・説教 ルカの福音書14章25-35節「十字架を背負って」
2024.11.24
鴨下直樹
⇒ 説教音声の再生はこちら
今日はこの礼拝の後で、役員会による洗礼希望者の諮問会が行われます。洗礼式の前にはいつも洗礼を受ける人の証を聞き、信仰告白の言葉を聞きます。役員の一人一人が、その言葉に耳を傾けます。そして、その後に、洗礼入会式の時になると、司式者の問いかけに対して受洗者は「はい、信じます」という告白をすることになるのです。
洗礼式の時に必ずいくつかの問いかけをします。初めはこういう問いから始まります。
「あなたは天地の造り主、生けるまことの神のみを信じますか」
すると、洗礼を希望される人は皆「はい、信じます」と答えるのです。ここにおられる教会員の皆さんも、かつて洗礼を受けられた時に、そう告白されたと思います。
私は、あの「はい、信じます」という言葉を聞くと、いつも不思議に思います。決して簡単な言葉ではないはずなのです。
主イエスが今日のところで群衆に問いかけておられる言葉があります。
「わたしのもとに来て、自分の父、母、妻、子、兄弟、姉妹、さらに自分のいのちまでも憎まないなら、わたしの弟子になることはできません。」
26節の言葉です。
驚くような言葉であるかもしれません。主イエスの弟子となるためには家族を憎むのだと言われるのです。しかし、私たちが洗礼の時に「はい、信じます」と告白するということは、この26節の主イエスの言われる言葉に「はい、分かりました」と答えるのと同じ意味を持っています。
そんなことを言われると、びっくりする方があるかもしれません。「私はそこまで考えて洗礼を受けたわけではありません」と思うかもしれません。そのくらい、この26節の主イエスの言葉は厳しい言葉です。主イエスの弟子になるというのは、並々ならぬ覚悟が要る。そう語ろうとしているのでしょうか?
主イエスはこう言われた後で二つの短い譬え話をされてています。一つは塔を建てる時に、完成できるかどうか、あらかじめ計算するという話です。もう一つは、戦いに勝つためには勝てる見込みがあるかどうか、よくよく考えるという譬え話です。
この二つの譬え話が言おうとしていることは、それほど難しい話ではありません。この先に起こることを予め見越して決断しなさいということです。この後どうなるかよく見極めなさいという話です。
なぜ、そういうことを主イエスはここで言われたのでしょうか?
主イエスの周りには大勢の群衆たちが付いて来ていました。この群衆と呼ばれる人の中には、いろんな人たちがいました。
ある人は、病気を治してもらいたいと考えていました。
ある人は、パンが貰えると思って付いて来ていました。
ある人は、主イエスの教えに興味があって、この人が何者なのか知りたいと思っていました。
また、この人は何かすごい人で、きっとローマの支配から自分達を解き放ってくれるのではないかと期待している人たちもいたでしょう。
ある人は、みんなが付いて行くから、何かあるのかなと興味を抱いていたかもしれませんし、
ある人は、主イエスの本性を明らかにしてやろうと狙っていたかもしれません。
そして、主イエスに従いたいと思っている人や弟子たちもいました。
皆、それぞれに理由があって主イエスに付いて来ています。人にはそれぞれにニーズがあります。主イエスの後を付いて行くというのには、何か理由があります。それぞれに願い求めがあります。しかし、そういうすべての人が信仰の言葉を聞き取ることができるようになるわけではありません。中には途中で自分の期待に見合うものを、主イエスがもたらしてくれるかどうかを見極めようとする人も出てくるのです。
主イエスというお方は、ご自分の周りに集まってくる人を一人でも多くかき集めようとされたわけではないのです。その中の多くの人が、やがて去っていくことを厭われませんでした。間違った期待を持ったままで、御自分に付いて来ても、得られるものが有るとは限らないことを、ここで明らかにしておられるのです。言ってみれば、引き返すなら早い方が良いと教えておられるようなものです。
この世界には、実に様々な宗教があります。なんとか人をかき集めたいと願って、様々なことを致します。私たちも、何とか多くの人に主イエスのことを知ってもらいたいと思って伝道の計画を立てるわけです。
ところが当の本人である主イエスは、それほど人集めをすることにご熱心ではなかった。いやむしろ、早く気が付いてはどうかと、去っていった方が良いとまで言われるわけです。というのは、実に多くの人が、そこで間違うからです。自分の期待したものが得られると思っている人たちがあまりにも多いからです。そういう意味でも、私たちの伝道もただ人集めをすることが大事なのではなく、その人の本当の必要を主が満たしてくださることを伝えることが大切なのだということになるわけです。
主イエスは、集まって来た人々に、どうしてここで「自分の家族や、自分のいのちを憎まないなら、わたしの弟子になることはできません」と言われたのでしょう。クリスチャンになるためには、主イエスに従っていくためには、家族のことを嫌いにならなければならないのでしょうか? ここを読むと、どうしてもそのように考えてしまいます。いつも、隣人を愛することを聖書は語っているのに、一番身近な隣人である家族を憎むというのはどういうことなのでしょう。
この「憎む」という言葉は「嫌いになる」というような感情を表す意味の言葉ではありません。もともとは「背を向ける」という意味の言葉です。「背を向ける」というのは「他に見たいものがある」ということです。誰もが自分の人生を生きています。その中で、それぞれの人生設計というものがある。そして、そこに「自分が見たいものがある」とすると、それが優先順位の最上位となってくるのは必然です。つまり、主イエスを見つめるよりも、主なる神を見上げるよりも大切なものがある、それが愛する家族ということになり得るわけです。もちろん、家族を愛することは大切です。けれども、最も優先されるのは主なのだということです。
あるいは、こうも考えられます。「憎む」という言葉の対義語は「愛する」です。このこともよく考えてみる必要があります。家族を愛すること、隣人のことを愛することを、聖書はいつも私たちに語っています。これも、優先順位の問題ですが、一番にくるのは、家族ではありません。「父、母、妻、兄弟、姉妹、そして自分のいのち」ではないのです。一番にくるのは「神を愛すること」です。そして、この神を愛することの上には、何も入り込む余地はないのです。
というのは、「父のことが」とか、「母のことが」といったさまざまな事情が、どんな小さなことでもそれが神よりも優先されてしまうと、結局は自分の願っていることが一番大事ということになってしまうわけです。
「憎む」というのはとても強い言葉です。ですが、主イエスがここで強調しようとされているのは、徹底的に神に心を向ける愛、それがどんなことよりも優先されるということを、こういう強い言葉で言い表しておられるわけです。
そうすると33節に出てくる強い言葉の意味も、自ずと分かって来ます。主イエスは二つの短い譬え話を話された後で、こう言われました。
「そういうわけで、自分の財産すべてを捨てなければ、あなたがたはだれも、わたしの弟子になることはできません。」
皆さんの中には、今日の聖書箇所を聞いて、少しドキドキしながら周りの人を見た方があるかもしれません。ここにいる人は皆、財産を全部教会に献金した人たちなのだろうか? そんなこと言われちゃうと、もう安心して教会には来られないなと不安になられたかもしれません。
ひょっとすると、こういう聖書箇所から、キリスト教系の異端と呼ばれるグループは財産を全部献金するようにと教えるのかもしれません。私たちの心が、家族のことや、自分のいのちのことに一番に心が向かうのと同様に、財産が大事になってしまうことも、また起こり得ることです。私たちの主は、すべてを支配しておられるお方ですから、お金が欲しいお方ではありません。しかし、神のことよりも、お金のことが大事だとなってしまうのだとすると、優先順位はお金が一番ということになってしまうわけです。
もちろん、私たちは収入の中から神様にそれぞれ決めた額を献金という形で捧げ物をします。「十分の一献金」と言ったりします。これは、私たちの心が神様を第一に優先しているかどうかを表すものとして、主が旧約聖書の時からお定めになったものです。イスラエルの民の中には、土地や家畜を持たないで、神殿や幕屋に仕える「レビ人」がおりました。このレビ人たちの他にも、寄留者と呼ばれる旅人や、土地や家畜を持てなくなったしまった貧しい人々がいます。これらの人々を支えることを目的として、十分の一の捧げ物が教えられました。
実は、今わたしは神学塾で、羽島教会の奥田先生が教えている「申命記の聖書研究」を受講しています。神学生たちに混ざって、一緒に講義を受けています。先日は申命記26章を学びました。ここは、いろいろな細かな規定、細則が語られているところですが、その中に捧げ物のことが書かれていまして、この26章で語られている十分の一の戒めの規定の意味は「イスラエルの福祉政策」だと説明されていました。
まさに、神様は隣人、弱い立場の人々を愛して支えるために捧げ物の必要性を教えられていたわけです。神の心の優先順位の一番は、私たちのことを愛することです。主は常に私たちのことを愛し、私たちのことを考え、私たちがよりよく生きることを願っておられます。そして、この主は、私たちにも、同じように主を愛すること、家族よりも、自分のことよりも、お金のことよりも、神を第一とすることを期待しておられるのです。そして、この神の愛は、私たちの負担、重荷とはならないのです。恩に着せようというのではないのです。主の愛の性質から、滲み出てくる愛が、私たちを包み込んでくれるのです。
かつて、ドイツにマルチン・ニーメラーという牧師がおりました。ナチス・ドイツの時代にヒトラーの迫害の中で抵抗した牧師です。当時のヒトラーは、連戦連勝を国にもたらし、人々はヒトラーを神のように崇めるようになります。そして、まるでヒトラーも自分がすべての権力を握る神であるかのように振舞いました。そして、当時のカトリック教会も、プロテスタントの教会も、このヒトラーの政治の下に仕えるようにされていきました。けれども、それに従わない牧師たちもいます。ニーメラー牧師はそのヒトラーに従わない反対運動の代表者となります。しかし、ヒトラーは自分に従わない牧師たちを次々捕えていきます。ニーメラー牧師は、そのために8年間投獄されます。まさに、信仰のために、神を第一としたために家族などのすべてを奪われてしまいました。それでも、神を第一とし続けていく真実の姿を人々に示したのでした。
8年後どうなったでしょう。ヒトラーは自ら命を断ち、ニーメラー牧師は釈放されることになったのです。主イエスを一番とするというのは、一時的には、とても厳しいことを耐え忍ばなければならないということがあるかもしれません。しかし、どれほどの恐怖が襲って来たとしても、それこそ、たとえ命を奪われることがあったとしても、主が私たちの味方でいてくださるならば、どんな厳しいところに在ったとしても、私たちは平安を持つことができるのです。
主イエスは全てに勝利されるお方です。たとえ、死を迎え、殺されてしまうことがあったとしても、一時的には負けのように見えたとしても、主イエスは勝利者であるという事実は動くことはないのです。
最後の34節と35節で、主イエスは「塩」の話をします。
「塩は良いものです。しかし、もし塩が塩気をなくしたら、何によってそれに味をつけるのでしょうか。土地にも肥やしにも役立たず、外に投げ捨てられます。聞く耳のある者は聞きなさい。」
今日の箇所で主イエスは本当にいろんな話をしておられますが、すべてが一つのことを言い表しています。「塩」というのは、本来味が無くなるものではありません。でも、それが無くなってしまっているのだとしたら、そんな塩は何の役に立つというのか。何の役にも立たないと言っておられます。ここで主イエスが言われる「塩」とは何を指しているのか、そのことさえ分かれば、この話はそれほど難しいことではありません。ここでいう「塩」とは「弟子たち」のことです。主イエスに従おうとする者のことです。主イエスに従おうとする弟子たちは、まさに「塩」のような役割を期待されています。この世界が腐ることのないように、また、この世界に味をもたらすものという意味も込められているでしょう。それが、主イエスのお姿であり、私たちクリスチャンの姿です。ところが、その弟子たちが、主の姿とは全く異なる歩みをしているとすればどうでしょう。それは、本来はあり得ないことです。しかし、もし主イエスの弟子たちが、自分達のことばかりを考えているとすると、この世界にキリストの味が伝えられていくことは無くなってしまいます。
主イエスは今日のところで、何を私たちに語りかけておられるのでしょうか。いろんなことが語られていて理解しづらかったかもしれません。主イエスはここで、私たちが主イエスの弟子として歩もうとするのであれば、神を一番とすること、主を愛すること、主イエスのように生きることだと語っておられます。そして、そのために、それぞれ負うべき自分の十字架を背負って付いて来なさいということです。それがこの先のことを計算しなさいと言っておられることの意味です。
「十字架を負う」というこの27節を読むと、ここでも私たちは引っかかりを覚えます。ここで言う「自分の十字架」とは何でしょうか? それは、「父、母、妻、兄弟、姉妹、自分のいのち」のことであり、「自分の財産」のことです。私たちには、私たちが大切にしたいものがあります。けれども、それよりも主イエスのことを何よりも優先することです。家族であったり、自分の命であったり、財産のように、「自分の見たいもの」があるのです。私たちには、それぞれにこの「弱さ」があります。それは人によって異なります。「お金」が弱さの人もあるでしょう。いや、「お金が無いことの方が私の弱さです」ということもあるかもしれませんが、そういうことではなくて、「自分が大切に守っているもの」のことです。自分の学歴やプライドということもあるでしょう。「私たちが大切に守っているもの」にはいろいろあります。「自分の変わろうとしない性質」や、「自分の譲れないこだわり」もあります。そのようなものを抱えたままで、主に従っていくと、それはどこかで必ず姿を現します。それは「ダメなもの」である場合もあるでしょうし、「とても良いもの」である場合もあります。それは、本当に人によって異なります。
いずれにせよ、それを抱えて、主に従って行こうとすると、私たちはある時気づくことになるのです。私の「十字架」も、主イエスが担ってくださるのだと、あるいは、すでに担ってくださったのだと。私たちは、それらからも、やがて自由になることができるのです。
この時、主イエスはまだ十字架に架かっておられません。なので、この時は、まだ十字架を負ってついて来なさいと言われているのです。私たちには、自分達が負うべきものがある。そして、その負うべき十字架をやがて、主イエスに背負ってもらっていることに気づく時が来るのです。
それには、なお時が必要です。何度も言うことですが、これを「既に」と「未だ」という言葉で言い表して来ました。しかし、私たちの十字架、私たちの弱さ、私たちの守りたいもの、自分で大事にしなければならないと思っているものは、主によってやがて完全に変えられます。主が良いものへと変えてくださるのです。
自分の家族も、自分の命も、自分の財産も、何もかも、すべてを主に与えられた良いものと受け止めることができるようになるのです。主は、私たちのすべてのすべてであられるお方です。主は、私たちを本来私たちが歩むようにされている正しい道に導くことのできるただ一人のお方なのです。
主イエスの歩みは、十字架に向かう歩みです。けれども、その歩みの先に神の国が待っているのです。私たちはそれぞれに弱さがあり、自分の十字架があります。けれども、この主イエスの背中を見つめながら、主の道を歩んで行く時に、私たちには大きな神の慰めと、喜びが備えられているのです。
お祈りをいたします。