・説教 ルカの福音書15章1-7節「見つけ出された羊」
2024.12.01
鴨下直樹
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今日からルカの福音書の第15章に入ります。ここは、有名な三つの譬え話が記されているところです。「迷える子羊」の譬え話と、「失われた銀貨」の譬え、そして「放蕩息子」と呼ばれる譬え話が記されています。
はじめにお話ししておくと、この三つの譬え話というのは、主イエスが私たちにもたらしてくださる「救い」を3つの視点で語っているものです。もし誰かに、「聖書が語る救いって何ですか?」と聞かれたら、このルカの15章を思い出してくだされば良いわけです。
さて、ルカの福音書の第15章にある主イエスが話された三つの譬え話は、ある出来事がきっかけになっています。それが1節と2節に記されています。これによると、主イエスの話を聞こうと、その周りに取税人たちや罪人たちが集まっていたようです。どうも、食事も一緒にしていた様子です。その姿を見て、パリサイ人や律法学者たちは文句を言ったと書かれています。
別に、誰が誰とご飯を食べようが、誰と話そうが勝手にしたらよいと考えがちですが、この光景を、パリサイ人たちはどうしても認められませんでした。というのは、取税人や罪人たちというのは、神様の意思に逆らう人と考えられていたからです。パリサイ人のように神様の戒めに従おうとする人たちというのは、できるだけきちんとした生活をすることを志していました。誰からも後ろ指をさされることがないように、生活を律していました。この人たちの志はたいしたものであったと言えると思います。ですから、ここで罪人とよばれるような人とのお付き合いは避けました。どうしてかというと、いつどこでその人たちが悪いことをしでかすか分かりません。そうなれば、後々誰かに咎められる可能性があったからです。
連日、兵庫の知事さんの話題でもちきりでした。公職選挙法に違反したのではないかと考えられていましたが、あの問題となった広告代理店の女性の社長さんが「話を盛っただけだ」と答弁すると、「なるほどそういうこともあるかもしれない」とみんな納得して、それ以上追及されなくなりました。けれども、こういう教訓というのは大切で、普段の脇の甘さが肝心なときに問題となる怖さというのを、私たちはあそこで見たわけです。そういうものをイメージすると良いのかもしれません。
パリサイ派の人々は他の人の目をいつも気にしています。そういう人たちですから、主イエスの周りに罪人たちがいて一緒に食事をしている光景というのは、ひどくだらしなくみえるのです。一言、言わないではいらないような気持ちになるのです。罪人と一緒にいるということは、自分もその影響を受ける。それは聖書を教える立場の人には相応しくないと考えたのかもしれません。
こういうパリサイ人の感覚というのは私たちにもよく理解できると思うのです。主たる目的は自分を守るためです。けれども、どうしてもそこには差別意識というのが生じてきます。こういう人とは関わらない方が良いという考えは、現代では「危機察知能力が高い」と称賛されることなのかもしれません。けれども、それはそういう態度をされた側の気持ち、差別される側の気持ちは全く考慮されてはいないのです。ただ、一方的に見下され、悪者扱いされ、差別されているに過ぎません。
こういうものは、表面化してくれば「いじめ」とか今時の言葉で言えば「コンプライアンス問題」などと言って取り上げてもらえますが、そのように浮き彫りになるまでは、ひとりで孤独に耐え続けていかなければならないのです。ここに、大きな悲しみが潜んでいます。
そして、私たちが気づいていなければならないのは、私たちは被害者になることもありますが、加害者になることも多いのだということです。そこで欠けているのは、圧倒的に、他者に対する配慮、心配り、愛の欠如なのです。
主イエスはこの問題に対してここで立ち上がっておられるのです。そして、まさにそのような愛を欠いた世界の中にあって、神の愛とは何か、神の救いとは何かというこを主イエスはここで3つの譬え話で語ろうとしておられるのです。
さて、今日のところは3節から7節に記されている有名な「失われた一匹の羊」の譬え話です。「迷える子羊」の譬え話です。主イエスがここでお話になられたのは、ある人が百匹の羊を飼っています。そして、そのうちの一匹がいなくなってしまった時に、九十九匹を野に残して探しに行くでしょう? という話です。
ただ、この話は現代人の私たちにはどうも少し分かりにくいようです。主イエスは探しにいくのは当たり前だというように話しておられるわけですが、今の私たちはそのように考えられない人たちも少なくないからです。勝手をしている一匹くらい仕方がないという考えが多いのが現代です。まさに、すでにそこに「愛の欠如」が始まっているとも言えます。迷い出た羊がそのままだとどうなってしまうのかが想像できないと、この話は理解できません。
昔、日本のアニメで「アルプスの少女ハイジ」という作品がありました。見られた方も多いと思います。残念ながら、最近日本での放送がないので、若い人や子どもたちには分からないかもしれません。その物語に、ハイジの友達のペーターというヤギの世話をする少年が登場します。ペーターは朝、村の家々を回ってヤギを預かってきてから山の上の牧場まで、毎日やぎに草を食べさせるために連れていきます。これが、ヤギ飼いのペーターの仕事です。
そんな中で、物語に何度も出てくるのですがハイジの家のヤギのユキちゃんが、度々いなくなってしまいます。すると、ペーターはまさに必死になって探すのです。見つけ出すまで探します。諦めて帰ることなどできません。ペーターにはそのヤギを弁償することのできるお金がないからです。
この譬え話に出てくる羊飼いも同じでしょう。裕福な立場の人間ではありません。それに、羊一頭一頭に名前をつけて、愛情をもって育てている人たちがいるのです。ひょっとするとこの羊飼いの家の羊が迷子になってしまったのかもしれないのです。
この譬え話が分かりにくいと感じる問題はそれだけではありません。「九十九匹を野に残して」とあります。私たちはどうしても、この部分が気になります。野に残された羊は果たして迷子にならないのか?という心配です。
羊というのは群れで行動する動物です。視野が狭いことでも知られています。自分を守る武器を持たない羊は、臆病な性質なのでそれほど勝手に動き回ることはないようです。けれども、子羊というのは違います。好奇心旺盛で、怖いもの知らずです。この辺りはデパートで迷子を経験したことのある子どもと似ているかもしれません。一度怖い経験をすると、今度は迷子にならないように親の手をしっかり握るようになるわけです。けれども、もちろん九十九匹の羊を野に残すというのはリスクがあるに違いないのです。
先日の祈祷会でこの箇所を学んだ時に妻がこんな話をしました。長い間、国連難民高等弁務官の働きをなさっていた緒方貞子さんの話です。国連は、世界に長い間起こり続けている難民の問題を支援するためにこの働きに乗り出しました。難民たちが難民先で民族紛争や、宗教の違いなどの理由からそこでも迫害されることがないように、保護し、擁護する働きです。この仕事に着いたのが、緒方貞子という日本人でした。妻は、この人のことをとても尊敬しているのです。ある時、ジャーナリストが緒方さんに「あなたの判断の基準は何ですか?」と聞かれたそうです。すると、その時に緒方さんは「その人がそこで生きることができるようになることです」と答えられたそうです。命の選別をする必要に迫られる時があります。そういう時の判断の基準として、今危機にある人が助け出されるようになることを、優先にすると言われたのだそうです。「九十九匹の羊のいのちも同じ、尊いいのちですが、今優先されるべきは、今危機にある迷子の羊の方のいのちを優先することになるのではないか」妻はそのように、祈祷会の時に話していました。私も思わずメモを取ったわけです。
主イエスは、私たち一人ひとりのことをよく知っておられるお方です。よく見ておられるお方です。そして、そのいのちが失われてしまうことがないように、迷い出てしまいやすい私たちを探し出そうとされるお方なのです。
私たちの主イエスは、私たちのことを必死に探し回っておられるお方です。私たちが、人知れず苦しんでいるようなことがないためにです。私たちが誰からも必要とされず自分のような存在はいなくても良いのだと思う人がいることがないように、私たちを必死に探し出そうとなさるのです。
そのようにして見つけ出された羊だとすれば、このあとの5節、6節に記されているように、羊の持ち主は大喜びでお祝いをするのです。主イエスにとって、私たちを見つけ出した時の喜びというのは、まさに周りの人たちと一緒に大喜びしたいと思えるような喜びなのです。
二週間前のことです。礼拝の後で大掃除がありました。その時にある方の携帯電話が無くなってしまいました。みんなで必死に探しましたが見つからなかったのです。日曜の夜、私はもう一度その番号に電話をかけてみると、どこかで「ウーン、ウーン」という音が聞こえます。でも、どこかが良く分かりません。何度も何度も電話を掛け直して、ついに礼拝堂の裏のモップ置き場の下の方で携帯電話を見つけました。気にしてくださっていた方がたくさんおられたようで、見つかったとわかって、みんなが安心したのです。
携帯電話ですら見つかったらみんなで喜ぶのですから、一人の人が主イエスに見つけ出されたとしたら、その喜びはどれほど大きいことでしょう。それほどに、私たちひとりひとりのいのちの重さを、神は感じておられるのです。そのいのちは神にとってかけがえのないいのちなのです。あってもなくてもどっちでも良いようなものではないのです。
さて、この箇所の結論として主イエスは7節でこう言われました。
「あなたがたに言います。それと同じように、一人の罪人が悔い改めるなら、悔い改める必要のない九十九人の正しい人のためよりも、大きな喜びが天にあるのです。」
この7節の言おうとしていることは、何となく「嬉しいんだなぁ」ということはよく分かります。けれども、この7節がこの譬え話の結論なのだとすると、実はよく分からなくなってしまうのです。というのは、この譬え話のテーマは「悔い改め」だと主イエスは言うのです。しかし、この譬え話のどこに悔い改めの要素があったのかがはっきりしません。
迷子になっていた羊は、いつ、どこで悔い改めたというのでしょうか?
この譬え話は、迷子の羊は誰のことを指していて、「悔い改める必要のない九十九人の正しい人」は誰を指すのかを考えれば意味は自然と分かるようになってきます。つまり、ここでは「迷える子羊」は、「取税人たちや罪人たち」のことだということは簡単に理解できます。そうであるとすると、「悔い改める必要のない正しい人」というのは「パリサイ人や律法学者」のことを指すということが分かります。
そこで考えるわけです。では、パリサイ人や、律法学者たちは本当に悔い改める必要がないのでしょうか? そんなことはないはずです。主イエスはこの話の中で、彼らに悔い改めてほしいと願っておられるはずです。でも、彼らは自分のことを、自分たちは「正しい人」だと認識している限り、悔い改めは起こり得ません。つまり、ここで言っている「悔い改める必要のない九十九人の正しい人」というのは、主イエスはここで皮肉を込めて語っておられるのだということに気づくのです。
では、「悔い改め」とは何でしょうか?
私たちは「悔い改め」という言葉を耳にすると、これまで私たちは「自分の行いの間違いに気がついて、反省して、もう一度改めるという態度を表明すること」だとほとんど自動的に理解してしまっています。けれども、その理解こそが、間違いなのだということに気が付く必要があるのです。
そんなことを聞くと、みなさんはびっくりするかもしれません。「悔い改め」というのは、「180度向きを変えること」だと理解しているからです。そして、その理解は間違っているわけではないのです。けれども、実はそれはここで主イエスが語ろうとしておられる「悔い改め」の姿ではないのです。
主イエスはここで「迷い出てしまった羊が羊飼いに見つけ出された状態」のことを、「悔い改め」と言っているのです。つまり、「取税人たちや罪人たちが主イエスと一緒に話をし、食事を食べている状態」のことです。まだ、彼らの中に、反省は起こっていませんし、自分の行ってきた悪い行いに対して気づきを得られていないかもしれません。それでも、主イエスはこの譬え話の中では、この状態のことを「悔い改め」と呼んでいるのです。
主イエスのみもとにいることは、いのちの安全が確保されている状態だからです。主イエスと一緒に楽しく会話をし、食卓を囲んでいる状態というのはすでに主イエスと仲直りした状態なのです。その後で、この罪人は次第に自分の悪い点に気がつくでしょう。人を傷つけてきたことに気がつき、自分勝手に振る舞って周りに迷惑をかけ続けてきたことに気がついていくことでしょう。そして生き方を改めることになる。それらは、すべて結果です。
主イエスがここで語っておられる「救い」は、「いのちが取り戻されること」です。それは、もう一度その人のいのちが神のものとなるということです。私たちのいのちがあるべき神の交わりの中に帰っていくことです。神のところから失われてしまった私たち、迷える子羊のいのちが、今主イエスの交わりの中に入れられた。こそれこそが、ここで主イエスが語っておられる「悔い改め」なのです。
ルカの福音書がこの15章で語ろうとしている神の救いは、救われるために人に求められている条件は何もないということです。「自分の過去の罪を反省してやり直すこと」も、救われるための条件ではないのです。「すべては神の恵み」なのです。主イエスが迷える私たちを探し出し、死の危機から救い出してくださるのです。私たちは羊飼いの肩に抱かれて、本来いるべき羊飼いの家に戻ることができるのです。この神の大きな愛と一方的な神の愛を受け取ると、主は天で、神のみもとで大きな喜びの中で迎えられるというのです。
私たちを探し出してくださる羊飼い、このお方のお名前を主イエスといいます。主イエスは私たちを「緑の牧場に伏させ、いこいのみぎわに伴ってくださる」のです。このように、羊は、本来いるべき場所に帰ることができるようになるのです。そこで、安心して歩むことができるようになるのです。
お祈りいたします。