・説教 ルカの福音書18章9-14節「二人の祈り人」
2025.06.22
鴨下直樹
⇒ 説教音声の再生はこちら
今日の箇所には二人の祈る人の姿が描き出されています。パリサイ人の祈りと、取税人の祈りです。これは、主イエスの譬え話ですから、実際にあったかどうかは分かりません。けれども、ここに描き出されている二人の姿は、私たちにとって非常に現実味のある譬え話となっています。
人前でお祈りする時というのは、良くも悪くも緊張するものです。自分一人でお祈りするのとは違って、みんなが聞いているわけで、恥ずかしさが有ったり、自信が無かったり、変なお祈りをしていないかなと、気になったりするかもしれません。何か、お祈りの正解が分かれば準備もできそうなものですけれども、何が正解かもよくわからない。そんな思いを抱きながら、礼拝の献身のお祈りがあたるときには一週間心が重いという方もあるかもしれません。
そんな中で主イエスがお祈りの話をなさる。一方のお祈りは褒められているような感じですし、もう片方のお祈りはどちらかというと褒められていない。そうすると、ここでは何か参考になるようなことが言われているのか。そんな気持ちでこの話を聞くこともできるのかもしれません。
今日の冒頭の9節にはこう書かれています。
自分は正しいと確信していて、ほかの人々を見下している人たちに、イエスはこのようなたとえを話された。
この部分には、主イエスがこの譬え話をなさった理由が書かれているわけですから、とても重要な部分と言うことができるでしょう。そこで、考えるわけです。「ほかの人を見下している人たち」という部分に関しては、誰でも分かることですけれども、これは良くないと判断できます。ところが、前半部分、「自分は正しいと確信していて、」という部分は、それほど問題は無い気がするわけです。
お祈りをする時には、確信を持ってお祈りしたいと思うのではないでしょうか。礼拝の司式をする方は、教会祈祷の時にみなさん確信を持ってお祈りされます。その時に他の人を見下して祈るなんてことはないと思いますが、確信を持って祈るということは、大事なことではないかと思えるわけです。
確信を持っていることが良くないのだとすると、反対に謙虚であれば良いのかと考えてしまいがちです。ところが、この謙虚さというのも、一概に良いとも言えません。その最たる例として、「私は上手にお祈りできないので、お祈りの当番から外して欲しい」という思いを持つ方は少なくありません。しかし、これが謙虚な姿勢かというと、そういうわけでもないわけです。
謙虚さは美徳という部分はあると思うのですが、これも度が過ぎると良くない場面というのもあるわけです。では、主イエスはここで何をお語りになろうとされているのでしょうか。
まずパリサイ人の祈りから見てみたいと思います。11節と12節です。
パリサイ人は立って、心の中でこんな祈りをした。「神よ。私がほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦淫する者でないこと、あるいは、この取税人のようでないことを感謝します。
私は週に二度断食し、自分が得ているすべてのものから、十分の一を献げております。」
このお祈りは、一部を除けばとても立派なお祈りのようにも思えます。「この取税人のようでないことを感謝します。」の部分は余計な言葉な気がしますが、その他の部分はある意味では立派なところでもあります。きっと、こういうことに気をつけて生活しているから出てくる祈りだとも思うのです。人から奪い取ることはしない、不正は働かない、姦淫しない。週に二度断食をしながら祈りを捧げ、自分の収入の十分の一を聖書の戒めに従って献金している。立派なことだと言えると思うのです。それができない人がたくさんいる中で、自分が頑張っていること、ちゃんと出来ていることを神様の前で感謝するというのは、悪くない気もするのです。
パリサイ人というのは、聖書の教えをできるだけ厳密に守って生活しようとしていた人々の代名詞のようなものです。別に祭司やレビ人だけがなれるのではなくて、誰でもそういう正しい生活を志す人はパリサイ人になることができます。そういう意味では意識高い系と言いましょうか、誰からも一目置かれるような立派な人、高潔な人と言っても良いような人々です。それだけの犠牲を自分に課して、聖書の言葉と真摯に向き合って生活しようと志している人です。ですから、このパリサイ人たちの動機は悪くないのです。真面目な人です。尊敬される人です。むしろ、お祈りする時は、他の人の手本となるような人です。
しかも、ここに書かれているのはこれ見よがしに、みんなに聞こえるようにお祈りしたわけでもなく、「心の中で祈った」のです。
主イエスは、この祈りの何を問題としておられるというのでしょう。実は、はじめの9節に、すでにこの問題点が指摘されていました。ここにはこう書かれていました。
自分は正しいと確信していて、ほかの人々を見下している人たちに、
この「自分は正しいと確信していて」という言葉ですが、この「正しい」という言葉は「義」「ディカイオス」という言葉です。そして、確信するという言葉は「完了形」で書かれている「ペポイタ」という言葉です。これは、確信するとも訳されるのですが、「うぬぼれる」と訳す場合もあるし、「より頼む」という意味でも理解される言葉です。岩波訳の聖書ではそのように訳していますし、カトリックの言語学者である雨宮慧先生もおそらくそういう意味だと説明しています。自分で、自分を義であるとより頼んでいる。これは、どういうことかというと、神により頼むのではなくて、自分自身により頼んでいるという意味です。
そして、その次に書かれている「ほかの人々を見下している」というのは、「無視する」という意味の言葉です。自分のことしか見えていない、自己愛の塊のような存在として、このパリサイ人を描いているわけです。自画自賛する姿です。新改訳聖書の第二版では「自任する」となっていました。こちらの方が原文の意味をよく表していると言えると思います。
そうすると、この話は、譬え話でも何でもなくて、本当の話だということが見えてくるわけです。神が自分を認めてくださるのではなくて、自分で自分をこれで良いと判断してしまっている。そういう姿は、他の人を無視するようになっていくということまで、ここで描き出しているわけです。
本来、パリサイ人は礼拝に来て、お祈りしているはずなのです。神の前に出る時には、自分の小ささや醜さを覚えて、神の憐れみを求め、神の赦しを求めて礼拝するはずです。しかし、パリサイ人はここで、自分のすばらしさを誇るために、お祈りしているというのです。他の人を無視するどころか、一番肝心の神様を無視してしまっているのです。その姿を主イエスはここで問題にしておられるわけです。
そう言いながらも、私自身考えさせられます。言いながら自分の心が重くなってくる気がするのです。。「自画自賛」という言葉があります。自分で描いた絵を、自分で褒めたたえる。賛美する。その姿は実に滑稽です。ですが、うっかりやってしまうことが多いのです。自分はこんなに頑張っている。自分は、人一倍苦労している。誰も知らないかもしれないが、私は・・・という思いが私自身の中にもどこかにあるのです。その心の奥底には、認めてもらいたいという不安と不満が満ち溢れているのかもしれません。そして、そういう不安や不満な思いが、どこかで自画自賛する姿になって現れてしまうのです。自分は正しいと確信してしまうのです。
あるいは、パリサイ人のそのような思いというのは、ただの強がりなのかもしれません。そうしないと自分を保っていられないのかもしれません。
私は、このパリサイ人の姿の中に、自分自身を見出すのです。決して誇ることのできない自分を、それでも誇ることで何とか保とうという、必死な人の姿を見出すのです。それは、どうしようもない程に惨めな人間の姿なのだとも思うのです。
一方で、取税人の方はどうでしょうか。この取税人の祈りの姿が13節に描き出されています。
一方、取税人は遠く離れて立ち、目を天に向けようともせず、自分の胸をたたいて言った。「神様、罪人の私をあわれんでください。」
この取税人というのは、支配者であるローマのために同胞であるユダヤ人から税金を徴収する仕事です。そのため、同胞であるユダヤ人たちから嫌われていました。それが仕事なので、どうしようもない部分もあるのですが、周りからは売国奴呼ばわりされてしまいます。そういう仕事ですから、日常的に罪悪感がついて回ったのかもしれません。人によっては開き直って、仕事をした人もいたと思います。どうせ何をやっても嫌われるのだから、余計に税金を取るなんてことをした人もいたかもしれません。
ただ、この取税人は罪悪感に苛まれていた人のようです。天を仰ぐこともできず、遠くから祈る、いや、祈りにもなっていないのかもしれません。自分の心の苦しみに押しつぶされそうで、ただ、「神様、罪人の私をあわれんでください。」と口にするのがやっとの人です。その祈りにもならないような叫びが、この「神様、罪人の私をあわれんでください。」という祈りなのです。
この取税人の姿と、パリサイ人というのは、それほど大差があるわけではありません。罪に苦しんでいる人です。ただ、それを強がっているか、そんな自分に打ちひしがれているか、そんな違いしかないのかもしれません。けれども、そのわずかな違いであったとしても、主イエスからみると、そこには決定的な違いがあるのだと言うのです。
そこで、主イエスは言われるのです。14節。
「あなたがたに言いますが、義と認められて家に帰ったのは、あのパリサイ人ではなく、この人です。だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるのです。」
主イエスは、神が義と認められるのは、パリサイ人でなく、取税人の方だと言われるのです。この二人の祈りのどこが違うのでしょうか。それは神の前の自分の姿がイメージできているかどうかです。もっと言うと、神の姿が見えているかどうか、ここに決定的な違いがあります。
取税人は、自分を誇ることができません。謙遜に振る舞っているというのでもありません。他の人から見た自分は意識していないのです。そうではなくて、神の前に見える自分の姿が、ひどく醜く、自分の存在を見ないで欲しいとさえ願っているのです。
ですから謙遜と傲慢、どちらが良いのかという話ではありません。主のお姿が見えているかどうかということです。この取税人は、神が憐れみ深い方だと知っています。だから、神の前に小さくなりながらも、祈りにもならないような心の叫びのような祈りをしているのです。
「私を憐れんでください。」取税人が口にできるのはそれだけです。立派な祈りをしたということでもないのです。またこの祈りがお手本の祈りというわけでもありません。ただ、何とかして欲しいのですという切実な思いを訴えているのです。この祈りは、同胞から嫌われるような仕事を辞めたい、でも辞められない自分との葛藤の叫びなのかもしれません。あるいは、誰かとても貧しい人から税金を取ってしまって、その罪悪感で苦しんでいるのかもしれません。こんな私を憐れんで欲しい、何とかして欲しい、助けて欲しい。そう訴えながら神の憐れみにより頼んでいるのです。
自分は大丈夫だと言いたいわけでもないのです。自分の信仰が立派だと言いたいわけでもありません。惨めな人間の切実な叫びです。
けれども、主イエスはその祈りができるなら、それで十分、その自分の低さが分かっていれば、神はあなたを義と認めるのだとここで言ってくださるのです。
これこそが、福音です。これが、主イエスが私たちに伝えたい良い知らせなのです。神は、そんな低いところでうなだれているあなたを助けたいと思っておられるお方なのです。そのことを、主イエスは私たちにお伝えになりたいのです。ですから、たとえ私たちが立派な祈りができなくても、全然問題ありません。人に誇れるような生き方ができなくても、全然構わないのです。ただ、主はそのような打ちひしがれているあなたでも、神の前に安心して立つことができるのだということを知らせたいと願っておられるのです。
私たちの主は、憐れみ深いお方です。主は、私たちがその心の内を訴えることを待っておられます。そして、その祈りに応える準備がすでに主にはあるのです。この憐れみ深い主を見上げて、私たちは信仰の道を歩んでいきたいのです。
お祈りをいたします。