2025 年 11 月 23 日

・説教 マルコの福音書8章11-21節「弟子たちが悟ることを期待したイエス」

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2025.11.23

内山光生

イエスは言われた。「まだ悟らないのですか。」  

マルコ8章21節

序論

 今日は、一年に一度の子ども祝福式礼拝です。イエス・キリストが子どもたちを愛し、祝福されたように、子どもたちが神様から祝福を受ける存在だということを確認することができればと願います。また、大人の方々も、子どもたちを喜んで受け入れ、また、愛のある言葉をかけて頂けると幸いです。

 さて、今日の箇所では、主イエスの弟子たちが、イエス様がどういうお方なのかを悟ることができていなかった事が記されています。それで、イエス様の口から少しばかり厳しい言葉が出ているのです。けれども、イエス様の願いは、弟子たちがイエス様がどういうお方なのかを悟るようになる事であって、そのことを考えるとき、イエス様の言葉が愛に基づく発言だと言えるのです。

 イエス様が弟子たち一人ひとりの事を心から愛していたのは明らかなことです。そういう前提があって、弟子たちもイエス様を心から慕っていたのです。そのような人間関係が成立していたゆえに、多少厳しめの発言であっても、弟子たちは、イエス様の言葉を受け止めることができたのです。

 私自身、子どもの頃に、しばしば親に叱られた事を思い出すのです。叱られた時、自分が良くないことをした事を自覚し、それなりに反省するのですが、翌日、また同じ過ちをする。そんな事を何度も何度も、いや何十回も繰り返していたのを思い出すのです。一方、自分が親となった時、今度は子どもを叱る立場へと変わりました。子どもを愛する気持ちがあるのは当然なのですが、子どもが問題を起こす時に、感情が揺れ動くのです。そんな時、見て見ぬふりをするという方法があります。しかし、そのままの状態で大人になったならば、まるでモンスターのような、迷惑をかける人間になりかねない。それで、言うべきことは言わざるを得ない。そんな事を繰り返していくのです。

 人間は立場が変わると、ようやく、自分自身が何者なのかについて気がつくようになります。つまり、叱られる側にいる時は、「なんでそんなに私を責めてくるの。」と相手に対する不平不満な感情が出てくるのですが、一方、叱る側に立つ時、「どうして、あの人は、自分の問題行動を変えることができないのか。」と相手が変わろうとしない事に苛立ちを覚えるのです。

 私自身が子ども時代に親から叱られていた時、「納得できない、もっと優しく言ってほしい」と思うことがありましたが、親の立場になって、ようやく、子どもの頃の自分が、いかに親の言うことを聞かない人間だったのか気づかされ、それを注意してくれた親に感謝を覚えるようになったのです。

 ところで、イエス・キリストは、完全に聖いお方であり、全く罪を犯しませんでした。けれども、弟子たちが、ご自身が伝えようとしている事を悟っていない事で、厳しく接しておられます。これは、あくまでも、弟子たちを愛していて、そして、福音がどういう意味なのかを悟ってほしいがゆえの言動だということを心にとめておきたいのです。

 それでは聖書を順番に見ていきます。

I 主イエスを試みようとするパリサイ人たち(11~13節)

 11~13節を見ていきます。

 11節にパリサイ人たちが出てきています。この人たちは、イスラエルの民に対して宗教的な事柄を教える立場でした。イエス様が登場するまでは、彼らが中心となって、旧約聖書の教えを伝えていたのでした。けれども、その中身は、神様の願いとは異なる方向に向かっていました。

 聖書が示している神は、私たちを愛して下さっています。その愛の現れとして、救い主、すなわち、イエス・キリストを遣わして下さいました。神は、イエス・キリストを通して、私たちを救い出すことを計画しておられたのです。

 ところが、パリサイ人たちは、主イエスのことを救い主だと認めることができませんでした。彼らの考えと主イエスの教えには大きなギャップがあったからです。パリサイ人たちは、様々なルールを作り出していき、そのルールを守ることが大切だと考えていました。一方、主イエスは、それらのルールは人間が作り出したものであって、守る必要がないと主張しました。

 その考えの違いから、パリサイ人たちは、「このままイエスを野放しにしておくわけにはいかない。」と考えました。そして、イエス様を論破するために、何度もイエス様のもとに行き、議論を繰り広げていったのです。今回、彼らはイエス様に対して「天からのしるし」を求めたのでした。彼らの目的は、主イエスを陥れることでした。そして主イエスは、彼らが悪事を働こうとしていることを見抜いていました。それで「今の時代には、どんなしるしも与えられません。」と答えたのでした。

 イエス様は、イエス様に対して心を開こうとしている人、イエス様に助けてもらいたい、と願っている人に対しては積極的に「天からのしるし」として、病気を癒したり、驚くべき奇跡を行いました。一方、イエス様に対して否定的な態度を取っていたり、受け入れようとしない人々の間では、一切、奇跡を行わなかったのでした。そもそも奇跡というのは、私たちが願ったから起こるというものではなく、あくまでも、神様のご計画において、必要に応じて起こっているのです。ですから、神様のみこころならば奇跡が起こる訳で、反対に、神様のみこころでない場合は、奇跡は起こらないのです。

 確かに、私たちが自分たちの個人的な目的を達成するために「神様、奇跡を起こしてください。」と祈ることは控えた方が良いのです。けれども、他の聖書箇所を読んでいくと、しるしを求めることが必ずしもいけないとはいえない出来事も記されています。

 例えば、旧約聖書の士師記の時代にギデオンという人物がいました。彼は、気が弱くて、神様からの命令に従おうとしませんでした。勇気が出てこなかったからです。それで神はギデオンにしるしを与えたのでした。しかも、2回もしるしを与えたのでした。その結果、ギデオンは神様が自分に力を与えてくださると信じることができ、勇気を出して、前に進んで行ったのです。

 そのように、神は必要に応じて「しるしを求める人」に対して、しるしを与えるお方なのです。もしも、神のみこころにかなった願いであるならば、神はそれに応えてくださるのです。

 イエス様は、心の中で悪いことを考えていたパリサイ人たちの要求には応えませんでした。そして、舟に乗って別の場所に移動されたのでした。

II パン種の意味を理解できなかった弟子たち(14~16節)

 14~16節に進みます。

 順番が前後しますが、15節を見ていきます。ここではイエス様は弟子たちに対して「パン種には気をつけなさい。」と命じられています。「パリサイ人のパン種」は、当時の宗教的指導者たちに注意しなさい、との意味があります。また、「ヘロデのパン種」とは、この世の価値観に染まっている政治的指導者に注意するように、との意味があります。いずれも、この人たちの考えの影響を受けると、イエス様が伝えようとしている福音が心に入りにくくなる危険がありました。

 前置きでお伝えしたように、パリサイ人たちは、自分たちの教えを守ることを大切にしていました。彼らのルールを守っているならば、神様に喜ばれる、そう考えたのです。この考えは、聖書が示している福音とは異なる考え方となります。私たちクリスチャンは、「私たちの行いによるのではなく、ただただイエス様を信じる信仰によって救われる」と信じています。一方、多くの宗教では、「良い行いをすれば救われる」と考えるのです。この考えは、特別に何かの宗教を信じていない人々の間でも、ある意味、当然の事だと考えている人が少なくないのです。いや、すでに福音を信じた人であっても、「良い行いをしなければ天国にいれてもらえない、かもしれない。」と心配するのです。

 この「パリサイ人のパン種」つまり、行いによって救われるという考え方は、人間の感覚としては違和感を感じないし、その方が分かりやすいと考える人が多いのです。それゆえ、影響力が大きく、放っておくと、いつの間にか教会全体が「行いがなければ救われない」という考えに染まってしまう危険がありました。実際、キリスト教の歴史を見る時、「行いがなければ救われない」と言っていた時代があるのです。それゆえ、イエス様は弟子たちに対して「くれぐれも気をつけなさい」と命じられているのです。

 そして、もう一つ、「ヘロデのパン種」がどういう事なのかを考えていきます。ヘロデといえば自分の欲に溺れていた王様だと言われています。例えば、彼は結婚していたにも関わらず、別の女性を好きになって、その人を自分のものにしていた事に対して、批判を受けていました。けれどもヘロデは自分の過ちを認めようとしなかったのです。このような態度というのは、放っておくと周りに悪影響を与え、ついには、多くの人々が似たような過ちをするようになる。だから、「くれぐれも気をつけなさい。」と命じられているのです。

 私たちの神は、愛のあるお方です。私たちが罪を悔い改めるとき、赦しの宣言をして下さるのです。だから、自分の罪に気づかされた時に、イエス様の十字架に心を向けていくのです。そうすれば、心が平安で満たされるのです。何度も何度も同じ過ちを犯す弱い私たち、しかし、神様は私たちが悔い改める時、何度も何度も赦して下さるのです。

 さて、主イエスの弟子たちは、今までにイエス様から様々な教えを受けてきたはずです。だから、「パリサイ人のパン種とヘロデのパン種」という言葉が出てきたならば、「あ~、こういうことを言っているに違いない。」との推測がてきてもよさそうなのです。ところが、弟子たちは、主イエスの言わんとしていることを理解できなかったのでした。

 16節にあるように、弟子たちは、今、自分たちがパンを一つしか持っていないことで、その事を注意されているに違いない、と思ってしまったのです。イエス様は「パン種」と表現しています。ところが弟子たちは「パン」の事を言っていると誤解してしまったのでした。

 家族との会話においても、あるいは、友人との会話においても、しばしば、誤解をされたり、あるいは、誤解をしてしまうことがあるかもしれません。言葉の響きが似ていたりすると、どうしても勘違いをしてしまうのです。笑って聞き流せる内容ならばそれでいいのですが、今回の場合は、イエス様はとても重要な事を伝えようとしています。ですから、彼らの誤解を解いておく必要があると考えたのです。

III-1 弟子たちを弟子たちを悟らせようとする主イエス(17~18節)

 17~18節に進みます。

 イエス様は弟子たちに「まだ分からないのですか、悟らないのですか。」と厳しい言葉を発しています。更には「目があっても見ないのですか。耳があっても聞かないのですか。」としつこいくらいに、弟子たちをあおっています。

 前置きで説明したように、これはイエス様と弟子たちとの間で、信頼関係があるがゆえに出てきている言葉です。また、イエス様は弟子たちを心から愛していて、大切なことをきちんと理解してもらいたいと願うがゆえの厳しい言葉なのです。ですから、この部分だけを抜き取って「イエス様って意外に厳しいお方なんだ」と考えるのではなく、「厳しいけれども、愛に基づく発言なんだ」と受け止めていきたいのです。

 さて、イエス様は、弟子たちがイエス様に言わんとしていることを悟ることができるようにと、今までに起こった出来事を思い起こさせようとしています。

III-2 五千人のパンの事を思い起こさせる(19節)

 19節に進みます。

 この箇所では、5つのパンから5千人の人のお腹が満たされる程にパンが増えていった奇跡の事を思い起こさせています。その時、余ったパン切れが12かごにもなったのでした。

 弟子たちは、この強烈に印象に残る出来事をきちんと覚えていました。どれくらいのパンが余ったかも、答えることができたのでした。

 そして、更にイエス様の質問が続いていきます。

III-3 四千人のパンの事を思い起こさせる(20~21節)

 20~21節に進みます。

 20節では、7つのパンから4千人の人のお腹が満たされる程に、パンが増えていったという奇跡の事を思い起こさせています。その時、余ったパン切れが7つのかごにいっぱいになったのでした。

 この出来事は、つい先ほどに起こったものであって、彼らが忘れているはずがなかったのです。ところが、弟子たちは、2つの大きな奇跡を体験していたにも関わらず、イエス様が伝えようとしているその意味を見出していなかったのでした。

 イエス・キリストが行われた奇跡は、皆、何らかの目的がありました。単に「すごい事が起こった。」という印象を与えるだけでなく、その出来事から霊的真理を伝えようとしているのです。そして多くの場合、イエス様ご自身がその意味を説明するのではなく、それを体験した人々が、自分の頭で考えて、「あ、イエス様は、こういうことを伝えようとしているんだ」という事に気づかせようとしているのです。

 ある人々は、「どういう意味なのかをきちんと説明してほしい。」と思うのです。ところが、聖書は奇跡の起こった意味については、聖書を読む人が自分自身で考えて、答えを見いだすように促しているのです。残念ながら、人間の知恵に頼っていては、その答えを見いだすことはできないようです。聖霊が私たちのうちに働く時、その時、イエス様が人々の前で行った奇跡にどういう意味があったのかを悟ることができるようになるのです。

 ですから、「意味が分からない。」と感じる人がいましたら、祈れば良いのです。「神様、この聖書に書かれている事の意味が分かりません。どうか、理解できるようにして下さい。」この祈りは、かなりの確率で聞かれる祈りです。私自身も説教の準備をするごとに、祈り続けていて、今までの奉仕が守られてきた。そういう祈りだと言えるでしょう。

 さて、21節でイエス様は弟子たちに「まだ悟らないのですか。」と問いかけています。それに対して、弟子たちは、すぐには悟ることができませんでした。先ほど、聖霊が働く時に理解できるようになる、と伝えました。つまり、イエス様が天に昇られ、その後、助け主である聖霊が人々に下った後で、弟子たちは、イエス様の行った数々の奇跡の意味を悟ることができるようになっていくのです。

まとめ

 聖書に書かれている内容は、一度聞いただけでは意味が分からない、そういう部分があります。初めて聖書の話を聞いた時というのは、ほとんど意味が分からなかった、そういう印象を持つことは、よくあることなのです。私自身も初めて読む聖書箇所となると、すぐには意味が分からない場合もあります。

 イエス様が生きておられた時代、主イエスの弟子たちは、直接、イエス様から教えを受けていました。でも、彼らがその教えの意味を理解できるまでには、ある程度の時間がかかりました。何度も同じような教えを聞いてたけれども、本当の意味を悟るまでには至っていなかったのです。

 ところがある時、イエス様の約束通りに彼らの内に聖霊が住んでくださいました。その直後に、彼らは今までに体験してきたイエス様による数々の奇跡の意味、そして、イエス様ご自身が救い主だった、ということに目が開かれていったのでした。

 心の目が開かれる。心の耳で聞き取る。そのような状態になる事を期待してイエス様は弟子たちに対して「まだ悟らないのですか。」と言われたのでした。

お祈りします。

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