・奨励 「私たち、そしてあなた方」 コロサイ3章16節
本日は、芥見キリスト教会員の森岡泰子姉が奨励をして下さいました。
まずは、前回お聞かせできなかった、へブル語による詩篇の朗誦を聞いていただきましょう。
これは、詩篇42篇です。聞いていますと、歌い方に抑揚があります。私たちには、言葉の意味は分かりませんが、語り手が強調したいところ、聞き手に注意を呼び覚ましたいところなどは、音が高められたり、ある種の節回しなどをつけています。これはことばの意味に基づいた感情を表出するのにより表現豊かな手段として歌われています。これは、詩篇が歌われている例の一つです。
さて、前回はダビデの詩篇32篇をとおして、ダビデの口から賛美が生まれるまでを皆さんと共に読み、考えました。ダビデは、自らが犯した罪をナタンによって示された後、その罪を認め、神の前に深い悔い改めに導かれていました。内側にひそむ闇。これに対して、自分の力ではどうすることもできない、また神の罰を受けながら、その苦悩を味わいつつも、それでもなお、神のみ手によらなければ自分には救いがない、救われないと、ただただ神の前に伏していました。そして、主なる神は、約束の通り、ダビデをこの穴から救い、ダビデの思いは砕かれて神の思いに合わされていく。つまり、ダビデが、神の祝福受ける者として生き直す事が出来るように整えていかれました。そして、ついには、このダビデの口にあった苦悩のことばは、神を褒めたたえ、感謝を表す「賛美のことば」に変えられたのでした。
この32篇を含めて、様々な詩篇が造り出され、記録され、記憶されて行きました。これら150篇の詩篇は、神御自身を賛美するもの、創造のみわざをたたえるもの、メシヤ預言がなされ、神の教訓のすばらしさをたたえるものなど、多様な内容を持っています。しかし、決して現実離れをした、ただの思想や理念、概念というような、空虚なものではありませんでした。神の民として、イスラエルの民が,現実の生活の中で,喜びの時,悲しみの時,苦しみの時などに作りだされ、歌われたものです。生活の場から生まれています。あかしの歌とも言うことができるでしょう。私の、あるいはあなたの、一個人の救いの体験、極めて個人的な経験であるということに留まらず、私たちの、またあなた方の…、といった広く互いが共有する事柄として語り継げられていくものとなっていきました。
また、さらに詩篇は,新約聖書とも密接な関係があります。詩篇が新約聖書の中に引用され、あるいは言及されていると考えられる箇所は約400に上ると言われています。初代の教会では、詩篇はメシヤ預言の成就、キリストの来臨という文脈で読まれました。そして、キリスト教会は、今日まで聖書66巻中できわめて重要な位置を占めていると認めて、信仰と生活の規範として,敬虔に読む者には神の啓示を与える有益な書であることを伝えてきました。この書物を通して、神ご自身のご性質を明らかに現わされ、神の本質を知る事が私たちに赦されています。
そこで、今朝は、新約聖書から見ていきましょう。パウロが獄中から書いたと言われる書簡、コロサイ人に宛て書かれた手紙です。
パウロは3回の伝道旅行の後に捕えられ、ローマの獄中にいました。そこへ、彼の弟子であり、コロサイ教会の立役者でもあったエパフラスから、コロサイ教会が危険な異端の勢力にさらされている、という情報を受けとったようです(7、8)。その事に心を痛め、教会が心配になったパウロはこの手紙を書き送ったと考えられています。3回のパウロの伝道旅行に伴って、アジヤの各地には教会が誕生していきました。このコロサイに赴き、直接パウロが伝道したとは記されていませんが、弟子のテモテやエパフラスの派遣によって教会が誕生したとも考えられていますから、いずれにしても、パウロの宣教の実として与えられた教会でした。
いつの時代にも教会には問題が付きまとい、中からも問題は噴出しています。旧約時代、神の民としてのイスラエルについても同様でした。彼らは、常に偶像礼拝への誘いがありました。
では、ここコロサイにはどんな問題があったのか?
2章にはこのように書かれています。
2:1 あなたがたとラオデキヤの人たちと、そのほか直接私の顔を見たことのない人たちのためにも、私がどんなに苦闘しているか、知ってほしいと思います。
2:2 それは、この人たちが心に励ましを受け、愛によって結び合わされ、理解をもって豊かな全き確信に達し、神の奥義であるキリストを真に知るようになるためです。
2:3 このキリストのうちに、知恵と知識との宝がすべて隠されているのです。
2:4 私がこう言うのは、だれもまことしやかな議論によって、あなたがたをあやまちに導くことのないためです。
2:5 私は、肉体においては離れていても、霊においてはあなたがたといっしょにいて、あなたがたの秩序とキリストに対する堅い信仰とを見て喜んでいます。
2:6 あなたがたは、このように主キリスト・イエスを受け入れたのですから、彼にあって歩みなさい。
2:7 キリストの中に根ざし、また建てられ、また、教えられたとおり信仰を堅くし、あふれるばかり感謝しなさい。
2:8 あのむなしい、だましごとの哲学によってだれのとりこにもならぬよう、注意しなさい。そのようなものは、人の言い伝えによるものであり、この世に属する幼稚な教えによるものであって、キリストに基づくものではありません。
2:9 キリストのうちにこそ、神の満ち満ちたご性質が形をとって宿っています。
2:10 そしてあなたがたは、キリストにあって、満ち満ちているのです。キリストはすべての支配と権威のかしらです。
まことしやかな議論、そして、騙しごとの哲学。
キリストを正しく認識したのであれば、偽りの教えの風に惑わされるようなことがないはず。ところが、パウロはコロサイ教会が現に直面していた思想,哲学,宗教的問題に触れていきました。この偽りの哲学の実体というものはよくわかっていないようですが、コロサイ教会を取り巻いていた状況をこの手紙から推測すると、〈あのむなしい,だましごとの哲学〉(8)は,いずれにせよ,すでにパウロが語ったキリストの教理とは一致しないもの。そのためパウロは,もう一度ここで読者にキリストを思い起させています。イエス・キリストには神の性質,本質が満ちているのだということ。つまり,キリストは神の特質をすべて持っておられる「神ご自身」である(9)ということ。また,キリストは全ての上に支配と権威を持つ方である(10)と書き記しています。
続けて、このキリストと私達、あなた方の関係について触れていきます。
2:11 キリストにあって、あなたがたは人の手によらない割礼を受けました。肉のからだを脱ぎ捨て、キリストの割礼を受けたのです。
2:12 あなたがたは、バプテスマによってキリストとともに葬られ、また、キリストを死者の中からよみがえらせた神の力を信じる信仰によって、キリストとともによみがえらされたのです。
2:13 あなたがたは罪によって、また肉の割礼がなくて死んだ者であったのに、神は、そのようなあなたがたを、キリストとともに生かしてくださいました。それは、私たちのすべての罪を赦し、
2:14 いろいろな定めのために私たちに不利な、いや、私たちを責め立てている債務証書を無効にされたからです。神はこの証書を取りのけ、十字架に釘づけにされました。
2:15 神は、キリストにおいて、すべての支配と権威の武装を解除してさらしものとし、彼らを捕虜として凱旋の行列に加えられました。
キリストと私たちは洗礼(バプテスマ)によって特別の関係にあるといえましょう。キリストと共に死んで、キリストと共によみがえるという神秘的な結合を体験しているのだと。ところが、洗礼におけるキリストとの結合という神の驚くべき祝福を忘れてしまっている者がいる。洗礼は〈人の手によらない割礼〉(11)であるものなのに、彼らは再び割礼の意義を主張し始め,その必要性まで訴えていたようです。
割礼を要求することは、救いのためには律法遵守が必要という立場に立つものです。異邦人でキリスト者になった者は「律法を守ることによって」更に救いの高度な条件を満たすのだ、という主張、教えのように思われます。
続けて、
2:16 こういうわけですから、食べ物と飲み物について、あるいは、祭りや新月や安息日のことについて、だれにもあなたがたを批評させてはなりません。
2:17 これらは、次に来るものの影であって、本体はキリストにあるのです。
2:18 あなたがたは、ことさらに自己卑下をしようとしたり、御使い礼拝をしようとする者に、ほうびをだまし取られてはなりません。彼らは幻を見たことに安住して、肉の思いによっていたずらに誇り、
2:19 かしらに堅く結びつくことをしません。このかしらがもとになり、からだ全体は、関節と筋によって養われ、結び合わされて、神によって成長させられるのです。
2:20 もしあなたがたが、キリストとともに死んで、この世の幼稚な教えから離れたのなら、どうして、まだこの世の生き方をしているかのように、
2:21 「すがるな。味わうな。さわるな。」というような定めに縛られるのですか。
2:22 そのようなものはすべて、用いれば滅びるものについてであって、人間の戒めと教えによるものです。
2:23 そのようなものは、人間の好き勝手な礼拝とか、謙遜とか、または、肉体の苦行などのゆえに賢いもののように見えますが、肉のほしいままな欲望に対しては、何のききめもないのです。
〈食べ物と飲み物について〉(16)とは,欲求にかかわるものでした。
禁欲は、人間の基本的欲求を抑制することですが,宗教と結びあうと、それは「敬虔」の表現として重んじられます。確かに禁欲は「敬虔である」ように人には映るものです。しかし,禁欲は、敬虔の一表現であっても,すべてではありません。また、祝福をもたらすための条件ではありません。すでに、パウロが明らかにしているように、キリストが罪の負債を一切帳消しにして下さった、というが大切なことです。
また、〈祭りや新月や安息日のこと〉(16)とは、安息日がユダヤ人固有の宗教的習慣であることから、律法に関することでしょう。
コロサイのキリスト者に旧約と古来の習慣の遵守がキリスト教信仰を「完成させるもの」だと教える者がいたと思われます。しかし,旧約も古来の習慣も、それらはキリストを指し示すという役割を果しましたが、ことごとくキリストにあって成就されたのですから、今もなお遵守を主張することは、キリストの贖いのみわざの意義を全く喪失させることになります。それはキリスト教信仰を根底から揺り動かすものといえるでしょう。
〈御使い礼拝〉(18)は、異教の偶像礼拝とは異なるようですが、あまりにも人間は無価値だという〈自己卑下〉(18)から、直接キリストに近づけないので、御使いの仲介が必要だといった教えであった。あるいはまた、諸霊に対して尊崇を表せば、更に信心深いと見なされるだろうと考えたのでしょう。実際、様々な偶像や自然物に対する礼拝は,どんどんいろんな対象を増やしていくことによって礼拝者の宗教心を満足させるものです。
また、〈幻を見〉(18)ること、そのような特別な体験をしたことの故に、これもまた信心深く、熱心であるかのような現れとして評価されていました。ですから、ここでパウロは、彼らがこのようなわざを誇り、〈かしらに堅く結びつくことをし〉ない、つまりキリストに全面的に信頼しないこと、それを非難しています。
キリストを心から愛し,信じていると言っていても、自分の禁欲、宗教的慣行に対する熱心さ、霊的な情熱などに頼っているなら、キリストからはその心において、すでに離れているといえるでしょう。キリストのみという主張は単純ではあります。しかし、内容においては、単純ということではありません。罪から贖いだされる方法は極めて単純であっても、神の計り知れない知恵から出ていることだからです。
パウロはコロサイ教会に侵入しようとしているこの教えを〈幼稚な教え〉(20)と言い、いかに高等な宗教の装いをしていても、キリストそのものを重視しないなら、その教えは幼稚であり、〈用いれば滅びるもの〉(22)だ、無価値なものだと、断言しました。
キリスト者は健全な救いの教理について確かな知識を持たなければなりません。それは偽りの教えから守られるためでもあります。また、偽りを見抜くためでもあります。しかし、正しい教理を受け入れているというだけでは十分ではありません。教理に基づく生活が求められています。教理のない生活は骨のないものとなりますし、また、生活のない教理はうわべだけのものとなってしまいます。パウロは、その生活の原理をここで語ります。
3:1 こういうわけで、もしあなたがたが、キリストとともによみがえらされたのなら、上にあるものを求めなさい。そこにはキリストが、神の右に座を占めておられます。
3:2 あなたがたは、地上のものを思わず、天にあるものを思いなさい。
私たちは、バプテスマによってキリストと共に死に、キリストと共によみがえらされました(2:12‐13)。キリストと共によみがえった者には新しい命が与えられたのだから、それにふさわしい生き方が求められる。まず、〈上にあるものを求めなさい〉(1)とその心のあり方を問うています。「上にあるもの」。そこではキリストが神の右に座しておられる。常にキリストを意識して生きよ、ということです。人は誰でも心にあることを外に現すものです。無意識であっても、知らず知らずのうちに心にあることを行います。であるならば、意識的にイエス・キリストのことを心に思い浮べて生きることがキリスト者の生き方の第1歩ということになるでしょう。そうすれば,天上の対極である地上のことに縛られることはない。地上のこととは,単にこの世のことというのではなく、3:5,8に列挙されているような人間の罪と堕落、その本性から生じる悪徳のことも含まれていきます。
これらは神に忌み嫌われるものであって,救いにあずかる者にふさわしくない。天上のことを思うことは,これらの悪から離れる最善の、そして最初の方策である、とパウロは教えています。心に変化が生じなければ、その生活に改善は見込めません。
3:3 あなたがたはすでに死んでおり、あなたがたのいのちは、キリストとともに、神のうちに隠されてあるからです。
3:4 私たちのいのちであるキリストが現われると、そのときあなたがたも、キリストとともに、栄光のうちに現われます。
また、天上のことを思うことは,キリスト者にとっては必然でしょう。なぜなら、キリスト者は復活の主と一つにされているからです。復活の主の力が、私達キリスト者の中に生き生きと働いています。この力は偉大な図り知れない力でしょう。まだ今は隠されていますが、キリストの現れる時、つまりキリストの再臨の時には、この復活の力は完全に現されます。
キリスト者が、その生活において復活の主に生かされていることを示さなければならなりません。
私たちキリスト者は、復活の主にあって生きることによって、今ここで終末の祝福を前味として頂いているのです。
さて、パウロのコロサイ教会への勧めは続きます。ぜひ、家に帰って続きをよくお読みください。そして、16節、17節で再び、人々の関心をキリストに目を向けさせています。
3:16 キリストのことばを、あなたがたのうちに豊かに住まわせ、知恵を尽くして互いに教え、互いに戒め、詩と賛美と霊の歌とにより、感謝にあふれて心から神に向かって歌いなさい。
3:17 あなたがたのすることは、ことばによると行ないによるとを問わず、すべて主イエスの名によってなし、主によって父なる神に感謝しなさい。
16節の命令「住まわせなさい」は、15節と同様な始まり方で一連の勧めの中にあります。
原文を見ますと、ここでの主文は「キリストのことばを、住まわせなさい」と書かれています。「住まわせなさい」という言い方は、特に神について、あるいは、霊的なものについて言われることが多いことばと考えられています。例えば、御霊が私たちの内に住む(ロマ8:11)。神が私たちの内に住む(Ⅱコリ6:16)、信仰があなたに宿る(Ⅱテモ1:5)のような表現です。これは、単に内側に宿るのではなく、支配し、その家に影響を与えるまで浸透する事を意味しています。「キリストの言葉」は、福音、キリストの教理、キリストをテーマとする真理のこと。キリストは言葉そのものです。「豊かに」とは、「完全に理解され、そして、心が完全にその支配下に置かれること」。
直訳的には「キリストの言葉を、住まわせなさい。あなたがたの内側に、豊かに、」となるでしょうか。その様に、キリストの言葉を「住まわせる」必要があります。
続いて、「知恵を尽くして」は、「教え」、「戒め」にかかる言葉と考えられています。「戒める」はもともと、「心に置く」「知性の中におく」という意味で、そこから「勧める、警告する」という語が派生しました。
そして、面白い事に、「詩と賛美と霊の歌によって」という言葉は、その前の「知恵を尽くして教え、互いに戒め」にかかっていると見る事もできます。ですから「詩と賛美と霊の歌」によって、この手段で「教え、互いに戒める」と訳す事ができるでしょう。そして続いて、この内容で「歌いなさい、感謝にあふれて、神に」となっていると考えることができます。「詩と賛美と霊の歌」の区別は、必ずしも明らかではありません。「詩」とは広くは詩篇と考えられています。「賛美」は、詩篇以外の詩文の形式ある歌とも考えられています。あるいは、自由詩で書かれたキリストを証し伝える歌であるとも。「霊の歌」は、信徒の信仰体験を歌った歌、または創作讃美歌である、などが考えられてきました。
しかし、ここでパウロは、神を賛美して歌うことの大切さを説くために3つのことばで表現したと思われます。
いずれにせよ、ここで、みことばと賛美が同時に取り上げられています。歌われる場は、キリスト者達の集まりと考えられます。つまり教会でしょう。歌うことは,明らかに教会という共同体の行為を示します。つまりは礼拝です。このように御言葉による相互の励まし合いは、キリスト者の思いを礼拝へと、神に直接向けさせるものです。
勿論、公的な礼拝だけではないでしょう。キリスト者の日常生活全体が神礼拝となるようなあり方が求められています。
イエス・キリストは、福音の宣教を教会にゆだねられました。ご自身の贖罪の事実、十字架の事実とその結果生じる神との和解の使信は,教会が全世界に宣べ伝えるべきものです。パウロはこの和解の福音を宣べ伝えるためにどれほど努力し,苦闘しているかを語っています。それは教会に仕える務めとしてであり、教会を建て、教会を形成していくために任命された使徒としての役割を果すための苦闘でした。福音宣教は、私たち、あなた方、それぞれにキリスト者個人が実践するとしても、その務めは教会固有の務めです。教会はこのためにキリストから直接命令を与えられています。
そのために、コロサイ教会に必要なのはイエス・キリストに関する正確な知識でした。彼らはこの部分に欠けがあったために、偽りの教えの影響を受けざるを得なかった。
しかし、知識だけに偏るのではなく、み心にかなう歩み、キリスト者としての生活の実践を考えるようにと教えました。そして時には、主にかなった歩みをする事によって実を結び、結果として、「神知識」を増し加えて頂く経験をすることもあるでしょう。
私たちは、神に向かって歌いましょう。たくみに歌われるとか、ハーモニーで美しく響かせるということ以上に、私たちは真理を歌いましょう。歌いながら語りましょう。それが、信仰者の歌となります。互いに、歌いつつ教えられ、また、諭されていきましょう。互いに励ましを受け慰めを与えましょう。賛美が本物になるならば、神ご自身が働いてくださると信じます。賛美が豊かにされていくということは、教会が豊かに成長するという事だと私は考えています。