2025 年 5 月 11 日

・説教 マルコの福音書5章21-24,35-43節「タリタ・クム」

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2025.05.11
(母の日)

内山光生

そして、子どもの手を取って言われた。「タリタ、クム。」訳すと、「少女よ、あなたに言う。起きなさい」という意味である。すると、少女はすぐに起き上がり、歩き始めた。彼女は十二歳であった。それを見るや、人々は口もきけないほどに驚いた。  マルコ5章41~42節

序論

 今日は母の日です。母の日について改めて調べた所、どうやら母の日というのは国によって日にちや祝う方法が様々だということが分かりました。日本における母の日というのは、アメリカの習慣を取り入れたことによって一般の人々に広まっていったと記録されています。日本に母の日が取り入れられた当時は、アメリカではカーネーションを贈る習慣がありましたので、それが日本でもそのまま受け入れられていったのです。ですから、今の時代においても母の日となるとホームセンターや花屋さん、そして、スーパーなどにおいてカーネーションが並べられているのを見ることができるのです。

 ところで最近、私はインターネットの情報というのは、必ずしも正しくないということを色々な経験から学んでいましたので、念のため、アメリカにおいてカーネーションを贈るということが今でも普通の事なのかどうかを確認したくなりましたそれで今年の3月頃でしょうか。私はアメリカ人で元宣教師をされていた方に「アメリカでも母の日はカーネーションをプレゼントするのですか。」と聞いてみました。すると、その方からは、少なくともその方が住んでいる地域では、「その人が好きな花をプレゼントする」と返ってきました。どうやら、あちらの方では、色々な考え方を受け入れるという土壌があるようで、皆が同じものをプレゼントされるというのは肌に合わないと考える人が多いというのです。

 これはアメリカに住んでいる人の考え方によるもので、日本全体の考え方とは異なっています。しかし、どちらが正解ということではありません。ただ言えることは、日本においても母の日のプレゼントの内容について様々な方法が出てきている、ということは確かなことだと言えるでしょう。

 さて、今日の聖書箇所は二つの箇所を選びました。その理由は、いきなり35節以降の話から始めても、前回聞いてなかった人や、忘れてしまっている人にとっては唐突に感じてしまうかもしれない。だから、もう一度21~24節に書かれている会堂司ヤイロがイエス様にお願いをした場面を確認した方が良いと考えたからです。

I ヤイロの信仰(21~24節)

 ではさっそく21~24節から見ていきたいと思います。

 会堂司というと、以前の訳では会堂管理人と訳されていましたが、会堂管理人と表現すると、まるで会堂の修繕や掃除をする人のようなイメージが出てきて、権威ある立場だということが分かりづらいと指摘されていました。そこで、新しい訳では会堂司となったのです。会堂司は、ユダヤ人の会堂において、安息日ごとの礼拝に関する責任者です。ですから、会堂司が礼拝で聖書朗読をしたり、聖書の解き明かしをすることがありましたし、会堂司の一存で、誰に聖書の解き明かしをしてもらうかを決めることができたのです。

 それゆえ、会堂司ヤイロは、町に住んでいるユダヤ人の間では、尊敬される立場だったのです。そんなヤイロが、自分の立場に関係なく、イエス様にひれ伏してお願いするのです。「娘が死にかけています。どうかおいでになって、娘の上に手を置いてやってください。」と。

 ヤイロはイエス様が病気を癒すことがおできになるといううわさを聞いていて、それで、今まさに娘には癒しが必要だと考え、必死になってイエス様にすがりついたのです。ここにヤイロの信仰が現されているのです。そして、イエス様は彼の願いを聞き入れ、娘のところに向かおうとされたのです。

 続いて、今日は読みませんでしたが、前回の長血の女性の癒しという出来事が入るのです。この出来事が起こっている時、ヤイロがどのような気持ちになっていたかを考えてみましょう。

 ヤイロの娘はすでに危篤状態となっていました。それゆえ、ヤイロの中には、なるべく早くイエス様を娘のところに連れていきたいという気持ちがあったと思われます。それなのに、イエス様が長血の女性と会話をするために、余計な時間がかかったのです。更には、多くの群衆によって思うように前に進めなかったのです。

 ヤイロはイエス様に対して文句を言う訳にはいきません。しかしながら、心の中で「どうしてこんなタイミングでイエス様を足止めするような出来事が起るのだろう。早くしてほしい。」そんな気持ちが湧き出てきていたかもしれません。

 多くの人々は、ヤイロの苛立つ気持ちに対して共感することができると思うのです。ところが、イエス様はしばしば、純粋な信仰を持っている人に対して、それが本物なのかどうかを確認しようとすることがあるのです。

 確かにヤイロには立派な信仰がありました。そして、その中身は「イエス様が直接、娘のところに行き、娘の手を取るならば娘は癒される」という内容でした。しかしイエス様は、このヤイロが持っている信仰を遥かに超えた奇跡を行う事ができるお方なのです。すなわち、イエス様は病気を癒す以上の奇跡を行うことができるお方なのです。その事から、聖書を読む私たち一人ひとりが、イエス様がどういうお方なのかを考えさせるために今回の出来事が記されているのです。

II 絶望のヤイロに不思議な言葉をかける主イエス(35~36節)

 次の場面に移ります。35~36節に進みます。

 35節では、会堂司の家の者によって「お嬢さんは亡くなりました」との知らせが届けられました。これはヤイロにとって絶望の言葉となった事でしょう。そして、使いの者たちは「これ以上、先生を煩わすことがあるでしょうか。」と言って、暗に、もうイエス様は来なくてもいいですよと言おうとしているのです。

 ヤイロの心には、「もう少し早く、イエス様を連れていくことができれば良かったのに。くやしい。」そんな気持ちがよぎったかもしれません。ところが、イエス様は絶望の淵に立たされているヤイロに対して不思議なことを言われたのです。「恐れないで、ただ信じていなさい。」と。

 聖書の中では神様の特別な奇跡が行われる時にしばしば「恐れないでいなさい」との言葉が出てきています。つまり、この言葉によって、これから大いなる奇跡が行われようとしている、ということを示そうとしているのです。また、イエス様が「ただ信じていなさい」と言われたのは、ヤイロの持っている、イエス様ならば娘を癒すことができるという信仰を今も持ち続けなさい、と希望を与えようとしているのです。

 ヤイロは今、人間の常識的な感覚とイエス様の不思議な言葉との間で板挟みとなっている状態です。普通に考えると、イエス様の言っていることの意味が分からない。おかしな事を言っているという風にとらえてしまうのです。そういう中で、イエス様の言われた言葉を素直に受け入れることができるかどうか、ここが問われているのです。

 ここでイエス様が言われる「信じていなさい」とはどういう事なのかを考えてみましょう。ローマ人への手紙4章には、旧約聖書の時代のアブラハムの信仰についての説明が書かれています。そこでは、アブラハムは「望み得ない時に望みを抱いて信じ」とあります。つまり、自分の妻サラが年老いていて、すでに子どもが産める見込みがなかったにも関わらず、神様から与えられた約束、つまり、子孫が与えられるという約束を信じたのです。

 つまり、アブラハムは人間の常識では起こりえないけれども、神様の約束ならば実現すると確信していたのです。これが信仰であって、その信仰のゆえに、アブラハムは「義と認められた」のです。

 同じように、ヤイロも「すでに娘が死んでしまって手遅れになった」という人間の常識が心をよぎる中で、「イエス様のお言葉を素直に受け止める信仰があるかどうか。」ここが問われている、そういう場面に立たされたのです。

 今の時代の私たちも、信仰が何かを考えるとき、それは人間の常識では不可能だけれども、神のみこころならば実現するという事を確信することが信仰なのです。ですから、仮に人間の感覚で実現しそうな事を信じたとしても、それは信仰とは言えないのです。むしろ、「自分にとっての常識を遥かに超えていて、不可能に違いないと思えたとしても、それが神様のみこころならば、その通りになるんだと、神様に信頼する事。」それが信仰なのです。

 多くの人々は、祈りの内容においても、常識的な祈りにとどまっている事があるかと思います。また仮にあまりにも不可能と思われる事を祈っているならば、周りから「変な人」と思われるのを心配して、大胆な祈りをすることをためらってしまうのです。けれども、神様のみこころならば、そして、神様が定めた時がくれば、神様の定めた方法によって、その不可能と思われる事柄が実現していくに違いない、そう確信することこそが、信仰なのです。

 私たちクリスチャンは、この地上における肉体が滅んだとしても、やがて来たるべき時にイエス様が再臨され、その時、肉体がよみがえるという聖書の教えを信じています。それを素直に信じていることこそ、信仰だと言えるのです。

 ヤイロの話に戻りますと、もしヤイロがイエス様の言葉に対して全く否定的な態度を取ったならば、すでにこの話は終わっているのです。すなわち、「もうイエス様、私の家に来なくてもいいです。」と言って、ここで別々の場所に行くということになったと思うのです。しかしながら、ヤイロはイエス様の言葉を否定せずに、「信仰を持ち続けなさい」という励ましの言葉を受け止め、更には、イエス様と共に娘のところに向かうのです。

III 3人の弟子だけを連れていく(37節)

 37節に進みます。

 今までは十二弟子と共にヤイロの家に向かっていたと考えられます。ところが、ここから先は3人の弟子だけがヤイロの娘のところ行くことが許されたのです。別の聖書箇所においても、イエス様がいつもと違った特別な奇跡を行うときに、弟子を複数人だけ選んで連れていく場面が記録されています。ですから、3人だけが選ばれたとあれば、まもなくイエス様によって驚くべきみわざがなされることを予期することができるのです。

 ではなぜペテロとヤコブとヨハネが選ばれたのか、その理由は定かでありませんが、少なくとも、この3人が特別に優れていたという事ではないと思われます。というのも、ヤコブとヨハネに関しては、自分たちがなるべく高い立場に就きたいという人間の欲を丸出ししている場面がありますし、またペテロにしても、イエス様が十字架につけられる前「イエス様と自分との関係」を否認している訳です。つまり、この時点では少なくとも彼らは人間の弱さを抱えていたままであって、お世辞にも模範的な弟子とは言えなかったのです。ということは、この3人は、ただただイエス様の一方的な選びによるものだった、そういう事だと受け止めるのが良いと思うのです。

 私たちの一般世界では、能力のある人や人気のある人が選ばれるという現実があります。一方、イエス様が私たちを選ぶ基準とういうのは、そういう人間の常識とは全く関係なく、神様の一方的な恵みに他ならないのです。

IV 取り乱している人々に不思議な言葉をかける主イエス(38~39節)

 38~39節に進みます。

 会堂司ヤイロとイエス様たちが家に到着すると、使いの者たちが知らせたように娘が死んだことが明らかでした。人々が取り乱して大声で泣いていたのです。そういう状況の中にあって、イエス様は、またまた不思議な事を言われたのです。「その子は死んだのではありません。眠っているのです。」と。

 この言葉は、ヤイロの娘が本当はまだ死んでいなかったという意味ではありません。確かに、人間の感覚ではこの地上における肉体の死は、死を意味するのですが、一方イエス様の視点からすれば肉体の死というのは「眠った状態」にすぎないのです。それであのパウロもこのイエス様の考えに倣ってすでに死んだ人の事を「眠っている人たち」と表現しているのです。けれども、ヤイロの家にいた人々には、このイエス様が言わんとされている事を理解することができなかったのです。

V あざ笑う人を外に出し少女の手を取る主イエス(40~41節)

 40~41節に進みます。

 ヤイロの娘の死を知っていた人々は、イエス様がどういうお方なのかをきちんと理解できていませんでした。人々は、もしもイエス様が娘が生きている間に来てくださり、そして、手を置いて下さるならば癒されたかもしれない。しかし、死んでしまっては手遅れだ、そういう考え方にとらわれていたのです。そこには、イエス様には人間の生と死を支配する力があるという信仰が全くなかったのです。

 それで、イエス様は不信仰な人々を外に出して、娘の父すなわちヤイロと娘の母、そして、3人の弟子だけで娘のいるところに入っていったのです。

 イエス様は娘の手を取りました。そして、今日の説教題にあるように「タリタ、クム」昔の訳では「タリタ、クミ」、こう言われたのです。この直前の出来事では、イエス様は長血を患っている女性に対して、何も言葉を発しなかったけれども、彼女は癒されました。一方、今回は「タリタ、クム」すなわち「少女よ、あなたに言う。起きなさい」と言われたのです。
 これはイエス様にして見れば、このような言葉があってもなくても娘を生き返らせることができたのでしょうが、今回の場合は、少女の父と母に対してイエス様が娘を生き返らせたということをきちんと理解してもらうために敢えて「タリタ、クム」と言われたのでしょう。そして、その後この言葉は周りの人々だけでなく聖書を読む世界中の人々の間で有名な言葉となって言ったのです。

VI 起き上がった少女と人々の驚き(42~43節)

 次に42~43節に進みます。

 イエス様が「タリタ、クム」と言われた瞬間に、少女は起き上がりました。更には歩き始めたのです。この姿を見た両親は非常に驚いた事でしょう。また、イエス様の3人の弟子たち、ペテロ、ヤコブ、ヨハネもまた、今までの奇跡を遥かに超えた奇跡だということで驚きを隠せなかった事でしょう。少女が歩いているのを見た周囲の人々は、この直前まではイエス様をあざ笑っていましたが、一瞬にして口もきけないほどの驚きに包まれたのでした。

 ところが、イエス様は人々に対して「だれにも知らせないように」と厳しくお命じになったのです。多くの人々は、「どうしてこんなすばらしい奇跡が行われたのに黙っていなければいけないの。」と感じるかもしれません。しかし、それには理由があるのです。

 それはイエス様は福音を人々に伝えるために色々な町や村に行き宣教活動をしていました。しかし、この「少女が生き返ったという奇跡」が広められていくと、イエス様が伝えようとしている福音が正しく伝わらなくなる危険性がある。本来のイエス様の目的を果たすための妨げとなると考えたからです。

 イエス様はある奇跡を行った時は、人々に証しするようにと伝える事がありました。一方、今回は、誰にも知らせないようにと戒められるのです。すると、その両方の言葉を聞いた人々は、「一体どっちなのか。」と意味が分からなくなるのです。

 この問題に対する解決へのヒントは、「それを伝えることによって福音が広められていくならば、証しをした方が良い。しかし、伝えることによって誤解を招いたりするならば、今は沈黙しておいた方が良い。」と考えていけば良いのです。

 つまり、私たちが何かを語るにしても、沈黙するにしても、福音が伝わるための益となるかどうかを基準にして考えていけば良いのです。そう考えると、イエス様の一見矛盾したように思える発言は筋が通っているのです。

まとめ

 最後にイエス様の配慮ある言葉に注目したいと思います。イエス様が「タリタ、クム」と言われた直後に、少女が起き上がり、更には、歩き出しました。その後、イエス様は「少女に食べ物を与えるように」と言われました。

 両親をはじめ、人々はあまりの驚きで、今、少女に何が必要なのかを考えることさえ忘れている、そんな状況を察知して、イエス様は冷静になって「食べ物を与えるように」と言われたのです。このことから、イエス様は単に奇跡を行って終わりではなく、奇跡を行った一人ひとりに今必要なものが何かをよく見ておられるお方なんだということを読み取れることができるのです。

 イエス様は愛のあるお方でした。それがどういう愛であったかについての具体例の一つが「食べ物を与えるように」との一言に現されているのです。

 今日の箇所全体を通してまとめてみると、イエス様は私たちが想像している以上に偉大な権威が与えられているということ、つまり、「生と死を支配する力がある」ということが示されています。また、イエス様の愛がどのように現されているかが示されています。

お祈りいたします。

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