界でもっとも大きな出来事とも言える家族の死すらも、主イエスの大切にしているものの上には来ないのだということを、主イエスはここで明らかにしているのです。

 そうすると、最後に出てくる対話では、葬るというほどのことではないのですが、お別れの言葉を家族に伝えるのはどうですか? という問いかけが出てきます。これから主イエスに従って行きますので、その前に家族に別れの挨拶をさせてくださいと言っています。今なら何の問題もないことです。けれども、それに対しても主イエスはこう答えられました。62節です。

「鋤に手をかけてからうしろを見る者はだれも、神の国にふさわしくありません。」

 そのように答えられました。こんなにも厳しいのかと思ってしまいます。驚くような厳しい言葉です。なぜ、主イエスはここでこんなにも厳しいことを言われるのでしょうか? それでは、主イエスにとってそこまで言うほどの最優先事項はいったい何なのでしょうか?

 これまでは「エルサレムに向かうこと」とか「死」と言ってきましたが、この対話の中で主イエスは「神の国」と答えています。まず、大事なのはこの「神の国」に人々が入れるようにすることだと主イエスはここで答えておられるのです。

 この「神の国」とは一体何でしょうか? 神の国というのは「天の御国」とか「天国」と言われてきたものと同じです。ギリシャ語で神の国のことを、「バシレイア・トゥ・テウー」と書きます。最後の「テウー」は「神の」という言葉です。そうすると「バシレイア」は「国」ということになるわけですが、これは「支配」とも訳すことのできる言葉です。

 「国」というと、どうしても国土がある場所のことをイメージします。「支配」というのは、反対に「影響力」というイメージがあると思います。

 聖書が語っている神の国というのは、この神の「国土」というイメージと「影響力」という二つのイメージを持った言葉です。ですから、「死んだら天国に行きます」とよく言いますけれども、それは「国土」のイメージ、どこか遠い天に人の住める場所があるというイメージですが、この言葉は同時に、神様が支配してくださっている、神の影響力の中にいるという意味合いもあるのです。

 誰々が教会に通うようになってクリスチャンになる、という言い方をすることがあります。これは、神様の影響力の中で生きるようになったということです。「神の国」の中で生きるようになったということです。ですから、その時、その人はもうすでに神の国の中で生きていると言えます。

 クリスチャンになるのは死後に天国に行けるようになるということではないのです。生きている時から、もう神の国、天国で生きているのです。だから、反対に言えば、生きている時から神の支配の中にいましたから、死んだ後ももちろん神の国、神の支配の中に生かされています。ですから、故人はすでに天国にいますよ、神さまのみもとにいますよということを絶対的な確信を持ってご家族の方にお伝えすることができるわけです。

 そして、主イエスの優先順位は、まず人々がこの神の国の中に入れるようにしないといけない。そのためには、わたしがエルサレムに行って、十字架にかけられ、自分が死ななければその道は開かれないから、今はまずこのことに集中したいのだ、とここで言っておわれることが分かるのです。

 今日は、召天者記念礼拝です。今日私たちは、先に召された家族や、共に信仰の歩みをした方々のことを心に留めようとしています。この方々は、この世にあってすでに神の支配の中を歩んでこられましたから、死を迎えたあとも、間違いなく神の国、天の御国で今、完全な喜びと平安の支配する神の世界にいるのです。このことを一緒に覚えて喜び合うのです。そして、お互いに安心して、平安の中で故人のことを思い起こすことができる日なのだということを、一緒に心に刻もうとしているのです。

 はじめにお話ししたように、私たちは、一人一人それぞれの人生を歩んでおります。いつも、不安を覚え、これでよかったのだろうか、もっと色々できたのではなかったかと悩みながら生きています。けれども、私たちにはこの「神の国の福音」が与えられています。

 主イエスは私たちと寄り添いたいと思っておられて、そのことを私たちに伝えるために、エルサレムに向かい、十字架の死を迎えられました。私たちは生きている間に犯してしまう過ち、失敗、罪、神の前に赦されないような行いの数々をしてしまう者です。けれども、主イエスはそれを全部背負ってくださって十字架で死んでくださいました。だから、主イエスのあの十字架の死が、私のための死であったのだと受け止める時に、主イエスの命が、私たちの人生をすっかりと包み込んでくださるようになるのです。

 そう信じた時、そのメッセージを受け止めた時、私たちは神の支配の中に生きる者とされるのです。これが、神の国の福音です。この神の国の知らせは、主イエスにとって、何をおいてもまず第一にしなければならない最優先事項でした。これがないと、安心して家族の葬儀もすることができないからです。神の支配がないと、家族と別れることも不安ばかりが残ることになるのです。

 私たちがこの神の支配の中に生きるなら、自分の人生に失敗があったとしても、神が受け入れてくださっているから、これで大丈夫なのだと、自分の人生を受け入れることができるようにもなるのです。

 私たちの主は、私たちが一人も悲しい思いのままで死を迎えることがないように、自分の人生を後悔しないように、生きてほしいと願っておられるお方です。そのために、主イエスは神の支配の中で安心して生きることのできる平安を知ってほしいと願っておられるのです。そのために主のみ顔は、エルサレムの一点を向いておられるのです。

 この主にあって、私たちはこの日、主のみもとに送った家族が、主の支配の中で天の御国で完全な平安の中を、与えられた神のいのちの日々を過ごしていることを確信することができるのです。

 お祈りをいたします。

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