2018 年 10 月 21 日

・説教 ヘブル人への手紙11章23-30節、ヨハネの福音書14章27節「男はつらいよ! ~モーセ編~」

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2018.10.21

鴨下 直樹

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 先ほど、「聖書のおはなし」で、妻がモーセの生涯をその妻チッポラの視点から紹介してくれました。「フーテンの寅次郎」ならぬ、「フーテンのモーセ」といったようなモーセの生涯を少し理解していただけたのではないかと思います。

 モーセは、120年の生涯でしたが、落ち着いて一つのところに留まるということが出来なかった人です。妻のチッポラはそういう夫をどのような気持ちで見ていたのか、私は考えて見たこともなかったのですが、それはきっと大変なことだったのだと思います。

 このモーセについては、もう今からかなり前のことですが、映画の「十戒」という、当時はかなり注目を集めた作品がありますから、どこかで見たことのある方もあるかもしれませんし、あるいは少し前だと「プリンス・オブ・エジプト」というアニメの映画もあります。ぜひ、一度見ていただきたいと思います。モーセの生涯については先ほど、簡単に話していただきましたけれども、今日の聖書箇所であるヘブル人への手紙も、そのモーセの生涯をまとめて書いてあるところです。

 今日は、午後から私たちの教会の長老で、元岐阜県美術館の館長であった古川秀昭さんによる「楽しいキリスト教美術講座」を行います。この美術講座のテーマも今回は「男はつらいよ」としてくださいまして、モーセの生涯を描いた美術作品の紹介をしてくださることになっています。そんなこともあって、ここで、、シャガールの描いた絵を見ながら、モーセの生涯を簡単にお話ししたいと思います。

ファラオの娘と葦の籠

ファラオの娘と葦の籠

 

モーセは、当時イスラエルの人々がエジプトに移り住んでいてエジプトの奴隷として働いていた時代に生まれました。当時のエジプトの王はファラオと新改訳2017では訳されています。これまではパロと訳されていた王です。このエジプトの王ファラオは、エジプト国内にイスラエル人が増え続ける状況を恐れて、男の子が生まれたら殺してしまうよう命令を出します。モーセはそのような背景の中で生まれたのです。モーセの母親は生まれたばかりのモーセを殺すことができず、葦で編んだ籠に入れて川に流します。エジプトのファラオ王の娘がモーセを拾ったことで、エジプトの王子として育てられることになるわけです。この絵は、モーセの姉のミリアムが葦の籠に入っている赤ちゃんを見つけたファラオの娘に、乳母がいますと伝えている場面です。



エジプト人に苦しめられるイスラエル人

エジプト人に苦しめられるイスラエル人

 こうしてモーセは、はじめエジプトで王子として40年生活します。そんな中で、エジプト人がイスラエルの奴隷を虐げているのを見ます。それがこのシャガールの描いた2枚目の絵です。そして、モーセは、イスラエル人を虐げていたエジプトの兵士を殺害してしまいます。



燃える柴

燃える柴

 それで、モーセはエジプトから離れてミデアンの荒野に逃げて、そこでチッポラと出会い結婚して子どもをもうけます。そして、モーセが80歳になった時に、神から使命を受けます。それが、燃えている柴の中から神の御声を聞いているこの絵です。シャガールはその燃えている木を描きながら、その上に、神がヘブル語で「ヤハゥエ」とご自分の名前を告げられた主の御名を記しました。



モーセとアロン

モーセとアロン

 こうして、モーセは神から使命を与えられ、エジプトからイスラエル人を解放するよう召されたのでした。そして、神はこの時、口下手なモーセのために兄アロンと共に働くようになさったのでした。シャガールは、祭司の服を着て胸にエポデといいますが、イスラエルの12部族を表す12の宝石をつけた人物として兄アロンを描き、杖を持ってイスラエルを導く人物としてモーセを描きました。こうして、モーセとアロンは、エジプトで奴隷であったイスラエル人を解放するために、エジプトの王ファラオと対面してイスラエルの人々がエジプトを出る許しを乞いますが、ファラオは認めませんでした。それで、次々に10の奇跡を行います。杖が蛇に変わる、ブヨの大群があらわれる。そういう奇跡を通して、ファラオがイスラエル人をエジプトから去らせることを認めさせようとしたのです。そして、ファラオの頑なな心がついに変わってエジプトから出ることができるようになるのです。こうして、モーセはイスラエルの民を引き連れて、エジプトの奴隷から解放されて、神の約束の地であるカナンに向かうことになります。



紅海を渡るイスラエル

紅海を渡るイスラエル

 このモーセの生涯は、まさに映画にしがいのある様々な出来事が起こります。中でも、有名なのは、紅海という大きな海を渡る時の場面です。イスラエル人がエジプトを出た後、ファラオは大勢の奴隷を失ったことを後悔して、やはりイスラエル人を奴隷として取り戻そうと、軍隊を送ります。その時の絵がこの絵です。すでにお気づきだと思いますが、シャガールがモーセを描く時にはいつも、頭の上に二本の白い角のようなものが描かれているのを見つけることができると思います。これは、モーセの頭に神の栄光があらわれていたということを表すのですが、昔の聖書の翻訳では、「神の栄光」と訳すところを、「角」と誤って翻訳していました。それを受けて、シャガールは、モーセの頭に「角」のようなものを描きながら、その角で神の栄光を表現しようとしたわけです。



水を求めて

水を求めて

 モーセの大変さはまだまだ続きます。長い荒野の旅です。実際は40年の旅ですからすぐに問題になるのは水の問題と食べ物です。何か問題が出るたびに、イスラエルの人々はモーセに文句をいいます。そのたびに、「ああ、エジプトにいた時の方が幸せであった」というのが、民の口癖です。そういう中で、神は、イスラエルの言うことを聞き入れて、水を与え、毎日、マナという食べ物を与え、うずらが飛んできて肉を食べることができるようにされたのでした。



十戒の授与

十戒の授与

 この絵は、モーセが神から十戒を与えられたところです。私たちの礼拝でも時折、十戒を読みますが、この十戒を通して、神がその民であるイスラエルにどのように生きて欲しいと願っておられるかが記されています。



金の子牛

金の子牛

 ところが、次の絵をみていただくと分かりますが、モーセが神から十戒をいただいている時に、民は、自分たちを助けてくれた神を見える形で礼拝したいと考えて、金の子牛を作って、これが神様だと礼拝しはじめてしまったわけです。



十戒を砕くモーセ

十戒を砕くモーセ

 そして、次の絵ですが、モーセが神から与えられた十戒をもって山を下りてくると、イスラエルの民は言葉を与えて語りかけてくださる神ではなくて、金の子牛を神様だと言っている姿を見て、神から与えられた十戒の板を砕いてしまうのです。


 モーセの生涯をこうしてたどってみながら、モーセのつらさは何かと考えてみると、それは神の心はイスラエルの人々をエジプトからカナンに導くことですが、民は目の前の現実のことしか考えられません。将来よりも、今が問題なのです。ですから、今なんとかして欲しいという希望に応えなければならないわけです。この「神の思い」と「人々の願い」の板挟みになりながら、何とか目の前の問題を解決しつつ、神が示されるゴールへ導こうとするのはとても骨の折れることです。

 つらいのは男ばかりではないでしょう。女のつらさもあります。子どものつらさもあります。私たちは誰もが、自分の思い描いているようにはいかないというつらさと向き合いながら生きています。その中で、何とかして、目の前の困難に負けることなく、やって行こうとしているわけです。

 先週、私は日本自由福音教会連盟の理事会に参加してきました。関東と岡山、そして、日本中にある自由福音教会のルーツの教会の代表の牧師たちが集まって、お互いの課題を出し合いながら、話し合いの時を持ちました。特に、20代や30代という若い人たちのための教会の取り組みについて話し合ってきました。この連盟に所属しているのは4つの教団ですが、教会数は全国で約200ほどあると思います。その全国にある教会の若者のためのネットワークを作ろうという話になりました。そのために今回は各教団から1名から2名の青年担当の牧師たちも参加しました。この青年たちのネットワークの名称を決める時になって、私たちは、連盟青年協議会とか、青年連絡会とか、そんな名前を想定していたのですけれども、出てきたのは「F4N」という名前でした。「F」は自由福音教会の「F」でもあるし、「交わり・フェローシップのF」ということでした。4は四団体の4です。「N」はネットワークのN、または、ネクストジェネレーション、次世代の「N」だというのです。

 私はそこでつい質問してしまいまして、「だから、F4N」は何の省略なの、正式名称は?と聞くと、「いやだからF4N」だという返事です。私の感覚では英語の短い名称というのは、何かの略語だという先入観があるわけですが、若い人には通用しないみたいです。「F4NはF4N。それだけ、以上。」まだ、若いつもりでいるのですが、「おじさんはつらいよ」といったところです。

 そんな中で、最後の閉会礼拝で読まれた聖書の箇所はヨハネの福音書14章27節です。そこにこう書かれています。

「わたしはあなたがたに平安を残します。わたしの平安を与えます。わたしは、世が与えるのと同じようには与えません。あなたがたは心を騒がせてはなりません。」

 私たちは何か問題が起こると、自分たちのできる範囲内での解決を模索します。連盟の青年の働きも、私たちが期待する成果というようなものがある気がします。けれども、このみ言葉にあるように、神はこの世が与えるものとはまったく異なる平安を備えてくださいます。

 モーセの生涯を通してみると、神はいつも人が考えることの上をいくような方法で、モーセの直面している課題を乗り越えさせておられます。目の前には大きな海、後ろにはエジプトの軍勢というような時、神は目の前の紅海をまっぷたつに引裂いて、その海の真ん中を歩いて通らせるという方法で、イスラエルの人々を救い出されました。あるいは、食べる物がなくて困っていると、神は天からマナを降らせ、うずらを降らせて空腹の問題を解決なさいます。こんなにも素晴らしい神の働きを毎日経験しながらも、イスラエルの人々は、この生きて働いておられる真の神を金の子牛にしてしまうわけです。

 人は徹底的に、目の前のものに縛られてしまっているということの表われです。そう考えると、本当につらいのは、実は男でも、女でもなくて、そういう人間を支えておられる神ご自身であるということが分かってくるわけです。

 神は、こんなにも人を愛して、人が安心して生きるように働いていてくださるのに、なかなか、この目の前に示されている神の愛に気が付かないのです。

 今回の伝道礼拝のテーマを「男はつらいよ」としました。しかし、実は、私はこれまで一度も渥美清の映画「男はつらいよ」シリーズを見たことがありませんでした。どこかで少しテレビ画面を見たことはあると思いますが、始めから終わりまでちゃんと見たことはありませんでした。私よりも下の年齢の方はそんなものなのではないかと想像しますが、いかがでしょうか。今回、「男はつらいよ!」というテーマを掲げましたら、先日、教会のある方が、私にDVDを貸してくださいましたので、それではと思いながら、初めて見てみました。とても楽しんで見ましたし、色々な牧師が説教の中で、この映画の中で出て来る寅さんのセリフを引用させる方があるのが分かった気がします。

 私が見たのは、葛飾立志編という作品です。その中で、寅さんは自分に学問がないということに気づいて、学問をしようということになって、家に下宿をはじめた綺麗な女性の大学の先生から学び始めるわけです。寅さんはこの大学の先生に恋心を頂くわけですが、ある時、その大学の先生の上司にあたる先生が訪ねて来ます。その訪ねて来た上司は長い間独身の、髭を生やしたなかなかダンディーな先生です。その先生も、寅さんを教えてくれている先生と同じ考古学者なのですが、なぜ独身なのかという話になる。すると、その考古学をしている人が、本当はその部下の先生のことが好きなのですが、「私はまだ愛についての研究が終わっていない」と答えるのです。すると、寅さんがその先生に「愛を研究しちゃうのかい?もっと簡単なことだろ」と言います。それで、愛について説明してみろと言われて、語り始めるのですが、こう言うのです。

「いいかい。ああ、いい女だなあと思う。その次には話がしたいなぁと思う。ね。その次にはもうちょっと長くその人といたいなぁと思う。そのうちこうなんか気分がやわらかーくなってさあ、ああ、もうこの人を幸せにしたいなあと思う。この人のためだったら命なんかいらない。もう俺、死んじゃってもいい。そう思う。それが愛ってもんじゃないかい。」 

 すると、この大学の考古学者は寅さんのことを自分の先生だと言うようになるわけです。学問がないはずの寅さんの方が、よほど大切なことを、身をもって知っているということになるのだと思います。
この映画を見ながら、いつも何となく、漠然と考えているものを、寅さんは自分の言葉で分かりやすく伝える。そういう人から伝わる言葉というのは、イメージが豊かで、人の心を納得させるのだということを気づかされました。

 まさに、「愛」というテーマは教会で語られる中心的なテーマです。聖書の愛はもっと高尚なものだと言いたくなる方もあるかもしれませんけれども、寅さんのこの言葉は、神さまの愛に置き換えても、そのまま通じる言葉です。

 イスラエルの人々も、モーセも、その生涯で味わうことになるのは、まさにこの神の愛です。

「いいかい。ああ、この人のことを大事にしたいなぁと思う。その次には話がしたいなぁと思う。ね。その次にはもうちょっと長くその人といたいなぁと思う。そのうちこうなんか気分がやわらかーくなってさあ、ああ、もうこの人を幸せにしたいなあと思う。この人のためだったら命なんかいらない。もう俺、死んじゃってもいい。そう思う。それが愛ってもんじゃないかい。」

 そういう愛を、神は私たちに示してくださっているわけです。なかなか受け止めてもらえない。それで諦めて、また旅に出てしまったりは、この神はなさらない。ずっと、その人のところに留まって、その人がこの神様の愛が分かるまで、何とかしたいと考えている。ある時は、礼拝を通して神の愛が分かるように語り掛け、ある時は、誰かの言葉を通して気付かせようとされる。ある時は、言葉なんかじゃなくて、まさに愛されているんだということが分かるような、気づくような、これはもう神様の助けだとしか言いようがないような出来事を通して、神の愛を示してくださるわけです。それでも、なかなか気づいてもらえない。愛を分かってもらえない。何と、神はつらいことかと思うのです。それでもいつまでも、諦めることなく、この神は私たちに心を向け続けてくださる。そういうのが、この神の愛です。

 「神はつらいよ!」というこの物語は、いつまでも私たちに向けて上映され続けているのです。このシリーズは終わらないかもしれません。この神の熱心な愛をぜひ、受け取ってください。

 「ああ、私もこの神様の愛をいつも受け取っていたいなぁ。この神様ともっとお話がしたいなぁ。もっと知りたい。そして、どんなに自分を幸せにしてくれようとされているか知りたい。」そういう思いをぜひ、持っていただきたいのです。ぜひ、続けて教会に来て下さい。是非、聖書を読んでみてください。神の愛を受けとめていただきたいのです。その時、私たちは本当に、安心して、豊かな愛の中に生きることができるようになるのです。

お祈りをいたします。

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