2025 年 6 月 8 日

・説教 マルコの福音書6章6-13節「十二弟子の派遣」

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2025.06.06
聖霊降臨祭・ペンテコステ

内山光生

また、十二人を呼び、二人ずつ遣わし始めて、彼らに汚れた霊を制する権威をお授けになった。  マルコ6章7節

序論

 今日はペンテコステの日です。イエス・キリストは弟子たちに対して、ご自身が天に昇った後で「助け主」が来られると予告していました。そして、その予告通り、弟子たちが一つの場所で祈っている時に、助け主、すなわち聖霊が下ったのでした。この聖霊が下ったことを記念してキリスト教の世界ではペンテコステの日が定められているのです。

 聖霊が弟子たちに下った後、弟子たちは聖霊の力を受け、大胆に福音を伝えるようになりました。少し前までの弟子たちは、イエス様が逮捕された時に、イエス様の元から逃げ去るような弱々しい姿が描かれていました。しかし、聖霊が下った後では、まるで別人のようになって、人々からの非難や悪口があったとしても、また、逮捕され牢屋に入れられたとしても、それでもイエス様の福音を語ることをやめないほどに変わっていったのでした。

 この聖霊の力は、今も、私たちに注がれ続けていて、まだイエス様を信じていない人々が救われるよう世界中で福音が宣べ伝えられているのです。

 さて、今日の箇所は、弟子たちによる福音伝道の旅についてです。この時点では、イエス様の弟子たちは、まだ聖霊の力を受けていませんでしたが、しかし、イエス様から特別な権威を授けてもらうことによって、力強く福音宣教を繰り広げていく、そういう場面です。

I 十二弟子の派遣(6~7節)

 まず6~7節を見ていきたいと思います。

 前回の場面では、イエス様が故郷ナザレの人々に受け入れてもらえなかったという事、そのため大胆に福音を伝えたり、奇跡を行うことができなかったことが記されていました。故郷の人々がイエス様に心を開かなかった事は、イエス様にとって驚きとなりました。しかし、イエス様は頭を切り替えて別の村々に行き、福音を伝えたのです。

 そして、いよいよ新しい段階へと移っていくのでした。今までは、イエス様が中心となって福音を伝えつつ、癒しのみわざをなしてきました。しかし、イエス様一人だけではわずかな町や村にしか伝道活動をすることができません。それで、もっと多くの町や村で福音を伝えるために、ご自身の弟子たちを遣わすことにしたのです。

 イエス様の弟子たちは、すでにイエス様がどのような福音を伝えていたかを学び取っていました。イエス様が言われた内容をすらすら言えるほどに、何度も聞いてきた事でしょう。更には、イエス様が汚れた霊を制している場面を何度も何度も見てきた事でしょう。イエス様は、これらの権威を十二弟子たちにお授けになったのです。

II 持ち物の制限(8~9節)

 続いて8~9節に進みます。

 これから始まる伝道旅行は、特別な意味が込められていました。それは一言で言うと「イエス様に信頼しているかどうかが問われる旅」と言えるでしょう。

 イエス様は弟子たちを遣わす際に、持ち物を制限するよう命じられました。杖1本は持っていっても良いとされましたが、それ以外の旅に必要と思われる「パンや袋や小銭」さえも持って行かないようと、命じられたのです。ただし、履き物や下着1枚は許可されたのでした。

 このような持ち物の制限は、今の時代の私たちにとっては不可能と思われる命令です。もしもこれをそのまま実行しようとしても、ほとんどの人が挫折を味わい「二度と伝道旅行に行きたくない」という気持ちになるのが目に見えています。ですから、私たちはこのような箇所を読むときに、当時の習慣がどうであったのか。そして、イエス様がこのように命じられた意図は何だったのかを読み解く必要があるのです。その上で、今の時代の私たちに何が語られているかを考えていくのです。

 どうやらイエス様の時代においては、旅人をもてなすという習慣があったようです。ですから、全く初対面の人であっても旅人だと分かると「私の家にぜひ泊っていってください」と言って下さる人が一定数存在したのです。また、当時ユダヤ人が住んでいる町には、必ず一つのユダヤ人会堂があって、そこには会堂司がいましたので、聖書の解き明かしをする人に対しては食事の世話をしたり宿泊させるのが当然とされていたのです。

 ですから、今の時代の私たちが考える程、厳しい条件とは言えなかったのです。ただ、それにしても、杖1本と履き物と下着1枚だけというのは、まさに、誰かの助けがなかったならば飢え死にしてしまうという緊張感があったと思われます。

 イエス様は、弟子たちが神様に信頼するようになることを願っていました。そのことをはっきり分かってもらうために、敢えて、最低限の持ち物で伝道の旅へと向かわせたのです。
 神様は、今の時代の私たち一人ひとりに対して「あなたは神様を信頼していますか。」「もし信頼しているならば、必要最小限の持ち物であっとしても、イエス様がそうおっしゃるなら、その言葉に従いますか。」と問いかけているのです。

 現代の人々は、何か大きな活動を始める時に、きちんと準備をし、また、様々なトラブルを乗り越えることができるために十分な知識を得た上で、「これなら大丈夫」と思えた時に前に進もうとするのです。特に、何か新しい事業を始める時には「計画書」というものがあるかどうかが問われるのです。きちんと練られた計画が立てられていて、しかも、経済的な見通しが立っている事によって、前に進んでいくことができるのです。もしそうでなかったならば、誰も相手にしてくれない、それが今の時代の常識となっているのです。

 あるいは、中高生が受験をする際にも十分に勉強をしてきた事によって、その実力に応じて、どこの学校を受験するかを選んでいく、そういうものなのです。

 また、どこかに旅行に行くならば、ある程度は計画を立て、更には、持ち物に関しても必要だと思われるものをコンパクトにまとめて鞄に入れ、現金だけでなくキャッシュカードや電子マネーを持っていき、下着や靴下なども必要枚数を持っていくのが常識なのです。

 ところが、イエス様が十二弟子を福音伝道の旅に遣わす時に、この世の常識とは正反対のことを命じられたのです。もちろん、当時の習慣からすれば、決して不可能な命令だとは言えません。しかし、それでも弟子たちの中には、「すこしぐらいお金を持たせてほしい。」「下着1枚では足りないよ」という気持ちになっていた人がいたかもしれません。でも、このイエス様が命じられた持ち物制限によって、そして、それを実行することによって、むしろ、「イエス様の言われた通りにしたら、うまくいった」という経験を積む絶好の機会だったのです。聖書には、はっきりとは書かれていないものの、恐らく、弟子たちは大きな反発をすることなく、素直にイエス様の命じられた通りに最小限の持ち物だけで伝道の旅に出かけたのでしょう。

 では、今の時代の私たちはイエス様が弟子たちに命じられた内容を通して、何を学び取ることができるのでしょうか。

 言えることは、福音を伝える働きというのは人間の知恵や努力を超えている部分があるということ、その前提にたって伝道活動を広げていく時、神様との信頼関係が深められていくということです。この世の知恵を持っている人々は、それらの知恵に頼って伝道活動をする傾向があるかもしれません。しかし、どれだけ人間の知恵を用いても、神様に対する信頼が伴っていない時、結果的には大して実を結ばないことが予想できるのです。むしろ、「自分には知恵がない」と自覚しつつも、しかし、神様から知恵が与えられると信仰を働かせ、自分たちにできる最大限の事をなしていく時、人々が救いへと導かれていくことを期待することができるのです。

 私自身も今まで見聞きした伝道の働きを思い起こす時、伝道を始めた頃は十分なお金もなく、また働きを支えてくださる仲間も少なかったけれど、しかし、着実に救われる人々が増えていったという証しを色々な場所で聞くことがありました。反対に、初めから十分に人材やお金が与えられていて、それで伝道がうまく行ったんだ、という証しはそれ程多くはないのです。もちろん、すべては神の御手の中にあって伝道が繰り広げられていくので、どれが正解なのかについては、私たち人間では判断できないのですが、今日の箇所で言わんとしていることは、とにかく神様に信頼する姿勢があるかどうかがポイントとなっているのです。

 イエス様がパンや袋や小銭を持って行かないように命じた事は、ある意味、厳しいと思われるかもしれません。しかしながら、聖書は「神様に信頼する時に、生活に必要なものはすべて与えられるんだ」と言うことを、私たち一人ひとりに伝えようとしているのです。そして、実際に神様から与えられる恵みを体験することによって、神様との信頼関係が深まっていくのです。

 「神様との信頼関係が深まっていく事」これが神の願いであって、そのためには、思い切って自分たちの知恵や経験を一旦横に置いたり、あるいは、経済的に十分な見通しがたっていなかったとしても、しかし、思い切って神様に委ねる、そういう導きというのもあるんだ、という事を心の片隅に置いておくと良いと思うのです。

III 同じ家にとどまる事(10節)

 続いて10節に進みます。

 ここには、一つの場所にとどまることの大切さが教えられています。当時は旅人をもてなすことが普通に行われていました。それで、同じ村の中であっても「私の家に泊ってほしい」「いや私の家にしてほしい」といった感じで、誰の家に泊るのかを巡ってトラブルが生じる可能性があったのではないかと推測できるのです。あるいは、もてなされる立場の弟子たちの心の中に「最初の家よりも隣の家の方が良いもてなしをしてくれそうだ」と目移りする、そんな誘惑が出てくる可能性があったのです。

 それゆえ、イエス様は初めから「最初の家に入ったなら、その家にとどまりなさい。」と命じられたのです。この命令が何を意図しているのでしょうか。それは「神様が与えてくださっているものに満足すること」を学ばせる、そういう意図があったと考えられるのです。

 私たち人間というのは、どうしても以前の体験と比較をしてしまうという性質があります。「あそこの家で招かれた時の食事はおいしかった。」そういう記憶があると、次に別の家に招かれた時は、それと同じか、それ以上においしいものでないと感動しなくなっていくのです。そして、もし仮にあまりおいしくないものが出てきたならば、「あそこの食事は口にあわなかった」と否定的な感情が残ってしまうのです。

 しかしながら、イエス様が弟子たちに伝道旅行に遣わした目的というのは、自分たちがおいしい食事を提供してもらう事ではなく、一人でも多くの人々が福音を信じるようになる事なのです。ですから、誰かの家に招いてもらえたならば、そのこと自体が感謝な事であって、そこで提供される食事がどのようなものであっても、神様に感謝をすることが期待されていたのです。

 同じように、私たちも、誰かに招かれたならば、招かれたという事実に感謝をささげるべきであって、そこで出される食べ物の内容がどうであったかに心が振り回されることがないように注意することが大切なのです。

 ここには私たちが伝道活動をする時の大切な教訓が示されています。私たちの肉の性質では、どちらの方が良かったかと比較してしまう弱さがあります。どうしても過去の記憶と比較してしまうのです。けれども、そのような思いが心に湧き出てきた時にこそ、イエス様が弟子たちにどのような事を命じられたのかを思い出すと良いのです。伝道していくという事は、必ずしも良い体験をするとは限らないのです。時には十分な食事がなかったり、熟睡できる環境でない場合もありうるのです。けれども、パウロがどんな境遇でも対処する方法を心得ていたと証ししているように、もてなされる家の状況がどうであれ、私たちがなすべきことは「福音を伝える事」そこに心を集中させるのが良いのです。

IV 受け入れない場所に対して(11節)

 続いて11節に進みます。

 イエス様がご自身の故郷ナザレの町の人々に受け入れてもらえなかったように、弟子たちが福音を伝えたとしても、ある町では福音を受け入れてもらえない可能性がある事を伝えております。人はあらかじめ、どのような可能性があるかを知っておくことによって、傷つきにくくなるのです。
それゆえ、イエス様のこのアドバイスは弟子たちが必要以上にショックを受けないための配慮ある言葉なのです。

 今の時代の私たちも、本気で伝道しようとすると必ずといっていいいほど、福音を受け入れてもらえなかったという経験をすることとなります。私自身も友人に福音を伝えても受け入れてもらえなかった経験を何度も繰り返しています。とても寂しい思いになったり、自分の伝え方が下手だったのかもしれないと自分を責める気持ちが出てきたこともあります。しかしながら、大切な事は自分たちの方から強引に福音を信じるようにと詰め寄ったり、相手が嫌がっているにも関わらずしつこく福音を伝えることは避けた方が良いのです。

 イエス様が語られたみことばの中に「豚に真珠を投げてはいけません。」があります。ことわざにもなっています。そして、一般的に知られている意味では「価値のわからない者にどんな貴重なものを与えても無駄になる」ということです。しかしながら、イエス様が言われた意味は、「聖書の言葉を受け入れようとしない人には、それ以上語る必要がない」ということなのです。

 ですから、私たちは福音を受け入れようとしない人に対しては、無理に押し付けようとするのではなく、そっとしておけば良いのです。その上で、別の人々に福音を伝えていく、それの繰り返しなのです。イエス様は「足の裏のちりを払い落としなさい」と言われました。これは当時のユダヤ人の習慣で、異邦人の村から戻ってきた時にする行動です。この行動によって、あの町の人々は神の民ではなかったです、との証言をするようにと命じられたのです。

 私たちクリスチャンは、多くの人々が救われてほしいと願って伝道活動をするのですが、その思いとは裏腹に、全く相手にされないという経験をするのです。残念だけれども、私たちの努力ではどうすることもできないことを味わうことになる。しかし、そこで自分たちを責めるのではなく、単純に「今は、あの人たちはイエス様を受け入れる事ができない状態にある」という現実を受け止めていけば良いのです。しかしながら、もしかしたら、3年後あるいは10年後はどうなるか分からないということを心に留めつつ、別の人々に福音を伝えていけば、それで良いのです。

 人がいつどこで福音を信じて神の民の一員にさせて頂けるかについては、すべてが神の御手の中にあるという事で、私たちの知恵や努力を超えたところにあるのです。私たちは神の導きの一つひとつを受け止めていく、それが神に信頼する人々の態度なのです。

V 使命を果たした弟子たち(12~13節)

 12~13節に進みます。

 ここには、弟子たちが、イエス様に命じられた事を実行した時に、彼らが大胆に福音を伝えたということ、すなわち、「悔い改めて、福音を信じなさい」と宣べ伝えた事が記されています。また、イエス様によって力あるみわざを行う権威が与えられ、その権威によって悪霊を追い出したり病人を癒すことができた事が記されています。

 ここには、イエス様が十二弟子を遣わして、彼らが自らの口で福音を伝え、自らの手で病人を癒すことができたということが示されております。

まとめ

 まとめにいきたいと思います。十二弟子が初めて伝道旅行に遣わされた時、イエス様は持ち物を必要最小限にとどめるよう命じられました。これは当時としては、不可能な事ではなかったにせよ、弟子たちの中には不安な気持ちがあったのではないかと思われます。けれども、神様が必要なものをすべて与えてくださるとの確信を持つために、彼らには必要な経験だったのです。

 この出来事を通して神様が私たちに伝えようとしている事は、あくまでも「神様に信頼しなさい」ということであって、イエス様が弟子たちに命じた事を文字通りに実行することではありません。けれども、私たちが伝道をしていく際に気を付けることは、自分たちの知恵や経済力にだけ頼って何かを成そうとするのではなく、もちろん、人間の知恵やお金が必要なのですが、しかし、それらに全面的に頼るのではなく、いつどのような時でも、神様の助けと導きによって人々が救いに導かれていくという事実に目を留めたいと思います。

 伝道活動というのは、私たちが神様に信頼した上で、神のみこころの通りになるようにと祈りつつ前に進めていく時、多くの収穫を味わる事ができるのです。すべてが神の栄光にあることを覚えましょう。そして、これからも神様は芥見教会を通して、また世界中の教会を通して、人々が救いに導いて下さることに期待をいたしましょう。

 お祈りいたします。

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