2024 年 11 月 17 日

・説教 ヨハネの福音書6章5-15節「パンと魚を持っている少年」

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2024.11.17

内山光生

ここに、大麦のパン五つと、魚二匹を持っている少年がいます。でも、こんなに大勢の人々では、それが何になるでしょう。 -ヨハネ6章9節

序論

 今日は子ども祝福式礼拝です。いつもよりたくさんの方々が礼拝に集ってくださり神様に感謝をいたします。

 さて、私は普段はマルコの福音書から説教をしていましたが、今日は特別にヨハネの福音書の中の子どもが登場する出来事から説教をさせて頂きます。

 毎週日曜日に行われる教会の礼拝というのは、大人だけのものではなく、赤ちゃんから高齢者までとあらゆる年代の人々に開かれているものです。確かに、幼い子どもたちは、じっとしているのが難しかったり、時々、声を出すことがあります。が、しかし、イエス・キリストはそのような子どもたちさえも、ご自身のメッセージを聞くことをお許しになったお方です。そして、実際、幼い子どもたちは、大人たちが想像している以上に、神様の教えを聞いているものなのです。あるいは、大人たちが神様に礼拝をささげているその真剣な姿をじっと観察しているのです。

 私に関する事をお話しすると、両親がクリスチャンでしたので、赤ちゃんの時から教会の礼拝に集っていました。そして、幼い頃に経験した礼拝に対するイメージは、とても良い思い出として残っています。何より、大人たちが子どもたちを大切にしている事が伝わってきましたし、たいていの大人は子どもたちに対して優しかったのを覚えています。

 大人が子どもに与える影響は、言葉だけでなく態度や雰囲気も関係がある、そのことを心にとめて子ども祝福式礼拝を味わうことができれば幸いです。

 では、今日の箇所を順番に見ていきます。

I ピリポを試すための質問したイエス様(5~6)

 5節、6節を見ていきます。

 今日の出来事は、イエス様が人々の前で行われた奇跡の中でも特に有名なものの一つです。一般的には「5千人の給食」と呼ばれたり「五つのパンと二匹の魚」と言うタイトルがつけられたりします。では、イエス様がこの奇跡を行われた目的は何だったのでしょうか。それは6節に書かれているように、「ピリポを試すため」とあります。

 ピリポだけでなくイエス様の弟子たちは、すでに、イエス様が行われた多くの奇跡を目撃していました。それゆえ、彼らは「イエス様は普通の人間には不可能な事でも奇跡を起こす力がある」ということを知っていたのです。そのことをどれ程、理解できているかが試されたのです。

 ピリポと言えば、計算力があって物事を論理的に考える力が優れている人でした。頭の回転が速いので彼に何かをお願いすれば、きっとテキパキとこなすことが期待できる、別の表現をすれば「仕事ができる男」と言ったところでしょうか。

 イエス様はそんなピリポの特徴を良く知っていて敢えて彼に話しかけるのです。「どこからパンを買って来て、この人たちに食べさせようか。」と。

 イエス・キリストは、しばしばご自身の弟子たちが霊的に成長するために、無理な要求をすることがあります。それは今回のピリポに対してだけではなく、他の弟子たちに対しても何度も何度も、似たような要求をする場面があります。

 そのような箇所を読んででしょうか。私の知り合いの牧師から聞いた話ですが、その人が学んだ神学校の校長先生は、学生たちが困るような課題を与えることがあった、いや、しょっちゅう、そんな事があった、というのです。例えば、校長先生から4時55分になって手紙をポストに出してくるように頼まれると、しかも「今日の便に間に合うようにお願いします」と言われるそうです。ところが、郵便ポストまでは10分くらいかかる場所にあります。ですから、もしも郵便屋さんが時間通り5時に来たならば、間に合わないのです。

 それを分かっていて校長先生は、わざと間に合わないような時間になって「手紙をポストに出してきてください」とお願いするのです。頼まれた本人は、必死になってポストに向かいます。するとタイミングがよければ、なんとかその日の回収に間に合うのです。しかし、そればかりは行ってみないと分からないのです。彼が言うには「間に合うこともあったし、そうでない時もあった」と。これは今から25年くらい前の話ですので、大きな問題にならなかったかもしれないですが、今の時代だといわゆる「パワハラ」だと指摘されかねない、そんな出来事です。けれども、校長先生は、校長先生なりに学生がこの出来事から何かを学び取ることを期待して、敢えて、「無理な事を要求する人」を演じていた、というのです。実際は、その校長先生はとても優しく面倒見の良い人なのです。

 話は戻りますが、イエス様はピリポがどのような反応をするのかを予想していたと思います。それでも、敢えて、彼が大切な何かを悟ることができる事を期待して「不可能な要求」をしたのです。「どこからパンを買って来て、この人たちに食べさせようか。」

 この要求は、その場にいる人のおおまかな数と手持ちのお金を計算すれば、実行可能かどうかがすぐに予想できるものです。それで、ピリポはすぐさま頭の中で計算したのです。この時点でその場にいる人の正確な人数までは分からなかったかもしれません。でも、だいたい千人ぐらいなのか、あるいは3千人ぐらいなのか、あるいは5千人以上なのかは見当がついたのでしょう。

II 常識的な回答をしたピリポ(7節)

 7節に進みます。

 ピリポは一人分のパンの費用とここにいるであろう人の数を掛け算すると、二百デナリのお金があったとしても足りない、ということが分かったのです。二百デナリとは、幾らでしょうか。それは、当時の一日分の給料が一デナリと言われていましたので、今の時代に置き換えて考えると、例えば一日の賃金が1万円だと考えると、二百デナリは200万円ということになります。

 イエス様と弟子たちは、誰かの畑の麦の穂を食べることさえある、そんな生活をしていましたので、恐らく200万円もの大金を持っていなかったと思われます。また、もし仮に200万円を持っていたとしても、しかし、今、人々がいる場所は、近くにパン屋さんがないような辺ぴな所でしたので、調達するためには、それなりの時間が必要になったと考えられます。そうなると、今すぐに皆のお腹を満たすということができなくなります。だから、実際にお金があったとしても、すぐに全員の食べ物を調達することは不可能な事だったのです。

 ピリポが「二百デナリのパンでは足りません。」と言ったことはもっともな話です。けれども、イエス様が期待していたのは、この世の常識で判断するのではなく、「イエス様ならばどうするだろうか。いや、イエス様ならばパンを調達する事ができるに違いない。」そういうことに気づくかどうかを見ておられたのです。

 イエス様を信じているクリスチャンであっても、多くの場面で、イエス様に期待をするのではなく常識的な考え方で物事を進めようとすることがあるのではないでしょうか。一方、自分の今の現状を見ると不可能に思えたとしても、しかし「神様ならば何とかして下さる」と神様に期待をする、そういう人もおられる事でしょう。

 私たちがイエス様がどれ程偉大なお方なのかに目をとめる時、今の自分の力ではどうする事もできない、それが現実であったとしても、しかし、神様が働く時、不可能が可能になる、そういう希望を持つことができるのです。イエス様は、ピリポにそういう信仰を持ってほしいと願っていたのです。でも、この時点ではピリポだけでなく他の弟子たちも似たような状態だったのです。つまり、ほとんどすべてのイエス様の弟子たちの信仰は、まだまだ未熟だったのです。

III 少年のパンと魚を見つけたアンデレ(8~9節)

 続いて8~9節に進みます。

 イエス様の弟子の一人アンデレが言いました。「ここに、大麦のパン五つと、魚二匹を持っている少年がいます。」と。どうやらアンデレの近くにいた少年が、自分の持っていたパンと魚を袋から取り出して、「僕はこれこれを持っているよ」とアピールしたのでしょう。そして、アンデレがその姿に気づいてイエス様に報告したのです。

 この少年についての詳しい情報は、聖書の中には記されていません。しかし想像力を働かせて考えてみると、大勢の群衆が集まっている中で、この少年はイエス様やその弟子たちと割と近い場所にいたと思われます。つまり、イエス様の話を聞くために、より近くにやってきていたのです。ここに少年の熱心さを垣間見ることができるのではないでしょうか。もし仮に私たちが誰か有名な人の話を聞くチャンスがあったならば、熱心な人程、その有名人の近くで話を聞きたい、そう願うものです。ですから、この少年も、イエス様のお話を聞きたい、そういう思いが強かったのではないかと推測できるのです。

 また、この少年はイエス様と弟子たちが食べ物の事でやりとりをしているのを聞いて、すぐさま自分の持っている食べ物をアピールすることができたのです。ここにこの少年の気前の良さが表されているいるのではないでしょうか。この少年は、恐らく、純粋な気持ちで自分のパンと魚を他の人々にも分け与えたい、そういう気持ちになっていたのでしょう。

 けれども、イエス様の弟子のアンデレは、せっかく少年がパンと魚を差し出しているにも関わらず「でも、こんなに大勢の人々では、それが何になるでしょう。」と否定的な反応をしめしたのです。少し前に、ピリポは二百デナリのパンでは足りないと常識的な発言をしました。そしてアンデレもまた同じように、頭の中ですぐに計算をして「五つのパンと二匹の魚では全く足りない」と考え、その思いを口にしたのです。

 繰り返しますが、イエス様はピリポや他の弟子たちの霊的訓練のために、敢えて、人間の感覚では不可能なことを要求しているのです。もしも彼らが「イエス様ならば不可能を可能にすることができる」と固く信じていたならば、彼らはきっと「イエス様、私たちの力ではどうすることもできません。しかし、あなたならばなんとかすることができるはずです」と答えることができた事でしょう。けれども、ピリポにしてもアンデレにしても、まだまだイエス様がどんな事でも実行できるという事実を悟っていなかったのです。

IV 男5千人にパンと魚を与えられたイエス様(10~11節)

 10節、11節に進みます。

 この節から、いよいよイエス様の奇跡が行われる場面となります。まず最初にイエス様は弟子たちに対して「人々を座らせなさい」と命じられました。弟子たちは、これから何が起こるのかが分からないまま、ただイエス様の言われる通りに「座ってください。座ってください。」と声をかけた事でしょう。そして、その時に男性が5千人いたと記されています。別の福音書では「男性だけで5千人」とありますので、実際は女性と子どもを含めると、もっともっとたくさんの人がいたのです。

 次に人々が座り終わると、イエス様は少年が持っていたパンを取り、感謝の祈りをささげました。そして、そのパンが座っている人々に分け与えられたのでした。つまり、五つのパンが5千人以上の人々に分け与えられたのです。

 二匹の魚も同様に、5千人以上の人々に、しかも、食べたい分だけ分け与えられたのです。この時、イエス様の弟子たちとここに座っていた人々は、どれ程、驚いた事でしょうか。少年が持っていたわずかなパンと魚が、イエス様が祈りをささげる事によって、信じられない程の量に膨れ上がったのです。

 ある人々は、このような出来事は現実には起こりえない事だ。だから、作り話あるいは誇張された話に違いない、そんな風に考える事があるようです。しかし、これはイエス様がどういうお方なのかを示す出来事であって、人間には不可能な事でもイエス様には可能だという事、つまり、イエス様は神様なんだということを知らしめるための奇跡なのです。イエス様が行われた奇跡は、これだけではありません。「水をぶどう酒に変えること」もありましたし、「湖の上を歩くこと」もありました。また、「治る見込みのない病人を癒すこと」もありました。どれも、常識的には不可能な事ばかりです。それゆえ、そのような事を実行できるとすれば、その方は、神様に他ならない、その事実に気づかせようとしているのです。

 今の時代においても、まだ聖書をあまり読んだ事のない方々が、いざ聖書を読むと、現実には起こりそうもない出来事が至る所に記されているのを知り、ある人々は、それでもイエス様を信じるようになる、一方、「こんな事を本当の事だと信じる事はできない」と考える人もいる。そのようにして、いろんな反応が起こるのです。

 イエス様の時代に生きていた人々は、直接、イエス様の奇跡を体験することができた、その点においては、恵まれた人々だと言えるでしょう。けれども、人々がイエス様に対する信仰を持つことができたかと言えばそれは別問題だったのです。

V 余ったパン切れが12かごいっぱいになる(12~13節)

 12節、13節は省略させて頂きます。

VI 主イエスをこの世の王と勘違いする人々(14~15節)

 14節、15節に進みます。

 イエス様の奇跡を直接、味わった人々は、口々に「この方こそ、預言者だ」と言いました。しかし、人々のこの言葉の裏には、イエス様に対する間違ったイメージが含まれていました。すなわち、人々がイエス様を預言者だと言ったのは、「この世界を支配する政治的な指導者」という意味で預言者だと言っていたのです。

 イエス・キリストが地上世界に来られた目的は、私たちの罪の身代わりとなって十字架にかかり、よみがえることにありました。一方、人々が期待していたのは、ローマ帝国による政治的苦しみから解放するユダヤ人の新しいリーダーだったのです。それゆえ、イエス様が驚くべき奇跡を行ったとしても、人々はイエス様が伝えている福音がどういう事なのかを悟ることができなかったのです。

まとめ

 イエス様は、少年が持っていたパンと魚から、5千人以上の人々に分け与えるという驚くべき奇跡を行いました。その奇跡の目的は、ピリポや他のイエス様の弟子たちが霊的に成長するためのものでした。そう考えると、この奇跡は意味があったと言えるのです。

 今の時代において、これと同じような奇跡が起こるという訳ではありません。しかしながら、神様は私たちが神様を信頼して、祈りをささげる時、現実には不可能と思える事であったとしても、不思議な方法でその祈りに応えて下さることがある、それは確かな事だと言えます。

 多くのクリスチャンは、神様に自分たちの願いを祈り続けていると思います。そういう中で、神様のみこころと私たちの祈りが重なり合った時に、その祈りが現実のもとのなっていくのです。私たちは自分たちの祈りを常識的な内容にとどめるのではなく、不可能なことと思われても実行可能なお方、それがイエス様だという事を心にとめたいと思います。

 子ども祝福式礼拝のこの日に、一人ひとりが幼子のような信仰のように純粋な気持ちでイエス様に信頼した歩みができるようにと決心をしていきましょう。

お祈りいたします。

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