2010 年 4 月 2 日

・説教 「主は弱さのうちに」 イザヤ書53章

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 —聖金曜日 受難日礼拝説教—

 

鴨下直樹

まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった。たが、私たちは思った。彼は罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと。 (イザヤ書53章4節)

 

 この日、主の受難日に、主イエスは私たちの病を負い、私たちの痛みをになってくださいました。あの十字架の上で主イエスはこの言葉の通りになされたのです。

 私たちの病、私たちの痛み。それは、私たちに課せられた永遠の苦しみであるはずのものでした。しかし、そのような永遠の苦しみを、主イエスは負ってくださったのです。私たちは、病にしろ、痛みにしろ、そのような苦しみは負いたくないと思います。もし、そのようなものがあったなら、少しでも早くそのような病から、苦しみから解放されることを願います。耐えることはつらいことだからです。苦しむことは耐えがたいことだからです。なぜ、辛いのか、なぜ耐えられないのでしょうか? なぜ、苦しみから少しでも早く解き放たれたいと願うのでしょうか?

 

 その理由は簡単なことです。それは、私たちが弱いからです。

 

 けれども、不思議なもので、私たちは病から早く自由になり、痛みから少しでも早く解放されたいと願うのに、自分は弱い人間であるということについては、拒みたいのです。そうではないと思おうとします。

 弱い人間はダメな人間だと思うのです。そのために少しでも強い人間でいたいと思うのです。立派でありたいと願うのです。痛みとはいつも遠く離れた所にいたいと思うのです。

 

 預言者イザヤは語ります。

 「だが、私たちは思った。彼は罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと。」(4節)

 私たちは、主イエスが十字架の上で私たちの重荷を負ってくださっているのに、あたかも一人事のように、彼は罰せられたのだ。神に打たれたのだと考えているのだと言います。

 預言者は続けて語ります。

 「しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。」(5節前半)

 彼が、主イエスが十字架の上で苦しまれたのは、私たちの罪のためであったと。十字架の上で、主イエスはあたかも弱い者のようにしてその苦しみを、虐げを受けておられるのです。

 彼は痛めつけられた。彼は苦しんだが、口を開かない。ほふり場に引かれて行く小羊のように、毛を刈る者の前で黙っている雌羊のように、彼は口を開かない。(7節)

 まるで抵抗することのできない小羊のように、主イエスは弱い者の姿をとっておられる。誰一人、なりたくないと思うそのような弱い者の姿。それが、十字架の掛けられた主イエスの御姿でした。

 

 フランスのコールマールという小さな街の美術館にグリューネバルトが画いた祭壇画があります。この祭壇画はもともとイーゼンハイムというコールマールより20キロほど離れた街の修道院の礼拝堂の中にあったものですが、今はコールマールのウンターリンデンという美術館におさめられています。この美術館に行きますと、奥の部屋にこの祭壇画が置かれ、多くの人々がそこで長い間足を止めて、この絵を見いっています。

 この大きな祭壇に描かれた十字架に磔にされている主イエスの姿には、人が心惹かれるようなものは何もありません。弱く、惨めで、醜く、ただ苦しみと痛みとが描き出されているだけです。それは、「死」そのものの姿といってもいい。生き生きとしたものはどこにも描かれていないのです。誰も、なりたいとは思わない姿がそこにはあります。十字架の死、それは敗北者の姿であるかのようです。

 けれども、その祭壇画の前にたたずむ者は、誰もが不思議な経験をそこでするのです。誰もがそこで足を止めるのです。そこで身動きが取れなくなってしまう。その絵の前で、誰もが静かな対話を始めるのです。なぜ、このお方はこんなに醜いのか。なぜ、これほどの苦しみを負わなければならなかったのか。人々はそのように問うのです。

 

  よくその体を見てみると、体全体が病に冒されています。ペストです。この絵が描れた当時、何百万人もの人々がペストで命を落としました。家族を失い、友人を失い、近所の知り合いを失う経験を誰もがしました。当時の人が見れば、この病はペストだと誰にでも分かったのです。この絵が描かれた当時、この絵は今日よりも多くの衝撃を人々にもたらしたに違いないのです。

 私の家族も、友達も、近所の人も、みなペストによって、あの恐るべき病、恐るべき痛みによって死んでいった。あるいは、今私が犯されているこの病、と思いながら見た人もあったかもしれません。その人々はこの絵の前で望みを見出すことができたのです。

 そうだ、この病は、あの人たちの病、あの友の痛みであっただけではなかった。主イエスもこの病を、あの痛みを担ってくださったのだ。主イエスの完全なる弱さ、病に対して立ち向かうことのできなほどの弱さの中に、人々は心惹かれていったのです。

 

 「彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。」(5節後半)

 病に耐えること、痛みに耐えることは勇気のいることです。弱さの中に立ち続けることは難しいことです。しかし、主イエスはそれをなさいました。十字架の上で、自らの命をすりへしながらそれをしたのです。

 

 このお方は、完全なる弱さの中に立ち続けられたのです。

 そしてそれは、何という力強さなのでしょう!

 私たちはここで、すべてが逆転してしまっていることに気づくのです。

 

 このお方は、自分の命をお捨てになることができるほど弱さに徹して生きられた。誰にもできないような、そのへりくだりの姿を見る時に、誰よりも力強い姿を見るのです。

 

 しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。(5節)

 

 主イエスの十字架を仰ぎ見るものは、いつの時代にあっても、このお方は、わたしのために十字架にかかって下さった。この私の痛みを、苦しみを担うために主はそれをしてくださったということを知ることができるのです。今日、グリューネバルトの祭壇画を見る者が、その絵から慰められるように、今でも、私たちはこの主イエスの十字架によって慰めを受けることができるのです。

 

 主イエスは、あなたを、あなたの人に晒すことのできない弱さを担うために十字架にかかってくださったのです。この十字架は、ひとえにあなたのための十字架、わたしのための十字架です。ここに、私たちの救いはあるのです。ともに、主イエスの十字架を見上げつつ、祈りをささげましょう。 お祈りをいたします。

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