・説教 マルコの福音書6章14-29節「悲しみを通して教えられる事」
2025.06.15
内山光生
主の聖徒たちの死は主の目に尊い。 詩篇119篇15節
序論
今日は父の日です。普段、ご家庭において父親の存在がどれ程、感謝に値することなのかを考えることが少ないかもしれませんが、年に一度の父の日は、しっかりとお父さん方に感謝の言葉をかけて頂けると良いかと思います。
さて、今日の箇所には「バプテスマのヨハネが殺害された事」について記されています。バプテスマのヨハネは、旧約時代の最後の預言者と呼ばれています。そして、イエス・キリストが人々の前で福音宣教の働きをする少し前に、イエス様の道備えをした預言者です。人々からも尊敬されていて、力強く神様の教えを人々に伝えた立派な預言者だったのです。ところが、ヨハネは悲しい最期を遂げたのでした。
人は誰かが死んだという知らせを聞くと、悲しい気持ちとなります。私たちは、人の死に対して悲しみや辛い気持ちになってしまうのです。それが、たとえ昔の時代の人の話であったとしても、やはり、悲しい気持ちが出てくるのです。
聖書を読む多くの人々は、バプテスマのヨハネが殺されたという箇所を読む時、悲しい気持ちや複雑な感情を抱きます。そして、「神様、なぜこんな酷い殺され方をしたのですか。その理由を教えてください。」との気持ちが出てくるのです。ヨハネだけではありません。旧約時代の預言者たちも、同じように、神様に仕えていたにも関わらず迫害に遭い、殉教の死を遂げた人々が存在します。また、新約時代においても、十二使徒の中で一人を除いて、他の11人すべてが殉教の死を遂げたと言われています。直接、聖書の中には書かれていませんが、他の文献によって、そのように伝えられているのです。その事実を知る時、多くのクリスチャンは心が痛む、そういう思いにさせられるのです。
神様に仕える者が殉教の死を遂げる、この事実に対して、ある人々は「それをどのように受け止めていいか分からない」と考え、キリスト教に失望したと発言する人々がおられます。そんな神様なら信じない方がましだ、と言い張るのです。私は、彼らの気持ちは半分は理解できるのですが、しかし、もっと聖書をきちんと読んでから、そして、イエス様の伝えた福音をしっかり学んだ上で判断してほしいと思うのです。
今日の説教題は「悲しみを通して教えられる事」です。私たちは悲しい出来事が起こると、一時的に苦しい状況に立たされ、そのただ中にある時は、すぐには神様に対して希望を見出すことができないことがあるかもしれません。しかし、時間がかかったとしても最終的に「すべてのことを益として下さる神」に賛美をささげる者となるよう神様が導いて下さるのです。そのことに目を向けていきたいと思います。
I イエスに対するヘロデの考え(14~16節)
では14節から順番に見ていきます。14~16節は、イエス様がどなたなのかについて、当時の人々の考えとヘロデ王の考えについて記されています。
イエス・キリストによって伝えられていた福音は、ガリラヤ地方とユダヤ地方全域に広められていきました。それで、ついにユダヤの国の王ヘロデにも、イエス様のうわさが伝えられたのでした。この時、すでにバプテスマのヨハネが殺された後でした。
それで、ある人々はイエス様が語られる福音や奇跡のみわざを見て、バプテスマのヨハネが死人の中からよみがえったに違いないと考えたのでした。一方、別の人々は、イエス様の事を「預言者エリヤだ」と考えたのです。更には、別の人々は「昔の預言者たちの一人のような預言者だ」と言っていたのです。このように意見が分かれているものの、しかし、預言者だという点では一致していたのです。
そして、人々のうわさを聞いたヘロデ王は、イエス様の事を「私が首をはねた、あのヨハネがよみがえったのだ。」と言ったのでした。ヘロデ王は、バプテスマのヨハネを尊敬していたものの、しかし、自分の見栄やプライドが邪魔をして、不本意ながら、ヨハネの首をはねるように命じたのです。その後、ヘロデ王は自分のしてしまった事で、苦しみ続けていたのです。
誰がどう見ても、ヘロデ王がしてしまった事が正しくないことは明らかです。そして、ヘロデ王が苦しんでいるのは、ある意味、自分の蒔いた種の結果だと言えるのです。しかしながら、私たちは彼の犯した失敗を一方的に責め立てることができないのです。なぜなら、ヘロデ王の中にあった見栄やプライドというのは、私たち自身の心の中にもあって、そして、彼ほどの失敗をしないにしても、いつどこで間違った決断をするか分からない、それが私たちだからです。
また神は、たとえクリスチャンを迫害し石を投げつけるような酷いことをする人物であったとしても、しかし、神のみこころならば、そういう人でさえも救いに導くことができるお方なのです。ですから、私たちは自分の敵だと感じる人さえも愛することができるようにと神様に祈っていくことが大切なのです。
II バプテスマのヨハネを保護していたヘロデ(17~20節)
17節に進みます。17~20節には、ヘロデがバプテスマのヨハネを保護していたことが記されています。どうやら、バプテスマのヨハネは王という権威ある立場であったヘロデに対して、ヘロデが犯している罪をはっきりと指摘したようです。ヘロデは、こともあろうに自分の兄弟の妻を自分の妻にしていたからです。これはユダヤ人が大切にしている十戒の教えに反する行為でした。
バプテスマのヨハネは、自分の元に集まってきた人々に悔い改めるよう促しているだけでなく、ユダヤの王に対しても罪の悔い改めを促していたのでした。それで、ヘロデはヨハネを逮捕して、牢屋に入れたのです。しかし、ヘロデの視点からすればヨハネを保護していたというのです。
どういう事でしょうか。それは罪を指摘されていた当事者であるヘロデの妻となったヘロディアが、ヨハネに対して恨みを抱いていて、ヨハネを殺したいという思いになっていた。そのことを知っていたヘロデは妻のヘロディアによって殺害されないようにと、ヨハネを牢屋に入れる事によって保護していた、という事なのでしょう。
しばしば犯罪を犯した人が牢屋に入れられる事は、ある意味、被害者からの報復を受けないための保護という側面があると言われています。ヨハネは犯罪を犯した訳ではありませんが、しかし、敵対者から身が守られるという点では保護されていた、という見方もできるのです。
不思議なのは、罪をはっきりと指摘されたヘロデ自身に、ヨハネに対して憎しみの感情が出ていなかったという事です。むしろ、ヨハネの事を正しい聖なる人だと受け止めていたのです。また、ヨハネから教えを聞いて、喜んで耳を傾けていたのです。ここにヘロデとその妻ヘロディアとの受け止め方に大きな違いがあったのです。
人間の思いというのは、非常に複雑であって、色々なものの考え方があるのです。ヘロディアは罪を指摘された時、怒りの感情が出てきて、決して自分の過ちを認めようとしませんでした。また、ヨハネに対して殺意を抱いていました。その意味ではよくない人物の一人と見なされています。
一方、ヘロデについては、多くの人々には理解しがたい複雑な心理状況にあったと思われます。ヘロデは善悪を判断するための知恵は持っていたと思われます。けれども、自分自身の問題となると、冷静に自分を見つめることができていなかったようです。もしもヨハネの言っていることをきちんと受け止めていたならば、ヘロディアを妻にしていることがいけない事だと自覚し、その関係を断ち切るという決断をすることができたはずです。しかし、彼には反省している態度が何も見当たりません。その意味では、ヘロデもまた、良くなかったと言えるのです。
しかし、ヘロディアやヘロデの罪を裁くことができるお方は、神様であって、私たちではありません。その点は注意が必要なのです。むしろ、私たちはこのような人々の姿を通して、自分自身の中に隠されている罪があるかないかを思い巡らし、イエス様の十字架を仰ぎ見ることによって、自分自身の罪が赦されている事、つまり救われているという確信を持つのが良いのです。
III 軽率な誓いをしたヘロデ(21~23節)
続いて21節に進みます。21~23節までは、ヘロデが軽率な誓いをしてしまった事が記されています。ヘロデの誕生日の時に祝宴が開かれました。祝宴では、きっと豪華なごちそうが用意された事でしょう。それだけでなく、祝宴を盛り上げるために色々な出し物があったと思われます。その出し物の一つに、ヘロディアの娘が踊りを披露したのでした。この娘の踊りを見て、王だけでなく、そこに集っている人々も喜びました。それで王はきまえよく「何でも欲しいものをあげよう」と言ってしまったのです。「何でも」というのが本当に何でもだということを強調するために、ヘロデは「私の国の半分でも与えよう」と堅く誓ったのでした。
祝宴の席で通常よりも興奮状態にあったのでしょうか。ヘロデは大胆な誓いをしてしまったのです。これが結果的には悲しい出来事へとつながっていくのです。
イエス・キリストは山上の説教の中で「誓ってはいけない」と命じておられます。当時の人々はなんでも簡単に「誓います。」という習慣があったので、軽々しく誓うことに対して警告を発したのです。ですから、多くのクリスチャンは、「誓う」ことに対して慎重になるのです。もし誓うことがあるとすれば、洗礼式などでの誓いだとか、結婚式での誓いなど、ごく限られた場面でしか誓うことをしないのです。あるいは、本当に約束を守れるという内容でなければ誓うことをしないのです。これは、私たちが失敗を犯さないための知恵なのです。
ある人々は気分が高揚すると、大胆な誓いをする、そういう誘惑が襲いかかってくるかもしれません。人々の前で自分の気前良さを示す事によって、自分がいかに立派な人間なのかを示そうとするのです。たとえ自分が経済的に損をしたとしても、しかし、人々から注目を浴びるならばかまわない、そういう考えなのでしょう。しかし、ヘロデが失敗したように、軽々しく誓うことは、その人の人生に取り返しのつかない汚点を残す危険があるのです。
IV ヨハネの首を要求したヘロディアの娘(24~25節)
続いて24節に進みます。24から25節には、ヘロディアの娘が残酷な要求をしたことが記されています。この娘と母ヘロディアとの関係は、とても親密だったようです。そして娘はまだ精神的に幼かったように感じます。それで「何でもあげる」と言われても自分自身で何がほしいかを判断できなかったのです。それで母親のところに行き「何を願いましょうか。」と尋ねたのです。
母親は、普段から心の中にヨハネに対する殺意があったのでしょう。それで、迷うことなく「バプテスマのヨハネの首を」と言ったのでした。残酷なことを平気で要求したのでした。
イエス・キリストは私たちが心の中で思う悪い考えや憎しみなども、罪だと指摘してます。それゆえ、聖書は人が誰かに対して「あの人がいなくなってしまえばいいのに」と思う心が、すでに人を殺しているのと同じだと言っているのです。というのも、それが殺意へつながっていき、時には、本当に人を殺してしまうからです。
バプテスマのヨハネが殺害されていく背景には、ヘロディアの憎しみがありました。彼女は自分の罪を罪として自覚することができずに、それを指摘したヨハネに対して恨みを抱いたのです。これが結局のところ、悲惨な出来事へとつながっていき、当事者だけでなく、その出来事を知った人々の心を悩ませるのです。
「どうしてこんな事が起こるのですか。」「神様が正しいお方なのならば、なぜこんな理不尽な殺され方をする人がいるのですか。」との疑問は、ある意味、正しい社会であってほしいとの願いがあるゆえの真面目な人々の正直な意見なのです。
そして、私たちは、このような疑問に対して、必ずしもすぐに納得できる答えを見出すことができるとは限らない、ということを知っておく必要があります。
というのも、被害を受けた人々の家族や親しい友人というのは、ある一定期間は、どうしても悲しみから抜け出すことができない、そういうものなのです。いや、回復していくためには、きちんと悲しんだ方が良いと、心理学者は指摘しているように、悲しむべきときは、悲しむのが良いし、また、周りの人々もその悲しみを共有し合っていくことによって互いの関係が深まっていくのです。
そのような段階を経た上で、色々と思い巡らしていき、最終的に心が整理されていくのです。それはさておき、聖書の場面に戻ります。母ヘロディアと娘が心を一つにして、いよいよ、バプテスマのヨハネを殺すチャンスがおとずれました。娘は母の願いを知るとすぐに行動に移したのです。25節にあるように、少女は「今すぐに、バプテスマのヨハネの首を」と要求したのです。
V ヘロディアの娘の要求に応じたヘロデ(26節)
26節に進みます。
王ヘロデは、予想だにしていない事を要求され、心を痛めました。しかしながら、「国の半分でもあげる」と豪語していた直後であり、しかも、多くの人々が目の前にいるために正しい判断を下すことができなかったのでした。すなわち、不本意でありながらも、「ヨハネの首を持って来るように」と命じたのでした。
そして、ヨハネの首が盆に載せられて、少女に渡されたのでした。それで少女は母ヘロディアに渡したのでした。ヘロディアの願い通りになったのです。けれども、彼女は自分の要求した事がどれ程、残虐で罪深い事なのかを何も分かっていないのです。ヘロデは、心を痛めていて、そして、その後も罪責感によって苦しんでいます。しかし、ヘロディアには、そのような人間の心がなかったように見えるのです。今の時代でも、犯罪の加害者が罪意識を持っていないことはよくあることです。その結果、被害者が更に苦しむのです。それで裁判官は罪を自覚するようにと導こうとするのです。
もしも今の時代において、このような残虐な事件が起こったならば、人々はどのような反応を示すでしょうか。今はSNSを通していつでも誰でも自分の意見を世界中に発信することができるようになりました。それゆえ、昔ならば泣き寝入りしていた出来事であっても、自分に起こった悲惨な出来事を不特定多数の人々に知ってもらうことができる時代になりました。それが良いことなのかどうかの議論は置いておいて、そういう時代に入っているのです。
ですから、もしも残虐な事件が起こったならば、あっという間に、その出来事が広められていき、様々な意見が交錯する事でしょう。そして、ヘロディアのような罪深い人というのは、社会的には表に立つことができない程に非難を浴びせられる、そういうことになりかねないのです。
けれども、神様が私たちに願っていることは、ヘロディアやその娘を責め立てる事ではなく、彼女たちの残虐な姿を通して、私たち一人ひとりが自分の心の中がどうであるかを確認するよう促しておられるのです。もしも私たちの心の中にある悪意や敵意を放置しておくと、取り返しのつかないことになりかねない。それを避けるためには、早い段階で悪い考え方をイエス様の十字架によって取り除いてもらう必要があることを示そうとしているのです。
私たちクリスチャンが、聖書の教えに忠実な歩みをしようとする時、周りの人々から冷たい視線を向けられたり、仲間外れになったり、ときには面と向かって悪口を言われる事があるかもしれません。そんな時、相手に向かって怒りの感情を持ち続けるのではなく、むしろ、その人々を救うためにイエス様が地上世界に遣わされたんだということに目を向けていくのです。そして、隣人のために祈っていくのです。これは簡単には実行できることではありません。しかし、私たちがイエス様に心を向けていく時に聖霊の助けによって実行できるように変えられていくのです。
VI 墓に納められたバプテスマのヨハネ(27節)
最後、27節に進みます。
ヨハネの弟子たちは、悲しい知らせを聞きました。そして、遺体を引き取って墓に納めたのでした。まさに殉教の死と言えるでしょう。すでにお伝えしたように、聖書の中に登場している預言者たちやイエス様の使徒たちもまた、殉教の死を遂げたと言われています。そんな話を聞くと、キリスト教を信じるのをやめようと考えたり、あるいは、クリスチャンの中にも信仰が揺れ動いてしまう人が出てくるとも言われています。それほどまでに、ショックな出来事であり、また、疑問に感じてしまう理不尽な出来事なのです。しかし、なぜ殉教する人がいるのですか。あるいは、理不尽な仕打ちを受ける人がいるのですかという問いに対する答えというのは、残念ながら簡単に見出すことができないのです。
というのも、たとえ「こうこうこういう理由があるんですよ。」と説明したところで、すべての人々が納得できるような答えになるとは限らないからです。理屈で説明されて納得できるかというと、そうではなく、むしろ、一人ひとりが神に祈っていく中で、受け止めていくことができるかどうかの問題なのです。
まとめ
旧約聖書に登場する人物にヨブという人がいました。彼は祝福され家族にも恵まれていましたが、しかし、ある時、財産を失い家族を失ったのです。でもヨブは神様に対する信仰を捨てなかったのでした。そして、色々と悩んだ末に、苦難を受けている理由が分からなかったとしても、しかし、神様に感謝をささげる事が大切なんだという事に気づかされたのでした。
多くの人々は、どうして悲惨な出来事が起こるのですか、その理由が知りたい、と願うのです。そして、聖書の中から何らかのヒントを見出すことができる場合もあります。けれども、答えが見つからない場合もあるのです。しかしながら、答えが見つかったとしても、そうでなかったとしても、神様に感謝をささげる事の大切さを忘れずに信仰生活を続けていくことが重要なのです。
悲しみを通して教えられる事が何かと言えば、どのような状況に立たされていたとしても神様を神様として認め、神様に礼拝をささげていくことが私たちの喜びなんだ、という事に気づかされることにあるのです。神様を愛する事、すなわち、神様に感謝をささげ、神様に礼拝をささげる事、これに気づくきっかけとなるならば、悲しい出来事も意味のあることなのです。
お祈りいたします。