2025 年 5 月 4 日

・説教 ルカの福音書17章11-19節「キリエ・エレイソン」

Filed under: 礼拝説教 — susumu @ 07:18

2025.05.04

鴨下直樹

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 今日は復活節の第三主日、「ミゼリコルディアス・ドミニ〈主の慈しみ〉」と呼ばれる主の日です。教会歴で今日読むことになっている聖書は詩篇33篇5節の「主の恵みで地は満ちている。」というみ言葉です。ところが、新改訳聖書では肝心の「慈しみ」という言葉が出てきません。新共同訳聖書ではこのようになっています。「地は主の慈しみで満ちている。」。この後半の「地は主の慈しみで満ちている」という言葉がラテン語で「ミゼリコルディアス・ドミニ」と言うのです。「慈しみ」という言葉はヘブル語で「ヘセド」という言葉です。これを、新改訳は「恵み」と訳し、新共同訳は「慈しみ」と訳しています。「愛」と訳されることもありますし、「慈愛」と訳す場合もあります。新改訳と新共同訳の日本語の翻訳はそれぞれ異なりますが、この「ヘセド」という言葉で言い表そうとしているのは神の大きな愛の眼差しが、「恵み」や「慈しみ」という神の思いがこの地に、この世界に注がれているということです。

 雨宮慧(さとし)というカトリックの言語学者がおられます。この方は、『旧約聖書の心』という本の中で、このヘセドという言葉を、「神と人を結びつける絆である」と言っています。この絆には二つの側面があって、一つは両者を結ぶ愛、もう一つはその愛に対する誠実さであると説明しています。ここに、神の愛、恵み、慈しみと訳される神の本質的な心が表されています。

 今日は、復活節の第三主日で、イースターによって示されたこの神のヘセドに表されている思いを心に刻む日です。そんな中で、今日は、ルカの福音書の17章の11節から19節のみ言葉が与えられています。ここに記されているのは、まさにこの神の慈しみ深さであると言って良いと思います。

 今日の聖書の箇所は読む私たちに強烈な印象を与えます。というのは、主イエスはサマリヤとガリラヤの境にある村に入られたと書かれています。この村に住んでいるのは、「ツァラアト」に冒された人々でした。サマリヤというのはイスラエルが二つに分裂し、北イスラエルと南ユダに分かれた後、ユダの人々は主への信仰を受け継いでいたのですが、北イスラエルの人々は神の思いから完全に離れてしまった人々で、外国の人々といわゆる雑婚をしていきます。そうするとどうなるかというと、それぞれの民族の信じる神々を取り入れていくわけで、主なる神への信仰を捨ててしまった人々です。それで、北イスラエルとはもはや呼ばないで、「サマリヤ人」と呼ぶようになって、ユダヤ人たちはこのサマリヤの人々を蔑んできたわけです。

 ところが、この聖書の箇所を読んでいくと分かってくるのですが、「ツァラアト」という病に冒された人々というのは、重い皮膚病を患った人々で、この時代では人々から隔離されていまして、もはや家族とも一緒に生活することが許されません。当然、この人々のところには医者も訪ねてはきません。いわば、捨てられた人々の集落となっていたわけです。しかも、この捨てられた人々同士が、民族の争い関係も忘れて一緒にこの村で生活していたようです。捨てられた者たちの間にはもはや民族的な差別意識は無くなっていたわけです。

 ただ、そう聞くととても麗しい愛の共同体が生まれているかのようにも思いますが、実際には見捨てられた人々が肩を寄せ合って生きていたというのが、本当の姿のように思うのです。もはや、ここには希望がない、死を待つだけの世界、それがこの村の姿であったのです。

 ところが、この村を主イエスは訪ねられたのです。12節の冒頭に「ある村に入られると」と書かれています。たまたま近くを通り過ぎたということではなかったようで、主イエスは明確な意図を持ってこの村にお入りになった。すると、ツァラアトにおかされた人々は、病気をうつしてはいけないのですぐに近寄っていくことができませんでしたから、遠く離れたところから叫びます。

「イエス様、先生、私たちをあわれんでください」と言った。

と13節に記されています。この人々の叫びは本当に、悲痛な叫びであったはずです。藁にもすがるような思いであったに違いありません。そこで、主イエスは手を置いて癒しの祈りをしたというようなことはここには書かれていません。

 ただ、14節にある動詞は二つ、「見た」という言葉と「言った」という言葉です。この十人の病の人々を主イエスはご覧になられた。そして、何を言われたのかというと、「行って、自分のからだを祭司に見せなさい。」と言われたのです。「すると彼らは行く途中できよめられた。」

 主イエスに言われて、祭司のところに行くには、一日かそこらで着く距離ではなかったはずです。けれども、彼らは言われたように祭司のいるところに出かけていきました。すると、その途中で自分たちがきよめられていることに気づいたというのです。ということは、彼らは主イエスのこの言葉を信じたのです。主イエスのまなざしを見て、そして、言葉を聞いて、この病の人々は主イエスの言われたように行動したというのです。まさに、ここで奇跡が行なわれました。自分たちが願っていたことが、実際に本当になったというのです。

 ルカはこの出来事を私たちに伝えるのに、ここまででこの話を終えませんでした。奇跡が起こって良かったということを伝えたいわけではないからです。その後の出来事を記しました。

 何が書かれているかというと、自分が癒やされたことに気づいた人が、神をほめたたえながら引き返してきて、主イエスの足元にひれ伏して感謝したというのです。とても美しい物語です。主のしてくださった、まさに「ヘセド」を受け取った。主イエスの慈しみの思いを受け取って、主イエスに感謝した。この素晴らしい出来事がここに記されています。

 誰からも見捨てられていた人です。傷つき、痛み、悩んでいる者たちで肩を寄せあいながら、苦しみに耐えてきた。そんな人に主イエスがあわれみを示してくださって、この人は神をほめたたえるようにと変えられたのです。

 彼はサマリヤ人です。ユダヤ人の信じる神のことを忘れて生きていた人です。信仰心があったわけでもなかったのです。そういう人のところに主イエスは足を運ばれて、絆を築き上げ、神はあなたを忘れてはいない、あなたを憐れまれるお方だということを示してくださったのです。

 私たちはこの物語の中に、決して小さくない希望を見出すことができるのです。誰からも無理だと言われているようなこと、あなたの家族は信仰を持たないかもしれない、日本人だから。あるいは、あなたの家族が、あるいはあなた自身が癒やされないかもしれない、それは難しい病だから。そう言われて諦めるほかないと思っていた。しかし、そんなところに主イエスは足を延ばしてくださって、癒しを行い、信仰を呼び覚まされたというのです。とても美しい希望のある出来事を主イエスはここで示しておられるのです。
 
 ところが、ルカはここまででも話を終えていません。さらにルカは話を続けます。主イエスがそこでこう言われたというのです。17節と18節です。

すると、イエスは言われた。「十人きよめられたのではなかったか。九人はどこにいるのか。この他国人のほかに、神をあがめるために戻って来た者はいなかったのか。」

 主イエスは他の九人はどこにいってしまったのか? と言われるのです。

 先週の週報にこの芥見キリスト教会の新しい会堂の銀行の負債が完済したという報告が載せられました。土地代、基礎工事代、建設費用、そして利息を含めると膨大な金額が必要でしたが、それらのほとんどを完済し、先月末で銀行の負債がすべてなくなりました。私は、この会堂を建てる前には携わっておりませんでしたが、当初計画を立てたことに皆さんは本当に心配しながら祈り求め、また本当に多くの捧げ物をしてこられたと思います。主がこの会堂を建てあげてくださることで、この岐阜市において、またこの芥見の地域において主のすばらしさが証しされることを祈り求めてきたのです。これは、まさに信仰なくして成し遂げることはできませんでした。

 祈祷会の時にもよくお話しするのですが、私がこの教会に赴任したときは、すでにこの会堂が建てられて2年と少し経った時でした。毎月、本当に多くの返済費用が必要で、私がきた時には会計の方の話では「まだ一度も毎月の銀行返済額が与えられたことがありません」ということでした。「ではどうやって返済しているんですか?」と聞くと、銀行から借り入れたものの残りがまだあるのでそれでなんとか賄っていますが・・・」というお返事。もう、心配になってこれは大変な教会に来てしまったかもしれないと、その話を聞いてから眠れなくなってしまったことをよく覚えています。

 幸い、そのあと教会債と、教団からプロジェクト基金をお借りして元金の返済に充てることができたおかげで、毎月の返済額が減りました。そういうこともあって、先月すべてを返し切ることができたわけです。また、皆さんが本当にこのためにお祈りしてくださって、本当に多くのささげものをしてくださった結果です。

 私たちも、この癒やされた者の中の、9人が感謝を忘れてしまってしまったように、神への感謝を忘れることがないように、主に賛美と感謝を捧げることを心に留める必要があります。

 しかし、どうしてあれほどまでに切実に祈り求めた9人もの癒やされた人々は神への感謝を忘れてしまったというのでしょう。これは、私たちもよく経験することですが、目の前の大きな問題が解決すると、その先のことで考えなければならないことがたくさん出てきて神への感謝を忘れることが起こるのです。この癒やされた人たちの思いからすると、癒やされたと分かった時点で、今までなんの希望も持てなかったところから、急にいろいろなことを考えることができるようになります。まず、祭司のところに行きます。続いて家族のもとに顔を出したいでしょう。そして、親戚や友人のところを訪ねて喜びを共にしたいと考えたと思います。仕事はどうしようと考えたかもしれません。これまで家族に負担をかけた分、今度は自分がやることがたくさんある、そうやってやるべきことが次々に浮かんでくるので、後ろを振り返る余裕が失われていくわけです。その時、その瞬間はとても幸せな時間です。希望に満ち溢れています。けれども、そこに大きな落とし穴が潜んでいます。神を忘れた中に生まれた新しい希望は、実はほんの目先の幸せでしかないと。

 主イエスは、戻ってきたこのサマリヤ人にこう声をかけました。19節です。

それからイエスはその人に言われた。「立ち上がって行きなさい。あなたの信仰があなたを救ったのです。」

 あなたの中に生まれたのは「信仰」だと言われたのです。そして、その信仰があなたを救ったのだと。

 先週の箇所を覚えておられるでしょうか? 主イエスは「信仰を増してください」と申し出た弟子たちに「からし種ほどの信仰があれば」と言われました。今の弟子たちにはからし種ほどの信仰もないことを明らかにされました。そこで言われたのは、しもべは主人の願うことを行うこと、主人の願うことを弟子はただ行うだけだという話を、この前にしておられるわけです。つまり、「主人の願い」が大切なのであって、弟子たちがどれほど信じたかという、弟子たちの信心深さの話ではないことを明らかになさいました。主イエスが赦すことを求めておられるのであれば、弟子は赦すのだ、それが信仰だと言われたわけです。

 とすると、今度はここで主イエスは弟子の中に見られなかった信仰を、サマリヤ人のしかも誰からも期待されていないツァラアトに冒された者の中に、信仰を見ておられるのです。つまり、癒やすという願いを持たれたのは、主イエスご自身で、この主の思いを受け取ったから、この人は癒やされた。つまり、信仰が与えられたと言っているのです。しかも、それを「あなたの信仰」とさえ呼んでくださるのです。

 ルカはここまでしっかりと語って、このことをここで伝えておきたいと考えているのです。信仰は、主人である主イエスが望んで私たちに与えられるのです。主ご自身が、サマリヤ人であろうと、病を患っていようと、誰からも期待されていないと思えるような小さな者であったとしても、主がその人に信仰を与えることを望まれて、信仰を与えられたのです。私たちも、この主の望みを受け取って、今、私たちの中に信仰が与えられるのです。

 不可能なことと思えることであったとしても、それがたとえ桑の木が海に移れというようなことであったとしても、主人が願うのであればその通りになるのです。この芥見の教会に起こったこともそうです。主がこの地に教会を必要としておられる。これが、主の願いであったので、そのための必要がすべて与えられたのです。私たちはそれを信じた。そして、今私たちはこの信仰の結果を見ることができるようにされているのです。

 自分の思いでは不可能に思えることも、主イエスが願われるのであればそれはその通りになるのです。それゆえに、私たちは主に祈るのです。「主よ、あわれんでください」と。これが、祈りの心です。

 教会はこれを「キリエ・エレイソン」と言って、教会の祈りとしてきました。「主よ、あわれんでください」「キリエ・エレイソン」と祈り続けてきたのです。この13節に書かれている「あわれんでください」という言葉もギリシャ語で「エレイソン」という言葉です。13節では「先生、エレイソン」と書かれています。この主のあわれみを求めるその心、「主よ、あわれんでください」という祈りが教会で「キリエ・エレイソン」の祈りとして大切にされてきました。それは、「主よ、あわれんでください。しかし、私の願うようにではなく、あなたのお心のままをなさってください」そういう思いを込めて教会は主に祈ってきたのです。

 今日は、ミゼリコルディアス・ドミニという名の主の日です。「ドミニ」は「主の」という意味です。「ミゼリコルディアス」はラテン語で「あわれみ」とか「慈しみ」という意味です。旧約聖書の「ヘセド」がラテン語だと「ミゼリコルディアス」という翻訳にあてられたのです。ミゼリコルディアス・ドミニは神をほめたたえる言葉です。そして、この言葉が、ギリシャ語で祈りの言葉になると「キリエ・エレイソン」という言葉になって祈られるのです。

 私たちに耳慣れた馴染み深いのは、「ミゼリコルディアス・ドミニ」という言葉よりも「キリエ・エレイソン」という言葉かもしれません。私たちの主は、あわれみ深いお方です。私たちをご覧になり、私たちに語りかけてくださるお方です。不可能と思える中にあっても、そこに信仰を呼び覚まし、信仰を与え主のすばらしいみわざを見させてくださるのです。

 お祈りをいたします。

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