・説教 ルカの福音書17章1-10節「神のくださる安心」
2025.04.27
鴨下直樹
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今日の聖書の箇所は「つまずきが起こるのは避けられませんが、つまずきをもたらす者はわざわいです。」という言葉から始まっています。
「つまずき」というのは教会の中で、何度も取り上げられるテーマです。「教会殺すにゃ刃物は要らぬ、ただこの教会でつまずいたと言えばいい」と言った人がいます。なかなか核心をついた言葉ですが、私たちは苦笑いするしかありません。私を含め、皆さんもそうかもしれませんが、自分の言動が誰かにつまずきを与えたのではないかと感じる場面は、これまでに何度もあったのではないでしょうか? こういう言葉もあります。「牧師殺すにゃ刃物は要らぬ、この牧師には愛がないと言えばいい」。
私たちは信仰の歩みをしていく中で、何度も何度もつまずきを経験します。そして、それと同じように、何度も自分は誰かにつまずきを与えてしまったのではないかと苦しむことにもなり得ます。ここに、クリスチャンの悩みがある、そう言っても言い過ぎではないのが、この「つまずき」というテーマです。
しかもです。主イエスは2節で「その者にとっては、これらの小さい者たちの一人をつまずかせるより、ひき臼を首に結び付けられて、海に投げ込まれるほうがましです。」と言われたのです。
今はひき臼にお目にかかる機会も少なくなりました。和食レストランのサガミに行きますと、玄関先でこのひき臼が自動で蕎麦を粉にしているのを見ることが出来ます。大きな平らな丸い石を二つ重ねて、上臼を回すことで蕎麦を擦り潰して蕎麦粉にするわけです。おそらく、ひき臼一つで何十キロ、下手したら100キロ以上あるかもしれません。そんな石を首にくくりつけられて海に投げ込まれた方がましだと、主イエスが言われるのです。まるでヤクザ映画のようなセリフを、こともあろうに主イエスが言われたのです。この言葉を読んで、心中穏やかで無くなる人はたくさんあると思います。
誰かをつまずかせる人は殺された方がまし、こんなひどい言葉は無いと思うのです。もし、自分が誰かをつまずかせたとしたら、私は死んだ方がいいのか? そういうことにもなりかねません。そこで、一度落ち着いて考えるわけです。この「つまずき」という言葉は、そもそもどういう意味の言葉なのかと。先日の聖書の学び会でもそういう質問が出ました。
この「つまずき」という言葉は、ギリシャ語では「スカンダロン」と言います。この言葉を調べてみると、また面白い言葉なのです。この言葉は「抵抗」とか「誘惑」とも訳される言葉です。ところが、もともとスカンダロンというのは、落とし穴を掘って、そこに腐った肉を置いて獣を誘い寄せて、重い石で挟み込んで捕らえる罠のことなのだそうです。獣が餌を食べると石が動いて獣を仕留めるわけです。
そうだとすると、ここでいう「つまずき」というのは私たちが無意識のうちに誰かをつまずかせてしまうようなことではなくて、もっと意図的にやっているものだということが見えてくるわけです。そうならば、私たちは少しほっとするのかもしれません。人を誘惑に陥れるような罠を張るなんてことはよっぽど特別なことだと思えるからです。少なくとも自分が意図していない言動で誰かを傷つけてしまったというようなことを指している言葉ではなさそうです。
けれども主イエスは3節で「あなたがたは、自分自身に気をつけなさい。」と言っておられます。ということは、私たちがつまずきを与える可能性があることを主イエスは分かっておられることになります。主イエスは、ご自身の弟子たちや私たちには、誰かを陥れようと罠をしかけてしまうような弱さがあることをよく分かっておられるわけです。
そして、大事なのは、このあとの3節の後半から4節、ここがこの箇所の中心的な箇所です。そういう罠を張って人を陥れようとするような人であっても、その人がそのような罪を犯したら、まず戒めなさい。そして、悔い改めたなら赦しなさいと主イエスはここで言われるのです。この箇所のテーマは「赦しなさい」という部分にあります。
問題は、ひき臼を首につけられた方がましだと言われるほどに、人を陥れようとする罪人、そういう人が悔い改めた時に、赦すことができるのかということです。そういう問題に私たちは直面するわけです。先日の聖書の学び会でも「悔い改めの質」という言葉が出てきました。本当に悔い改めているかどうか、ちゃんと見極めないといけないという話になりかけました。例えば「性犯罪なんて再犯の割合が高いから、ああいうのはダメだ」とかという声も聞こえてきました。
そういう話をしていくと、赦せる場合もあるけれども、悔い改めの質を見極めて、「やはり赦せないものもあるよね」という話になってしまいます。そして、こういう話をしている時というのは、誰かを頭の中に置いて考えているか、あるいは架空の人物を想像するわけですが、その時に自分のことはあまり想像できていません。どうしても、誰か悪い奴のことを考えて、そういう人は赦されるべきではないという前提がどこかに存在しているわけです。
さて、この話はここから次の話題に進みます。その話を聞いた時に、弟子たちは考えたわけです。自分はそういう人を赦せるだろうか。それで、主イエスにこう言いました。5節。
使徒たちは主に言った。「私たちの信仰を増し加えてください。」
これは、とても面白い言葉なのですが、自分たちに信仰があることを前提として、でも、今の信仰ではまだ赦すという段階には進めそうにないので「信仰を増し加えてください」と主に願い出たのです。ここに、弟子たちの真面目さの一面が描き出されていると言えます。
「もう少し信仰的に成長できたら、赦すことができそうな気がするのですが・・・」と弟子たちは言うのです。それに対して主イエスが言われたのがまず6節です。
「もしあなたがたに、からし種ほどの信仰があれば、この桑の木に『根元から抜かれて、海の中に植われ』と言うなら、あなたがたに従います。」
主イエスのこの6節の言葉は、どういう意味で言っておられるのでしょうか? 弟子たちは信仰を増やしてくださいと言っているのです。ところが、主イエスはからし種ほどの信仰があれば、桑の木を海に移動させることもできると言われました。ということはつまり、弟子たちにはまだ、からし種ほどの信仰も無いのだと言っておられることになります。
こういう箇所でも、私たちはつい考えてしまいます。「じゃぁ私がお祈りしたら桑の木が海に移動するのか?」と。けれども、実際にお祈りしてみても、どう考えてもダメな気がするわけです。どうして、こんな極端な話を主イエスはなさるのでしょう。ひき臼を首に結び付けて海に投げ込むとか、桑の木が根元から抜けて海に植わるとか、かなり強烈な印象を残す言葉を使われています。そこから受け取る印象は、どちらかというと絶望的で、自分はダメな存在なのではないかという気持ちになります。
また、この5節のところで「使徒」という言葉が突然出てきます。読んでいて違和感を覚える箇所です。1節では「弟子たち」と言っているのです。ところが、5節では「使徒たちは」と書かれています。ルカがどうしてここで突然「使徒」という言葉を使ったのかよく分かりません。うっかり使ってしまのではないか、という人もいます。いずれにしても「使徒」というのは、教会の指導者たちのことで、言ってみれば「権威」の象徴のような言葉でさえあります。その使徒たちに「信仰が無い」という話をここで主イエスはしておられるのです。
その話をしたあとで、7節からしもべの話を始められます。ここで、非常に面白い書き方なのですが、もしあなたがたのしもべが畑仕事を終え、羊を飼う仕事を終えて帰ってきたとしたら、そのしもべに、ここで食事をしなさいと言いますか? 言わないでしょう。次の仕事を言いつけるものだと話されます。主人は別にしもべに感謝もしないでしょうとさえ言われるのです。
ここまでは、当然自分は主人の立場でこの話を聞くわけです。ところが、この結論として主イエスは10節でこう言われました。
「同じようにあなたがたも、自分に命じられたことをすべて行ったら、『私たちは取るに足りないしもべです。なすべきことをしただけです』と言いなさい。」
主イエスはこの話の結論で、聞き手の立場をくるっとひっくり返してしまって、あなたには主人がいる。その主人に対して、するべきことをするだけだと言われたのです。
そこまでくると、この話の流れがようやく見えてきます。10節で、「私たちは取るに足りないしもべです」という理解を持つようにと言われています。しもべは、主人の言われることを行うだけの存在なのだということです。ということは、ここで言う「信仰」というのは「自分がどうしたいか」という意思の問題ではなくて「主人の意思の問題」だということが分かります。
そして、その主人が桑の木に「根元から抜かれて、海の中に植われ」と願っているのだとすれば、そうなる、あなたがたの主人がそう願っているのだからとなるわけです。そして、この主人というのは、主イエスのことを指していることになります。この主人の意思、主人の思いを受け取ることを、「信仰」と呼んでいるわけで、自分の中にある信心深さが増えるかどうかの問題ではないわけです。私たちは信仰があることを前提として、もう少し成長すればとか、もう少し信仰が増えれば何とかできるかもしれないなどと考えるわけですが、その考え方が思い違いをしているのだということを、主イエスはここで明らかにしておられるのです。
やがて「使徒」と呼ばれるようになるこの主イエスの弟子たちも、この時にはまだ信仰が無かったのだというのです。そうなると、話が少しずつ見えてきます。その前に書かれているのが「赦し」のことですが、使徒たちの主人が「悔い改めます」と言う人のことを「赦しなさい」と言われるのであれば、それはしもべとしては、その主人の意思を、主人の思いを尊重して、赦すのだということになります。
それが、たとえ、首にひき臼をつけられて海に投げ込まれた方がましだと思えるような罪人であったとしても、主人がその人の赦されることを望むのであれば、その主人の思いに従うことが、しもべのなすべきこと、弟子のなすべきこと、使徒と呼ばれる者のなすべきことなのだということになるわけです。つまり、「赦す」ということを弟子は求められているのだということです。
私たちの主人である主イエスは、徹底的に赦しを大事になさるお方です。そして、この赦しは、4節にあるように一日に7回罪を犯すような者に対して向けられているわけです。それはつまり、私たちに向けられている主の思いです。私たちは、自分をつまずかせるような者のことを赦せないと考えることが多い者です。自分が受けた傷は、後生大事に持ち続けて、何か事が起こるたびにそれを持ち出しては、相手を非難したくなる。それが、私たちです。「あなたにつまずいた、あなたには愛がない」と言って、その人に何とか復讐したいと思うのが、私たちの姿なのかもしれません。そんなことででも仕返しをしないとやっていられないと思うほどに、私たちは傷つきやすく、弱い存在なのです。自分を守るのは、自分しかない。それが、この世の処世術なのかもしれません。
しかし、私たちの主イエスは、つまずきやすい私たちが、一日に7回も主に対して罪を犯したとしても、「悔い改めます」と言うなら、赦してくださるお方なのです。一日に7回も罪を犯すなんて、そもそもその毎回の悔い改めは、悔い改めになっていない。悔い改めの質が悪いなんてことも言わないで、私たちを受け入れ、何度でも何度でも私たちを受け入れ、赦してくださるのです。
私たちの主は、私たちが罪を犯す時には、戒めを与えて悔い改めへと導かれます。私はこの3節で言われている、「戒めなさい」という言葉は「赦しなさい」という言葉と同様に大切な言葉だと思っています。主は、私たちを戒められるお方です。今日の聖書箇所もそうです。主は、私たちが人につまずき、その人を赦せないと感じる時に、まず、その人を戒めるように言われます。それは、主が私たちになさる順序と同じです。主は私たちに無関心でおられるお方ではありません。私たちに心を向けておられるので、私たちの過ちを、弱さをご覧になって、気をつけるようにと言われるのです。同じように、私たちもまた、誰かを嫌いになったり、苦手意識を持つ前に、その人にそのことを伝え、そして、その人が自分の非に気がついて改めるようになることを期待したら良いのです。
そして、私たちも主と同じように、何度も何度も、その人を受け入れ、赦すように心がけるのです。それが、その人を愛するということです。その愛の中にあって和解が生まれ、平安が生まれるようになるのです。これこそが、私たちの主の思いなのです。
お祈りをいたします。