2025 年 4 月 20 日

・説教 マタイの福音書28章1-10節「よみがえられた主イエス」

Filed under: 内山光生師,礼拝説教 — susumu @ 16:59

イースター(復活祭)
2025.04.13

内山光生

イエスは言われた。「恐れることはありません。行って、わたしの兄弟たちに、ガリラヤに行くように言いなさい。そこでわたしに会えます。」  マタイ28章10節

序論

 個人的な事ですが、先週の金曜日、すなわち受難日に突然、私自身の背中と腰のあたりに激痛が走りその苦しみによってベッドに横たわっていました。原因は、結石によるもので、石が動くときに、しばしば、寝込むほどの痛みが生じるのです。そのような結石による痛みは、たいてい2~3時間で治まるのですが、今回の場合、半日以上激痛が続いたので、その日に予定されていた受難日賛美礼拝に出席できなかった事を残念に思います。しかしながら、翌日の土曜日の朝になるとすっかりと痛みが取り除かれていて、日曜日の説教の奉仕ができそうだとの思いが与えられ、神様に感謝をささげました。

 そして、今朝は8時半からイースター朝食会が行われ、いつもと違った楽しい食事の交わりを持つことができました。また、9時45分から通常の礼拝の前に聖餐式に与ることができた事に感謝いたします。

 さてイースターというのは、「イエス・キリストがよみがえられた」という喜びの知らせを伝えるのに最も適した時です。

 とは言うものの、例えばイエス様を信じていない人々の間であっても、クリスマスを楽しく過ごすという習慣はありますが、残念ながら、イースターは、まだまだ一般の人々に浸透している行事とは言い難いと思われます。注意深く情報を集めると、確かに、どこかのテーマパークでイースターを意識したイベントが企画されていたり、ある食品業界のチェーン店が、イースターの特別メニューや期間限定商品を販売することがあるのですが、果たして、イースターがイエス様の復活の喜びをお祝いする時だと認識している人はどれ程なのかと思います。

 そういう中にあっても、私たちクリスチャンがイースターのこの時に「イエス様がよみがえれた事によって、私たちに救いがもたらされた」というその喜びを再確認する時となればと願うのです。

 というのも、先に救われた私たちが、神様に対する感謝な思いで心が満たされていく時に、間接的かもしれないけれども、まだ救われていない周りの人々に、その雰囲気や態度を通して、神様の事について考えるきっかけとなることを期待できるからです。

 この日本においては、多くの場合、まだキリスト教に関心を持っていない人に対して、強引に聖書の話をしても、かえって警戒される可能性が高いと思われます。しかしながら、ある人が聖書に興味を持ったり、イエス・キリストがどういうお方なのかを知りたいと願う、そういう思いが出てきた時に、ようやく、イエス・キリストの福音を伝えるチャンスが出てくるのです。

 人々の心が耕され整えられるためには、私たちクリスチャンの心が、「イエス様によって救われているという喜びで満たされていく事」、ここに目を向けていきたいのです。

I 主イエスの墓へ向かったマリアたち(1節)

 では1節から順番に見ていきます。

 安息日とあります。これは土曜日の事を指しています。それゆえ、「安息日が終わって週の初めの日」とは、日曜日のことになります。この日の明け方、つまり、まだ薄暗い時間帯にマリアたちが墓を見に行ったのです。

 すべての福音書において、このイースターの日の明け方にマグダラのマリアがイエス様の葬られた墓に向かったことが記録されています。他にも女性がいたのですが、しかし、マグダラのマリアが先頭に立って墓に向かった、そういう雰囲気が伝わってくるのです。マタイの福音書では、彼女たちがイエス様が葬られた墓に向かった理由が記されていませんが、他の福音書によると、イエス様をもう一度葬るために、香油を持って向かったと記されています。

 イエス様は十字架にかかる前に何度も何度も、自分が死んだ後によみがえることを予告していました。そして、その話をマリアたちも聞いていたはずなのです。けれども、彼女たちは、イエス様がよみがえるということを信じることができずに、イエス様が墓の中に遺体となって横たわっていると考えていたのです。いや、なにも彼女たちだけが、イエス様の予告を理解できていなかった訳ではなく、他の弟子たちすべてが、やはり、イエス様がよみがえるということを理解できていなかったのです。

 マリアたちが墓に向かったのは、あくまでも、イエス様をもう一度、自分たちの手によって葬り直したい、イエス様への敬意を表したいという思いから出てきた行動だったのです。

II 主の使いを見て震えあがった兵士たち(2~4節)

 2~4節に進みます。

 これらの箇所に書かれている出来事は、他の福音書と比較して考えると、マリアたちが墓に到着する直前に起こった出来事だと思われます。

 マリアたちが墓に向かう途中、イエス様が葬られた墓の周辺で異変が起こりました。すなわち、大きな地震が起こったのでした。地震の原因は、主の使いが天から降りてきて、墓を封印していた石をわきに転がしたことにありました。墓を封印する石は直径1メートルほどの丸い形をしたもので、大人の男性が何人かで力を合わせてようやく動かすことができたと言われています。主の使いがその石を転がした衝撃で地面が揺れ動いたのです。

 3節によると、主の使いの姿は稲妻のようだと記されています。直接、見ようとしてもまぶしくて目を覆いたくなる程に輝いていたのでしょう。また、主の使いが着ていた衣服は雪のように白かったと書かれています。この見たこともない姿をしている主の使いを目撃した番兵たちは、自分たちの役割を忘れてしまう程に、恐れで心が支配されてしまいました。彼らは、震えあがり、体が硬直するかのようになったのです。

 マタイでは省略されていますが、番兵たちは、この後、すぐに持ち場を離れ逃げていくのです。本来、墓の番をする人は、そこを離れてはならないのです。しかし、彼らはあまりの恐ろしさのゆえに、条件反射的に逃げてしまったのでしょう。

 そして、次の場面に移っていきます。
 

III 御使いのお告げを聞いたマリアたち(5~7節)

 5~7節に進みます。

 マリアたちが、主イエスが葬られた墓に到着すると、そこに御使いがいました。そして、彼女たちは御使いが通常の人間とは異なった姿をしていることに気づいたのでしょう。それゆえ、彼女たちもまた「恐ろしい気持ち」となってしまったのです。

 それで御使いは、まず最初にマリアたちに「恐れることはありません。」と声をかけるのです。人の心というのは、恐ろしい感情に支配されている時には冷静に物事を聞くことが難しくなります。だから、御使いは彼女たちの恐れを取り除くための一言が必要だと考えたのでしょう。

 御使いは、マリアたちが何をしにきたのかを知っていました。それで「十字架につけられたイエスを捜しているのは分かっています。」と伝えるのです。更には「イエス様がよみがえられた」ことを宣言するのでした。

 この時、マリアたちはまだ気が動転していて、御使いの言葉を聞いても、ぼんやりとしていたかもしれません。すぐには「イエス様がよみがえられた事に感謝」という思いにはならなかったと思うのです。ですが、御使いは、言葉だけでなく、彼女たちに墓の中をのぞくように促し、自分たちの目でイエス様がここにはおられないことを確認させるのです。

 その後、御使いは、「イエス様がよみがえられた事と、ガリラヤに行けばイエス様に会える事」を弟子たちに伝えるよう命じたのです。

 御使いは、神から託されて地上に降りてきていました。それゆえ、その役割を果たすために、きちんと丁寧にマリアたちに何が起こったのか、そして、これから何をすべきなのかを伝えたのでした。

IV 御使いの言葉を信じて行動に移したマリアたち(8節)

 8節に進みます。

 まるで夢でも見ているかのような出来事、ある意味、人間の姿ではないと思われる何者かに出会い、恐ろしい気持ちとなっていたけれども、同時に、良い知らせを聞いた事で、喜びの感情も混ざっているという不思議な心境となっていたマリアたちですが、しかし、それでも御使いのことばをきちんと受け止め、急いで、弟子たちのもとに向かったのです。

 この時点では、マリアたちは御使いの言葉、すなわち「イエス様がよみがえられた事」を受け止めているものの、しかし、半信半疑の気持ちだったのではないかと思われます。けれども、それでも前に進み続けるというのが、彼女たちの良さだと思います。

 もしもこの場面において、別の人が同じような事を聞いたとしても、「イエス様がよみがえられた事なんて信じられるはずがない。」と言い張るかもしれません。しかし、マリアたちは少なくとも、御使いのことばを素直に受け止めているのです。ここが大切なのではないでしょうか。

 ある人々は、まだはっきりと信仰を持つ前の段階で、「信じたいけれども、信じられない」そういう中途半端な状態に立たされることがあるかもしれません。そんな時に、たとえ見切り発車のように思われても、前に進もうとする時に、新たな局面へと向かい、イエス様を信じる気持ちがはっきりとしていく、そういうこともあるのです。

 ですから、私はマリアたちのように、たとえ完全に信じきれたという状態でなかったとしても、素直な心となって、自分たちに告げられた言葉を受け止めることができる人というのは、すばらしいと感じるのです。

 もちろん、トマスのように「自分の目でイエス様の姿を確認しなければ、決して信じない」というタイプの人もいるかと思います。そして、神様は、トマスのような人さえも憐れんで下さるお方です。ですが、いつまでも疑い続けていると、ついには信仰を持つことができなくなる危険が出てきますので、なるべく早い段階でイエス様を信じることができる人は幸いだと感じるのです。

 イエス様のよみがえりの知らせを最初に聞いたのはマリアはもちろん、他の人もすべて女性たちでした。この事は神様のご計画の中で起こった事なのですが、私は、それで良かったのではないかと思うのです。つまり、彼女たちだからこそ、御使いの言葉を素直に受け止めることができた。つまり、イエス様の姿を直接見ていない段階で、イエス様がよみがえられたとの知らせを聞いて、それを本当の事だと信じることができた。ここにマリアたちのすばらしさが表されているのです。

V 復活の主イエスに出会ったマリアたち(9~10節)

 9~10節に進みます。

 マリアたちが弟子たちのもとに向かう途中で、なんとイエス様が彼女たちの前に現れたのです。イエス様は「おはよう」と声をかけます。これは、当時の社会において一般的な挨拶であって、それ以上の意味は含まれていませんが、マリアたちはその声を聞いて「あっイエス様だ」と一瞬で理解することができたことでしょう。

 それで、マリアたちの方からイエス様に近寄っていき、イエス様の足を抱いたのです。これは、例えば王様に対してするような動作です。マリアたちは、よみがえられたイエス様に対して、態度を持って礼拝をささげたのです。

 マリアたちはイエス様に対して、直接「あなたは私の救い主です」と告白している訳ではありません。けれども、「足を抱く」という行動によって、イエス様こそ自分たちの救い主だということを認めていることが読み取れるのです。マリアたちは、御使いの言葉によってイエス様がよみがえられた事を信じる事ができた。しかし、今や、自分の肉眼で確認することによって、そして、自分の手でイエス様に触れることによって、本当にイエス様がよみがえられたという思いで心が満たされていったのです。

 イエス様を信じることによって、人は神様に礼拝をささげることが喜びとなります。ですから、私たちがイエス様の十字架と復活について、はっきりと信じることができるならば、その結果、自然と神様に対する感謝な思いが湧き出てきて、そして、礼拝をささげる者へと変えられていくのです。

 マリアたちは、復活の主イエスを拝した後、イエス様から大切なことを告げられます。これは、すでに御使いから伝えられた事とほぼ同じ内容です。けれども、彼女たちにとっては、直接、イエス様から告げられたことによって、「今から、自分たちは弟子たちのところへ行き、ガリラヤへ行くようにと、伝える必要がある」ということを再確認させられたのです。

 聖書は、しばしば、短い箇所において同じような内容が繰り返されている事があります。ある人にとっては、何度も繰り返す事に「くどい」と感じるかもしれません。しかし、繰り返されている部分は、特に重要な内容が含まれている、と言う意味が込められているのです。

 「ガリラヤ」という地名が繰り返されている。このことは、イエス様がガリラヤに行くように強調しているという事なのです。

 なぜガリラヤという場所が重要なのでしょうか。それはガリラヤ地方こそが、イエス様と弟子たちが福音を伝えていた活動拠点であって、そこで再会する事によって、これから先、弟子たちがなすべき使命が何であるかを自覚させる意味があるのです。

 弟子たちは、「イエス様がよみがえられて感謝」という思いで満足するだけでなく、その喜びの知らせを多くの人々に伝えていく、そういう使命が与えられているのです。

 このことから、私たちの時代においても、教会というのは、イエス様がよみがえられたという事実を周りの人々に伝えていく、そういう使命が与えらていることを意味しています。それゆえ、信仰を持っている私たちは、自分が救われているその喜びを周りの人々に証しすることが期待されているのです。

まとめ

 前置きでもお伝えした事を繰り返すと、「この日本においては、多くの場合、まだキリスト教に関心を持っていない人に対して、強引に聖書の話をしても、かえって警戒される可能性が高い」と思われます。それゆえ、確かに、聖書に書かれていることから考えると、救われた喜びを人々に証しすることが期待されている事は事実なのですが、相手が本当に救いに導かれるためには、どのようなステップが有効なのかをよく考えながら、今、自分たちにできる事が何かを思い巡らすことが必要かと思います。

 残念ながら、具体的にどうすればいいかに関しては、マニュアルみたいなものは存在しないのです。けれども、私たちが日々の生活の中で自分の周りの人々の救いのために祈り続けていく時に、神様が喜ばれることは何であるかが理解できるようになり、結果的には、言葉と態度によって、キリストの愛を示していく、そういう存在へと私たちが変えられていくのです。

 私たちが「自分の知恵や努力にのみ頼って、人々に証しをしていこう」という考えではなく、むしろ、「私たちの心が神の愛で満たされていく時に、聖霊の助けと導きによって、神様のことを証しする存在とさせて頂ける」、このように考えていくと、余計なプレッシャーを感じなくても済むのではないでしょうか。

 そういう意味では、イエス様の事を人々に証しをするための大切なステップとして、私たち自身が「イエス様がよみがえられたことによって私たちに救いがもたらされたことに感謝する」という思いで満たされていく、そこがポイントとなっていくのです。

 お祈りいたします。

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