2024 年 11 月 3 日

・説教 ルカの福音書14章15-24節「盛大な宴への招き」

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2024.11.03

鴨下直樹

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 今日は、主イエスのなさった「盛大な宴会、宴の譬え話」に耳を傾けてみたいと思います。皆さんは、宴や宴会に招かれるということがあるでしょうか?

 私のことをお話しして恐縮なのですが、ちょっと最近頑張っていたなと思う時に、宴を開くことはありませんが、美味しいご飯を食べに行きたいと思うことがあります。それで、ということでもないのですが、先週の月曜に、今、マレーネ先生が来日しておられますので、一緒にお昼を食べに行きました。鵜沼にある「ワールド・ビュッフェ」という食べ放題のお店です。いろんな国の料理が並び、ドリンクも、デザートも並んでいます。お店に入ると平日の月曜日だというのにホールにはお客さんがいっぱいで驚きました。どうも、前日の日曜日に運動会だった学校があったようで、子ども達も大勢きていました。次々とお客さんが入ってくるのです。

 今日の聖書の譬え話とは大違いです。今日の聖書箇所は「盛大な宴会の譬え話」とか「盛大な宴の譬え話」と呼ばれています。この盛大な宴も食べ放題だったと思うのですが、なぜか人気がありません。前もって招待しているのにも関わらず、時間になっても人が来ないのです。しかも、この宴会の主催者は、来ない客に対して、もう一度しもべを遣わしていますから、とても丁寧な主催者だということが分かると思います。主催者としてはどうしても、この宴、宴会に大勢の人々が来てほしいと思っていたのでしょう。月曜に見た食べ放題と、譬え話の宴、片や大勢次々に入ってくるところがあり、片やまるっきり人気のない宴があるのです。この違いはいったい何だろうかと、私は聖書を読みながらつい考えてしまいます。

 皆さんはどうお考えになるでしょうか? あらかじめ招かれている人たちはどうしてこの宴会に行かないのでしょうか。一応、しもべがもう一度、時間になってもこない客を招きに行ったと記されています。そして、その時に3通りの断り方が聖書に書かれています。

 最初の人は、「畑を買ったので、見に行かなければならない」と言います。二番目の人は「5くびきの牛を買った」と言います。三番目の人は「結婚したので」という理由です。

 理由はそれぞれもっともな理由だと思うのですが、それにしても招かれておいていかないのは失礼すぎるのではないかとも思うのです。

 先日の祈祷会でみなさんに尋ねると、水曜の方々は「何か裏があると考えたのではないか」という答えが返ってきました。「ただより高いものはない」という言葉もあるくらいです。

 先日もある方から電話でお話がしたいと頼まれまして、その方に電話をしました。すると、音声ガイドが流れました。最初に「この電話は防犯上の理由で音声を録音しています」という音声が流れました。今の電話は普通の家でもこんな音声ガイドが流れるのかと思いながら、電話を切らずにいると、今度は「詐欺などの電話が多く、それを確認するためにあらかじめお名前をお願いします」と音声ガイドが流れるのです。それで、私は自分の名前を言って、しばらく待っていると、最後は「只今留守にしていますので、改めて御掛け直しください」と言われて電話が切れました。

 徹底した防犯対策で、私も驚いてしまいました。ただ、もう一度掛け直したくはないなという気持ちになりました。何というか私は電話をしてほしいと頼まれて電話をしたのに、一方的に疑われているような気持ちに少しなるわけです。ただ、今はこのくらいやらないといけないくらい、詐欺の電話が横行しているのです。電話がかかってきただけでも、「何か裏があるはずだ」と警戒を抱くのが、私たちが生活している日常です。

 木曜の祈祷会ではこんなふうに言われた方があります。「日本人はだいたい『都合がつけば行かせてもらいますね』と返事をしておいて、待っていると来ない場合が多いので、この聖書の人はちゃんと断っただけでも立派だ」と。確かに、「都合がつけば行かせてもらいますね」は、表面上は好意的な返事です。本当に行こうと思っている場合もあるわけで、悪い答えとも言い切れません。ただ、実際はそういう返事をして来てくれたことは少ないという印象は拭えません。

 いずれにしても、この宴会に断りを入れた人々はみな、自分の都合と宴会とを天秤にかけて、自分の都合を優先させたわけです。けれども、考えて欲しいのは、人々を招いた人(神様)の気持ちはどうだったのだろうかということです。食事を準備して、人々が来るのを楽しみにしているのに、人々がやってこない。この神の悲しみが、この物語の背後にはあるのです。

 今日の譬え話は、15節のある人の言葉から始まっています。15節。

イエスとともに食卓に着いていた客の一人はこれを聞いて、イエスに言った。「神の国で食事をする人は、なんと幸いなことでしょう。」

 主イエスにこのような問いかけをした人は、きっと主イエスと一緒の食事を楽しんでいた人であったに違いないのです。この人は今すでに幸せだと感じている。だから、神の国での食卓はもっと幸せを感じるに違いないと思ったのです。それほど主イエスとの食卓に喜びを感じたのです。そして、この人の問いかけに対して主イエスがお答えになられたのが、この「盛大な宴会の譬え話」です。ただ、この譬え話を読むと「神の国の食事の幸い」が語られているとは言い難い面があります。というのは、人々が喜んで宴会にやってきたというよりは、「無理やり連れてこられた人々でこの宴会をいっぱいにする」というように書かれているからです。

 少し想像していただきたいのです。もし、自分がそのような盛大な宴席に招かれたとします。それはとても名誉なことだと思って、ドレスアップして出かけると、そこにはホームレスの人や、普通、人前に出てはいけないような感染症をわずらっているような人々ばかりがその食卓に着いていると考えてみたらどうでしょう。間違いなくがっかりするはずです。なんで、自分はこのパーティーに来てしまったのだろうと後悔するかもしれません。それは、「幸い」とは真逆なイメージになってしまいます。

 ここが聖書を読む難しさです。主イエスはお話のプロです。プロ中のプロと言っても言い過ぎではないお方です。そのお方が、何でこんな話をするのか、不思議に思えてなりません。大切なことは、どういう視点でこの譬え話を聞くかです。どこに自分を置くかで、この話のイメージは大きく変わってくるのです。

 今日の箇所は14章の1節からの流れの中にあります。安息日に主イエスは律法の専門家や、パリサイ派の人々に招かれて食事に来ています。そこで、主イエスは律法学者達の思いを逆撫でするようなことを次々にやったり、話されたりしました。安息日に癒しをし、上座に座ろうとすると恥をかくと話されたり、招くなら貧しい人を招きなさいと言われたりしました。こういった厳しい話を忘れさせるような一言が、今日の15節だったはずです。「こういう食事の席は幸せですね」と、まさに場の和むような問いかけをしたのです。

 私がもし、この場に居合わせたら、この質問をした人に親指を立てて「グッジョブ!」と言いたくなるくらいです。間違いなくこの人の問いかけによって重たい雰囲気が明るくなったはずです。それに対して、主イエスがお答えになられたのがこの譬え話です。

 今日の話は、主イエスのなさった譬え話です。譬え話というくらいですから、何かに例えて話しているわけで、これが何の譬え話なのかを理解することが重要です。その前に、知っておいていただきたいのは、主イエスの譬え話は、すべて「神の国の譬え話」だということです。「神の国」というのは、まさに主イエスが宣べ伝えようとしている福音の中身、いや福音そのものです。また、「神の国」というのは、「天国」という言い方もされますが、死後の世界のことだけではなくて、今の、この現実の世界にあっても神が私たちと共にいてくださって、私たちを支配してくださるということまで含まれています。また、この「神の国」というのは、「神のご支配」と言い換えることもできます。あるいは、「神の救い」と言ってもいいと思います。

 ということは、ここで話されている「盛大な宴」「宴会」というのは「神の国での生活」ということになります。そのことが分かるだけで、この譬え話で主イエスが何をお話しになろうとしておられるのかが分かります。神の国に、はじめに招かれていたのは律法学者やパリサイ人のような人たちだったわけです。ところが、これらの人々は神の選びの民として神の国に招かれていたのに、神のみもとで共に歩むことを拒絶してしまったのです。しかも、他の人の前では自分は神の国の特別席に招かれているのだと誇っていたのにです。神は、この人たちを何度も何度も、御国に入るようにと預言者たちをお遣わしになり、彼らを招こうとしました。けれども、彼らは自らの意思でこの招きを拒んでしまったのです。

 それで、この主人は別の人々を招くことにしたのです。21節です。

しもべは帰って来て、このことを主人に報告した。すると、家の主人は怒って、そのしもべに言った。「急いで町の大通りや路地に出て行って、貧しい人たち、からだの不自由な人たち、目の見えない人たち、足の不自由な人たちをここに連れて来なさい。」

 ここに描き出されている主人が新たに招いた人々というのは、当時差別されていた人々です。今の聖書は差別用語や不快語をなくそうとしていますので、多少柔らかな言い方になっていますが、聖書の時代は貧しい人や体に不自由のある人たちに対して確かな差別意識がありました。そして、その体の不自由な原因を、その人や、先祖の罪にあるとまで考えてきました。ですから、これらの人々は神の国には入れない人たちだとみなされてきたのです。

 この盛大な宴席の主催者であられるお方は、この宴席、神の国があまりにもすばらしいところなので、何とかしてそこをいっぱいにしたいとお考えになられました。それで、貧しい人や、体の不自由のある人を招こうと考えられたのです。

 ところが、これらの人々を招いても宴会にはまだ席が残っていました。すると、23節で主人はこう言われました。

すると主人はしもべに言った。「街道や垣根のところに出て行き、無理にでも人々を連れて来て、私の家をいっぱいにしなさい。」

 さて、この23節の主人の発言はかなりの問題発言と言わなければなりません。このまま文字通りの意味にとれば、どんな手を使ってもいいから無理やりにでも人々を連れて来なさいと書かれているように読めます。いや、むしろそのようにしか読めません。

 そうすると、教会の伝道というのはそれこそ世間を賑わせているような宗教の手法も聖書が認めているということになりかねません。どんな方法でも良い。それこそ、霊感商法であろうが、子どもへの虐待的な手法であろうが何でもOKということにもなりかねないわけです。

 そういう時はやはり聖書の原語を丁寧に読まなければなりません。この「無理にでも連れてくる」という意味が重要です。この動詞は「家をいっぱいにするために」という部分にかかっています。つまり、連れてくる方法のことではなくて、「家をいっぱいにする」という目的のためにという意味です。

 カトリック教会の出しているフランシスコ会訳聖書の注にこんなふうに書かれています。「『無理やりに連れてこい』というのは、気の毒な人々が自らの貧しい姿を気にして宴席に列することを拒んだので、彼らを説得して、はげまして、つれてくるようにとの意。この句は力づくで人々を信仰にいれるという意味ではない」

 これはカトリックだからそういう解釈をしたといことではありません。説明がわかりやすいので引用したのですが、他の訳も同様の解釈をしています。

 街道や垣根のところにいる人というのは、仕事を求めて来る日雇い労働者であったり、あるいは、町の中で人からの憐れみを求めて生活するような、いわゆる乞食と呼ばれるような人たちであったりしたわけです。そういう人々は、自分の身分を多少なりともわきまえていますから、宴席に招かれても「はいそうですか」と言って入っていくことはためらわれたわけです。それで、そういう人々が辞退しないようにお勧めして家の中に招き入れるということが想定されているわけです。ですから、どんな方法でも構わないから無理やりに人を連れてくるというようなことではないわけです。主の心は、誰も遠慮して辞退することがないように、招きなさいという意味で、「無理にでも」と言っているわけです。

 最後の24節で、主イエスはこう言われました。

「言っておくが、あの招待されていた人たちの中で、私の食事を味わう者は一人もいません。」

 ここで、私たちが考えさせられるのは、主人は、あの断りを入れた人々もちゃんと招待されたのだということです。パリサイ人も律法学者たちも、はじめから主イエスは拒んでおられるわけではないのです。けれども、彼らは自らの意思でこれを拒んだ。そして、それに対してこの24節では「あの招待されていた人たちの中で、私の食事を味わう人は一人もいない」と言っておられるわけです。つまり、主イエスは、キャッチボールのボールを相手に投げたのです。けれども、そのボールを受け止めて投げ返すのは、ボールを受けた人の責任です。

 これを、「応答責任制」と言います。一度ボールを投げてもらったのでもう安心、大丈夫ということではないのです。私たちには神からの救いを拒む自由があります。それこそ無理やりに神の御国に入れるようなことはないのです。あとで「逃した魚は大きかった」と言っても、もはや手遅れです。そのことは理解しておく必要があります。

 この神の国の食卓の素晴らしさ、それはまさに天国の生活でイメージするものの全てが含まれています。主イエスと共にある幸い、みんなで囲む食卓。そこには差別はなく、誰もが笑顔で満たされています。まさに、幸いを絵に描いたようなものがここにはすべて備えられているのです。

 もう一度振り返りたいのですが、今日の箇所は、主イエスとともに食卓についていた客の一人が「神の国で食事をする人はなんと幸いでしょう」と言ったところから始まっています。そして、主イエスはこの問いかけに、きちんと答えてくださっています。

 主イエスは「神の国に入れられることは幸いだ」と答えておられるのです。しかも、その幸いは、今では実に多くの人にまで広げられ、貧しい人、人々から虐げられている人、生活に困窮している人、病を患っている人、この世の人たちが目にとめないような人にまで及ぶのだと、ここで語っておられます。

 主イエスはこの14章で一貫して神の眼差しは弱い者、小さな者、自分のようなものは相応しくないと思っている者にまで向けられているのだと語っています。これこそが、福音です。主の眼差しの中には、どんな小さな者でさえもこのお方の目にとまっているのです。

 主は、私たち一人一人と共にとても素晴らしい神の世界で、食事をし、語り合い、救いを喜ぶことを誰よりも願っていてくださるお方なのです。

 お祈りをいたしましょう。

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