2010 年 1 月 1 日

・説教 「神を信じ続ける一年」 ヨハネの福音書14章1節

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 元旦礼拝説教

 

2010年 年間聖句 (ヨハネの福音書14章1節)

あなたがたは心を騒がしてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい。

 

 

鴨下直樹

 新しい年を迎えました。今年私たちに与えられてる言葉はヨハネの福音書14章1節のこの御言葉です。「あなたがたは心を騒がしてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい。」

 先日、私たちがドイツで教会実習をしていた教会から「教会だより」が送られてきました。これは、毎月出されているもので、初めに小さな説教が載っております。その最初のページに、もう一昨年になりますけれども、それまで私たちの教団に宣教師を送り出しているドイツ・アライアンスミッションの代表からドイツ自由福音教会の代表に変わりました、アンツガー・ヘルスティングが小説教を書いておりました。ドイツの全ての自由福音教会にあてられた説教です。もちろん、ここで全てを紹介することはできませんけれども、この説教は、「あなたがたは真っ暗闇の中にいるという経験をしたことがありますか」という問いで始まります。アンツガーはこのアライアンスミッションで海外宣教の働きをしていた時に、アフリカのある村を訪れたことがあるそうです。ちょうど新月の夜で、真っ暗やみの中で何も見ることができず、目を開けていようが、閉じていようが同じだと感じるほど何も見えない闇の中を、一緒に同行した人に手をひかれて歩いた経験があるのだそうです。そのように、今年私たちに与えられている御言葉は、来たる2010年がどういう年になろうとも、どのような闇の中を歩むようなことになろうとも、この御言葉が私たちの手をしっかりと取って導いてくれるだろう、と書き記してありました。

 

 「心を騒がせるな」と、この御言葉は語りかけます。この言葉は何度もこの福音書の中で語られます。暗闇の中に一人置かれていると感じる時、私たちはどうしていいか分からなくなってしまいます。そして、心が騒ぐのです。落ち着かなくなるのです。どうしていいか分からなくなるのです。クリスマスから聞き続けているように、主イエスはこの暗闇の世界に光をもたらすために来られたお方です。このお方が光であれば、私たちはどこを向かって歩いたらいいのか。今、自分は何をすべきなのかが分かります。主は、私たちのことを良くご存知で、まず、私たちに必要な言葉を語りかけてくださるのです。

 このヨハネの福音書は受難週の時の出来事です。主イエスが十字架にかかられるその週の中でお語りになった言葉です。その前に、まず、弟子達の足を洗われ、その後で、裏切るものが起こると話されます。そしてペテロとの会話が記されています。「鶏が鳴くまでに、あなたは三度わたしを知らないと言います。」との有名な言葉が記されています。主はこの後、十字架につけられるために捕えられ、裁かれ、むち打たれて十字架で殺されてしまいます。そして、そのような出来事が起こって、弟子たちがそれからどう歩んでいくか、まさに、弟子たちが闇の中を置かれるのに先立って、主はこの言葉を弟子たちに残されたのでした。

 「あなたがたは心を騒がしてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい」

この聖書は大変短い箇所ですけれども、三つの命令形の言葉が続きます。「心を騒がせるな」「神を信ぜよ」「また私をも信ぜよ」。三度も命令の言葉が記されるほどに、この言葉は、大切な言葉が連なっているということです。しかし、ここで記されている聖書の言葉は、「信じなさい」という命令形と読むこともできますが、「あなたがたは神を信じています」と訳すこともできます。新改訳聖書は聖書の下に注を乗せておりまして、そこにそのように記してあります。あなたがたはもう神を信じているではないかと読むことのできる言葉を、主イエスは弟子たちに語られたのです。何故でしょう。弟子たちが主イエスとお会いできなくなる。十字架にかけて殺されてしまう時、弟子たちは何を考えるでしょう。私たちなら何を考えたでしょう。もうお先真っ暗ではないか。主イエスはもうおられない。死んでしまった。どうしたらいいのだろうか。そうして、心を騒がせるのです。けれども、主イエスはそうなってしまうであろう弟子たちに、言われたのです。「神を信じろ」と。いや、「あなたがたは、それでももうすでに神を信じているではないか」と。心を騒がせてしまったとしても、それでも神を信じているではないかと、主はそのような弱い信仰をも、あなたには信仰があるのだからと励ましてくださるのです。そして、「わたしを信じなさい」と続いて言われたのです。この続く主の「わたしを信じなさい」というのは、「わたしを頼りにしたらよいではないか」ということです。何に信じる根拠もないというようなことではないでしょう。あなたがたはわたしを知っている。わたしと共に歩んだではないか。共に生きたではないか。神を見出すことができなくなったとしても、わたしを頼りにしたら良いではないかと言ってくださるのです。

 

 今日から、新しい年を迎えました。今年はどのような一年になるのでしょう。どんなことが起こるか、それは誰にも分かりません。暗闇の中を相変わらず歩いているようだと感じるかもしれません。あるいは、これが暗闇なのかと感じるような事が起こるのかもしれません。しかし、どんな時にも、主はわたしたちの手をしっかりと握っていてくださいます。頼りにすることのできるお方なのです。暗闇の中でも、すぐ隣で肩を並べて歩んでくださるお方です。

 新年に向けて語られたアンツガーの説教の結びに一つの話が載っておりました。ギリシャの英雄テシウスが死の迷宮に迷い込んだ時の話です。彼はその迷宮に陥ってしまった時、赤い撚り糸を入口からずっとたらしたために、出口まで無事にたどることができたのだそうです。人間の知恵でも、死の、闇の中から抜け出すことができるとしたら、わたしたちの主が、わたしたちと共に肩を並べて歩んでくださるのですからどれほど確かなことでしょう。主は、何が起ころうとも、わたしたちを支え、導き、救いを与えてくださるのです。

 わたしたち芥見教会は、昨年この地域に伝道をしようとみなで協力して伝道し続けてきました。また、この会堂のために必要な者が与えられるようにと祈り続けてきました。主が確かにその中にあって、去年の御言葉にあったとおり、人にはできないことを、神はしてくださいました。昨年の必要も、会計報告を聞くと、おおむね与えられたということでした。今年は、さらに教団への会堂の返済が始まります。文字通り、大変なところを歩まされることになるでしょう。しかし、私は、平安を与えられています。主が私たちと共に歩んでくださるからです。この主は私たちの歩みも、そして教会のさまざまな歩みも、共に歩んでくださいます。この主は、今年、私たちに最も相応しい言葉を与えてくださったのです。

 

 主は、この一年を歩もうとしている私たちにこう語りかけてくださっています。

 「あなたがたは心を騒がしてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい。」

 

アーメン

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