2014 年 1 月 5 日

・説教 出エジプト記20章12節 「長く生きるために」

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2013.1.5

 鴨下 直樹

 

 新しい年を迎えました。今年は詩篇七十三篇二十八節の「わたしは、神に近くあることを幸いとします。」(新共同訳)がローズンゲンによる年間聖句として与えられています。元旦礼拝でも、「来る一年にこれからどのようなことがあったとしても、主の近くいる幸いを覚える一年となるように祈ります」と説教いたしました。

 二日の日ですが、私の両親を訪ねました。ところが、まだ兄弟たちが集まる前に、娘の慈乃が膝の上で絵本を読んでやっていますと急に様子がおかしくなってしまいまして、ひきつけているのです。もう二回目のことですので、少しすれば治るはずなのですが、収まるようすもありません。お正月から自分で医者を探すことも難しいので救急車を呼びました。救急車が来てもまだひきつけがおさまりません。20分から30分ほどたったでしょうか、救急車の中で、一度意識が戻って少しほっとしたのですが、病院に到着してからもまたひきつけをおこしてしまいました。しかも、今度は意識が回復しません。入院して様子を見るということになったのですが、お医者さんのはなしでは「脳症」という診断でした。詳しい事はよく分かりませんけれども、最初のひきつけの時間が長すぎたために、脳の機能が回復しないのです。検査をして分かったのは小さな子どもがかかりやすい最近流行しているRSウィルスという菌が原因ということでした。二歳以下の子どもは非常にかかりやすく、特に効く薬もないんだそうです。病院で、様子を見ながら回復を待つということでしたが、五時間たった夕方に、ようやく意識を回復しました。

 私たちの会話が聞こえていたのか、「慈乃、意識、ないないした」と言って看護師さんたちを驚かせました。今は、だいぶ回復しておりますが、まだ何だかぼーっとした状態でいます。もう、何度も何度もひたすらに、「主よ、どうか癒してください、助けてやってください」という祈りとも言えないような叫びを繰り返すだけでした。

 けれども、前日、ここで御言葉を語ったように、本当に、「しかし私にとっては、神の近くにいることが、しあせなのです。」という新改訳の言葉がそのまま私の頭を何度もよぎりました。本当に、親として目の前で病に苦しんでいる娘に対して祈ることしかできないのです。けれども、何もしてやれないのですけれども、祈ることができる。いのちの主にいのることができるということは、何という幸いなことなのだろうかと思わずにはいられませんでした。どうなったとしても、この主がいてくださるのだから大丈夫だという確信があるのです。私自身、今年与えられている御言葉を改めて味わうことのできる時となりました。

 

 今日から、ヨハネの福音書から少し離れまして、お約束していたとおり、十戒の学びに戻ります。しかも、今日は「父と母を敬え」という戒めのところです。娘の病のところで、ずっとこの御言葉のことを思いめぐらせていました。そして、本当に心からそう願うのですけれども、子どもが親を敬うということはどれほど素晴らしいことかと考えさせられるのです。子どもは、同じ両親の信じているものを敬い、自分も同じ信仰に生きたいと願ってくれるならば、それにまさるものは何もないと思います。どれだけ、この世界で幸せに生きたとしても、どれだけこの地上で大きなことをすることができたとしても、私が信じるこの主イエスを、子どもが見出すことができなかったとしたら、それは本当に残念なことです。

 

 十戒を与えられたイスラエルの当時の状況のことを少し考えてみると、この戒めの持つ意味はもっとはっきりしてきます。エジプトで奴隷であったイスラエルの民は、モーセに導かれて約束の地を目指します。道中、このイスラエルの人々の心はなかなか一筋縄ではいきませんでした。何度も後悔するのです。何度も、エジプトで奴隷のままであったほうがよかったのではなかったのかと考えるのです。しかし、ここで神はモーセを通してこの民に十戒を与えます。第一の戒めから、第四の戒めまでは、神を畏れること、神を信じること、一言でいえば神との関係に生きることを教えました。そして、この第五の戒めからは、具体的な人々との関係についてを教えています。そこで、神は、人についての戒めの最初の所で、父と母を敬うのだと教えたのです。

 つまり、神に信頼してエジプトから出てきたこの両親の信仰を敬うのだと教えたのです。その両親の信仰もそれほどほめられたものではありませんでした。しかし、この両親は確かに主を信じて、長い荒野の生活を主に従い続けている人々なのです。その親の信仰を軽んじてはならないのだと、まず戒めたのです。今、確かに荒野で何をやっているのかよく分からないような生活をイスラエルの人々は強いられているのです。この旅の途中で生まれた子どもであれば、生まれたときから目的地になかなかたどりつくことのない旅を続けている姿しか知りません。なぜ、こんな生活なのか。なぜ、同じ所に住むことができないのか。子どもたちは様々な疑問を持ったに違いないのです。そして、自分は自分らしく生きて生きたいのだと考えた子どもも少なからずいたと思います。けれども、彼らは一緒に旅をする意外に選択肢がありませんでした。そして、それこそが、このイスラエルの民の子どもたちにとっては祝福なのでした。

 子どもたちに自分で選びとる権利は与えられていませんでした。しかし、そこに確かな祝福があることを主はこの戒めを通して教えようとされたのです。ですから、この戒めには約束がついています。

 「あなたの神、主が与えようとしておられる地で、あなたの齢が長くなるためである。」と続いています。間もなくたどりつくであろう約束の地、この場合カナンの土地で長生きができるようになるのだと、主はここで約束を与えられたのです。

 そこで、どうしても取り上げたい新約聖書があります。エペソ人への手紙六章一節から四節です。

 子どもたちよ。主にあって両親に従いなさい。これは正しいことだからです。『あなたの父と母を敬え。』これは第一の戒めであり、約束を伴ったものです。すなわち、「そうしたら、あなたはしあわせになり、地上で長生きする。」という約束です。父たちよ。あなたがたも、子どもをおこらせてはいけません。かえって、主の教育と訓戒によって育てなさい。

 私の父は、私が父親の言うことを聞きませんとよくこの箇所を読んで、私を戒めました。「直樹、聖書にはちゃんと、「子どもたちよ、主にあって両親に従いなさい」と書いてある。だから、親の言うことは聞くものだ」と言うのです。私も負けておりませんで、「父さん、聖書のその後にもちゃんとこう書いてある。「父たちよ、子どもをおこらせてはいけません」と。あまり、厳しく戒めて子どものやる気を失わせるものではない」と言い返したものです。もちろん、父は真剣にこの箇所を読むのです。けれども、そうすると、子どもとしてはもう身も蓋もない気がするものですから、いつも、四節の御言葉を使って身を守ったものです。私の方は、半分意地です。

 この説教のために新共同訳聖書を開きました。この聖書は、私が神学校を卒業した時の記念としていただいた皮の聖書なんですが、ドイツに行っておりました時に、父にこの聖書を預けておきました。この聖書にはどこにも線をひかないで使っているのですがこのエペソの六章の四節だけ青色で線が引いてあります。私は引いた覚えはないのです。おそらく、父がここだけに線を引いたのでしょう。思わず説教の準備をしながら静かな牧師室で、一人で笑ってしまいました。牧師になった今でも、そこまでしてこの言葉を刻ませたいのかと、可笑しな気持ちになりました。だいぶ、話が違う方向にそれてしまいそうですので、元に戻したいと思います。

 このエペソの手紙は、この十戒の戒めが約束を伴った戒めであることをしっかりと受け止めています。ですから、残念ながら父親の望みのように、この戒めを、親のいうことをきかせるために用いるべきではありませんし、反対に、親の権威に反発する箇所として使われることもそもそも意図していないのです。この第五の戒めは、神からの約束なのだと、エペソの手紙は語っているのです。神からの約束が伴う戒めです。これは、旧約聖書の中でこれが最初と言ってもいいのです。それほど、神はこの戒めに深い思いを込めておられると言っていいと思います。

 

 イスラエルの子どもたちよ、間もなく到着するであろうカナンの地で長生きするのだと、この戒めは約束しているのです。そして、この戒めは同じ意味をもって、ずっと今日にいたるまで受け入れられるべき戒めとして与えられています。これは、このエペソの手紙で語られている事でもありますけれども、神の約束であるということは、実質的な祝福を伴うのだと言うことです。エペソではそれを「あなたはしあわせになり」としています。十戒には書かれていない言葉です。むしろ、今年与えられている私たちの年間聖句を思い起こさせます。「私にとっては主の近くにいることが私のしあわせなのです」。この詩篇の言葉が語るように、十戒の父と母を敬えという戒めに生きることは、主の近くにあるような幸せを味わうことになると、エペソでは語っています。なぜ、そういうことができるのかというと、父と母は主に従っているからです。主の戒めに生きているからです。そうすると、その両親の生き方は、まさに、神の備えてくださる約束の地で生きることを味わうようになります。今の私たちであれば、神の支配してくださる約束の中で平安に生きることができるということです。そうであれば、その両親に知っている幸いが、その家族に現実的にもたらされるようになるという約束の言葉として、この戒めが与えられているのです。

 

 私が牧師になったばかりのころですけれども、その教会の中高生会で十戒の学びをいたしました。そこで、この第五の戒めを学んだ時に、学生たちは誰もが口をそろえて、「父と母を敬うことはできない」と口をとがらせて一同に話したことを忘れることができません。ところが、あれから二十年もたちますと、ずいぶん変わってくるようで、親子の関係が変わってきました。ずいぶん両親と仲がいいのです。まるで友達であるかのような関係の親子の姿をすいぶん見かけるようになりました。先日もテレビのCMで、ある歌手がコンサートの前に「お母さんにあなたなら大丈夫」と励ましてメールで励ましてもらっているというCMがやっていて私は大変驚きました。もう二十歳をとおに過ぎた人です。大人であるはずの年齢なのに、未だに親に励まされなければいけない。それがテレビで流されているということは、そういう親子関係が支持されているということなのでしょう。

 しかし、これはこの聖書が語る両親を敬うということとはずいぶん違っています。両親の姿を敬いながら、やはり自分もまた、自分の家族をやがては持つのです。いつまでも子どものままでいることはできません。親に依存的になったままの生き方を、幸いとは言わないのです。自分がどう決断したらいいのか、親から、親が大切にしている主に従う姿勢を学んでいくのです。そして、同時に親にもその責任があります。依存する子どもと、依存させる親というのは、一面的には問題が起こりません。お互いの求めているものが成り立っているからです。けれども、親は自分がどう考え、どう決断し、何を大事にしているのかを、子どもに示して行くことが大事です。なぜ、大事かというと、この御言葉にあるように、それが、具体的な幸せに結びついているからです。

 ここで記されている「主が与えようとしておられる地で」というのは、「死んでから天国で」ということではないのです。まず、神が支配してくださるのは、死後の世界ではなくて、今、私たちが生きているこの世界でです。

 だからこそ、私たちは私たちが出会った主との生き方を、子どもたちにしっかりと伝える責任があるのです。それは、時にこっそり子どもの聖書に線を引く様な事の中にも、しっかりと表れるのだとおもいます。何が大事なのかを知ってほしいという、本気の思いを届けるのは親以外にないからです。

 

 父と母を敬えという戒めを、いま両親から見た子ども、子どもから見た両親という視点で話してきましたが、最後にどうしても考えなければならないテーマは、今度は長生きをした両親についてと言ったらよいでしょうか。あるいは、老いと呼ぶべきでしょうか。自分の両親の看取りの問題がもう一方であります。

 この第五の戒めは、人間関係のまず基礎を教える戒めです。そこでまず考えなければならないのが両親をどのように看取っていくかという問題です。例えば病のために寝たきりになってしまう。あるいは、耳が聞こえなくなってしまったり、さまざまな要因で意思の疎通ができなくなってしまっていくことが起こります。もちろん、「父と母を敬いなさい」という戒めは、そのような両親にも当てはまることです。老人ホームなどの施設も、私たちの地域ではそれほど大きな問題ではないようですけれども、なかなか入れなくなっているという現状もあります。自分の生活と両親の介護ということも、当然出てくる問題です。この世で長く生きると聖書が約束しているのですから、当然そうなったらどうするかということも備えておく必要があります。もちろん、ここで具体的にこうしたらいいとか、いくら準備しておくといいとか、どこの施設がいいというような話をする必要はありません。ただ、覚えていなければならないのは、まさにそこでキリスト者のとしての幸が問われるということでもあります。

 老人ホームに入居すると、もうなかなか家族が面会に来ないなどということが言われます。もちろん、そこで問われるのは愛です。敬うということは、愛することで表すことができます。軽く扱うのではないのです。それが、たとえキリスト者ではない両親であってもです。そこでこそ、私たちの愛が問われます。

 ときどき冗談のようにして言われる事がありますけれども、主イエスは若くして十字架にかけられたので、主イエスはこの老いて行く両親の介護、看取りはなされなかった。だから、この悲しみだけは理解できないなどと言われることがあります。もちろん、本気で言っているのではないのだと思いますが、しかし、私たちはそこでこそ知らなければならないのは、主イエスは人を心の底から愛し、大切にされたので十字架にかけられなければならなかったということです。ここに、愛がしめされています。この主の愛を知って、私たちは、その愛に応える者となったのです。だから、私たちはそこで、まず、両親を愛することを通して、この主の愛に応えることを学ぶのです。その姿は、やがて子どもにと受け継がれていきます。そうして、本当に、主が与えようとしている時に、幸せを覚えながら、長く生きる喜びを見出していくことができるようになるのです。

 

 お祈りをいたします。

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