・説教 ルカの福音書18章1-8節「諦めない祈り」
2025.06.01
鴨下直樹
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今日の聖書の冒頭にこうあります。
いつでも祈るべきで、失望してはいけないことを教えるために…
これまでの信仰の歩みの中で祈ることをやめたという経験があるでしょうか? 「祈ることを諦めた」という経験です。信仰の歩みの中で私たちはさまざまな祈りをします。そういう中で、祈りがきかれないということを経験していくと、信じるのをやめる、疲れる、飽きる、だれてくる、そういう経験をすることが時折起こり得ます。この「諦め」というのは、お祈りというようなことでなくても、ごく身近な経験として、たとえば応援している野球チームや、サッカーのチームが負け続けて、今年は、優勝はないなと諦めるということもあるかもしれません。そういう日常的なものから、自分の大切な進路や、目標や、夢を諦めるというとても厳しい決断ということもあると思います。
諦めるというのは、それまで張り詰めていたものが突如失われる経験です。目の前に迫る現実に飲み込まれていく。何回も挑戦してみたけれどもダメだった。お祈りしていたけれどもダメだった。信じていたけれどもダメだった。そういうことが起こります。
もちろん、諦めなくてはならない場合もあると思います。それは悪いことばかりではありません。それまでこだわってきたことを諦めて、新しい可能性に挑戦するチャンスでもあるはずです。そうすると、諦めても仕方がない場合と、諦めてはならない場合とがあるということかもしれません。
あるいは、自分の忍耐力がなくて、待つことができなくて、耐えることができなくて、戦ったり、努力したりすることが苦手で、諦めるという場合もあるでしょう。戦えない、抵抗するということが性格的に難しいということもあるかもしれません。そこにはいろんな理由があります。抗うことはみっともないことだという考えがあるかもしれません。あるいは、自分は他の人とは違うから、そんなに戦い続けられないのだということもあるかもしれません。あるいは、自分が求めるものが、時代にあっていないものだからスパッと諦めた方が良いのだと感じたというようなこともあるかもしれません。
諦めてもよいことであれば、それはそんなに問題ありません。ものには大小というものがあります。大きな志もあれば、小さな志もあります。だいたい、子どもの頃からわがままがひどくて、諦めることばかりを言われてきたなんてことだってありうるわけですから、諦めることが常に悪いというわけでもないはずです。
主イエスはここで諦めない祈りについて教えておられます。ここで主は私たちに何を語りかけておられるのでしょうか。
今日の主イエスの譬え話は、弟子たちに祈ることを教えるものです。しかも、諦めない祈りというのがこの箇所のテーマです。ただ、私たちはそう聞くと、すぐに頭の中で「お祈りが叶えられる方法のこと」をここで教えていると思ってしまいがちです。
有名なバスケットの漫画で「諦めたらそこで試合終了です」という監督の名ゼリフがあります。知っている方も少なくないと思います。諦めさえしなければいつか必ず、願いを、祈っているものを手に入れられる。この譬え話はそんな話だと理解されがちかもしれません。しかし、先にお話ししておくと、ここで主イエスが話しておられる譬え話は、諦めなければ必ず願うものを手に入れられるのだというテーマの話ではありません。
主イエスが譬え話をなさるとき、それは常に「神の国の譬え話」です。この話は、神の国を伝えているのであって、私たちの願いごとを達成する祈り方のレクチャーではないのだということを、はじめに断っておきたいと思います。
ではこの主イエスの譬え話はどういう話なのでしょうか? 内容をみていきたいと思います。
まず、2節から5節に主イエスがなさった譬え話が記されています。
登場人物は二人、神を恐れず、人を人とも思わない裁判官と、うるさく訴え続けるやもめです。やもめは誰かに不当な訴えをされているのでしょう。けれども、自分ではどうすることもできず、裁判官に裁きをしてもらうよう訴えているのです。ところが、裁判官の方は、取り扱ってやるつもりがありません。人を人とも思わない裁判官だというのです。憐れみの心がない人物、それがこの裁判官です。反対に、このやもめというのは、自分のことを守ってくれる人が誰もいない存在です。そうなると、正当に裁判をしてもらえなければ、自分で自分を守ることすらできません。完全な弱者です。そして、そのやもめがひっきりなしに裁判官のところにやってきては、裁判をしてほしいと訴え続けたようです。
そして、ついに、裁判官は「うるさくて仕方がないから、彼女のために裁判をしてやることにしよう。」と思うようになったというのです。
この5節の最後の言葉には「私は疲れ果ててしまう」と書かれています。新改訳聖書はここに註がついていまして、註を見ると「私の顔をたたき続けることになる」と書かれています。これは少し面白い言葉で、もともとは「目の下を拳で打ち叩く」という言葉です。まるで、ボクシングでもしているかのように、毎日毎日やってきては、裁判をして欲しいと訴えることで、顔にクマができてくるようなダメージを負っていくというニュアンスの言葉です。このままではノイローゼになってしまうから仕方がない。そんな雰囲気の言葉です。
話としては、この譬え話はそれほど難しい話ではありません。諦めないで祈り続けるなら、その祈りはきっときかれる。そんな話のように見えるわけです。
そこで、主は6節で「不正な裁判官が言っていることを聞きなさい。」と言われました。ここでこの不正な裁判官が言っているのは「そうでないと、ひっきりなしにやってきて、私は疲れ果ててしまう。」という言葉です。
問題は、そのあと主イエスが何と言っているかです。7節と8節を読みます。
まして神は、昼も夜も神に叫び求めている、選ばれた者たちのためにさばきを行わないで、いつまでも放っておかれることがあるでしょうか。あなたがたに言いますが、神は彼らのため、速やかにさばきを行ってくださいます。だが、人の子が来るとき、はたして地上に信仰がみられるでしょうか。
今日の箇所は、前回の17章の神の国はいつ来るのか、人の子はいつくるのか、この箇所に続く箇所です。ここから人の子の来られるときというのは、「再臨」のこととどうしても読んでしまいやすいのですが、ここで大切なことは「すでに」と「未だ」というこの二つの時間の緊張関係の中にあるということです。
というのは、人の子であられるお方は、主イエスのことですから、この時代にすでに来られているわけです。けれども、今この時点でというだけではなくて、「未だ」の部分、「やがて将来に」という意味もここには含まれています。そのことを理解して読むことが必要です。
この18章で祈るように求められている中身は何かというと、「人の子が来られること」です。あるいは「神の国がこの世界にもたらされること」です。神が約束された救い主が来られると、そこから神の支配がはじまります。いつもお話しすることでもありますが、それは、「イスラエルの国が回復すること」ではなくて、「神が共にいてくださること」を意味しています。
ということは、今弟子たちは人の子であられる主イエスが共にいてくださるわけですから、イスラエルの人々が祈り求めていた結果が、すでに実現しつつあるわけです。
それが、この7節で語られている「選ばれた者たちのためにさばきを行わないで、いつまでも放っておかれることがあるでしょうか。」ということの答えです。人々の祈りの結果として「すでに」主イエスは来られているのです。選ばれている民のために神は主イエスを遣わしてくださったのです。ということは、そこで「速やかに神のさばきが行われる」ことになるはずです。
ですからこれは、死後の最後の審判の話というよりも、その前に主イエスが来られているわけですから、主イエスを受け入れるか、受け入れないかによって、そこで神の裁きが行われるようになることになるということをまずは意味していることになります。
そうすると、この最後の8節の言葉、「人の子が来るとき、はたして地上に信仰が見られるでしょうか。」も、将来のことを考えるよりも、むしろこの時点で、「はたして信仰がみられるでしょうか?」と問われていることをまず優先して考える必要があります。
この譬え話に登場するやもめは、真実がおこなわれることを願い求めました。正義がおこなわれることを祈り求めました。それが、たとえ、不正な裁判官であったとしても、神を恐れず、人を人とも思わない裁判官であったとしても、裁判官である以上、裁判をしてくれるはずだと信じました。だから、訴え続けたわけです。ここに、やもめの信仰があります。諦めなかった理由があります。裁判官の人となりが問題なのではなく、裁判官という立場がある以上、この人は裁判を行う必要があると信じて訴え続けたのです。
そして、裁判官も、別にこの人におもねる必要はないと思っていたわけですが、これだけしつこいと、自分にダメージがくるから仕方がないと、裁判を行うことにしました。
この譬え話で祈り求めるように語られているのは、「神の国が来ること」であり「人の子がおいでになられること」です。この思いというのは当時のユダヤ人たちの願いでした。神の国が来て、人の子、救い主が来られれば自分たちは救われるのだと考えたのです。そして、この祈りの通りに主イエスはこの世においでになられたのです。神の国がこの世界にもたらされること、人の子がこの世にこられることは、神の願いでもあります。だから、神は、このように祈り求める時に、その声に耳を傾けて神の国をもたらし、人の子である主イエスを遣わしてくださったのです。
この祈りはイスラエルの国が国を奪われてから何百年もの間祈り続けられてきた人々の願いでした。預言者のイザヤやエレミヤが、その他多くの預言者たちが、イスラエルの人々に語り続けてきたことでした。人々は祈り続けてきましたが、時に諦め、時に希望を見失い、祈りをやめてきてしまったのです。けれども神は、この祈りをかなえられるタイミングを待っておられたのです。そして、まさに神の時に、主イエスがこの世界に与えられたのでした。
今も、私たちは再び主イエスがおいでになられることを祈り求めています。神の御国が、神のご支配がこの世界に訪れることを祈り求めています。戦争があり、災害があり、経済的困窮があり、人々がどんどん自分勝手になっていく世の中にあって、神の御心が行われるように、祈り続けています。目の前の現実が変わらないどころか、どんどん悪くなる一方の中にあって、私たちは祈ることをやめてしまいそうになります。諦めてしまいそうになります。けれども、私たちの主は、この世界に福音をもたらせたいと願っておられるお方で、私たちの主こそが、この世界に神の国をもたらしたいと願っておられるお方です。ですから、私たちもまた、このやもめと同じように、主に期待し続けて祈り続けるのです。
私たちの個人個人の願いが叶えられることが大事なのではありません。私たちは神の国が訪れること、人の子が来られることを祈り求めるのです。
戦争を終わらせてください、政治の混乱を終わらせてください、経済の困窮を終わらせてください、神の国が来ますように、神の愛がこの世界を支配するようになりますようにと祈り求めるのです。
そして、私たちの主は、私たちが祈ることを待っておられるのです。
先週の礼拝の時に私は能登震災を経験された住職の話を聞いたという話をしました。起こったこの大きな悲しい出来事、災害も、「縁である」と言われていました。何度も続く災害の経験から、「心が折れるんだ」という話をしておられました。でも、その厳しい現実を受け入れながらも、そこでどう生きるかという話でした。そんな中で、自分の心の中にある思いは、この厳しい現実という流れの中に身を浸しながらも、心はこれを乗り越えたがっている。そういう自分の中に生まれる思いと向き合いながら生きてゆくのだという話をなさいました。それは私にはとても印象的な話でした。
また、私はその話を聞いた二日後の先週の月曜日には、能登で災害支援の働きをしておられる「能登ヘルプ」の方々を、岐阜県基督教連合会の総会の席にお招きして、お話を伺いました。昨年の正月に起こった能登の震災では、これまで全国で災害の時に働きを続けてこられた、東北や九州の災害支援のチームの人たちが、今回も能登の人々を助けてくださり、そういう人たちの援助を受けながら、今もなお人々に寄り添いながら、能登で災害支援の働きをしているというお話でした。石川県というのはここから距離は少し離れていますが、すぐお隣の県です。ここで全国の教会から集められた物資を、地元の自治体と協力して、人々を助ける働きを今もなお続けておられるのだそうで、岐阜で何かあればいつでも協力するなんていう話もしてくださいました。
まさに、このような被災地での大きな祈りは「御国がきますように」という祈りなのだと思わされました。「既にと未だ」という話をしましたが、今すでに助けが、救いが必要だという部分と、けれども、本質的にはまさに、被災している人々がこの神の救いを知って、神の国に生きるようになるようにという祈りがあることを覚えさせられました。
先ほど、私たちは「御国が来ますように」という賛美を歌いました。これは、今月の賛美となっています。今日の聖書は、まさにこの「御国が来ますように」という祈りに生きるということです。神の救いである神の支配は、今、ここにいる私たちにとって必要な助けです。けれども同時に、この救いは「未だ」完成してはいません。やがて、完成される神の御国に生かされることまで視野に入っている必要があります。目の前の問題が解決するだけでなく、その先も、それこそ、死を超えてもなお確かな平安に生かされることが必要です。この「御国が来ますように」という祈り、神のご支配を求める祈りというのは、私たちは諦めないで祈り続ける必要のある祈りです。なぜなら、私たちの主は永遠を支配しておられるお方だからです。
神が与えてくださる救いというのは、その生活がどんな状況であろうとも、神が一緒にいてくださるという安心を受けることです。私たちの主は、私たちと共に歩みたいと願っておられるお方なのです。そして、この主が私たちと共にいてくださることを救いと言います。また、このような救いのことを神の国と言います。この神の御国、神と共に生きる平安こそが、今も、そして将来も、私たちに確かな安心を与える救いなのです。
お祈りをいたします。
