・説教 出エジプト記20章13節 「共に生きるために」
2014.1.12
鴨下 直樹
「殺してはならない」これが第六の戒めです。非常に短い戒めで、ここで言っていることはとても単純なことです。殺してはいけないのです。しかし、誰にでも分かるこの戒めも、角度を変えてもう一度問い直してみると、なかなか単純とはいきません。自分のいのちを断つ自殺、胎児のいのちを奪う中絶、国家が国の利権を守るために行なわれる戦争も、公の殺戮です。また殺人犯などに対する死刑、環境破壊からくる第三国の飢餓死、あげ始めるときりがありません。誰もが人を殺すことはよくないことなのだと分かっているのにも関わらず、私たちの生活の中には実に様々な形で人を殺す行為が行なわれてしまっています。
この説教の準備のためにルターの書いた「大教理問答」を読んでおりました。すると、この戒めは個人と個人に対する場合の戒めで、公の権力に対する禁止ではないと書かれておりました。それはどういうことになるかというと、例えば戦争であるとか、裁判の死刑判決は、この戒めの中では意図されていないのだという意味です。
それで、少し気になったので調べてみますと、とても興味深い事がいくつも見つかりました。たとえば、この「殺してはならない」という戒めの言葉ですが、これはヘブル語で書かれています。それでよく見て見ると、一般に今言ったような「死刑の判決で殺す」とか「戦争で人を殺す」という時に使う言葉とは違う言葉を意図して使っているのです。と言いますのは、旧約聖書を読んでいますと、戦争が禁止されているわけでもありませんし、死刑も禁じておりません。石打ちの刑などという刑があったくらいです。ルターがここで言っているのも、そういう国が判断する行為としての殺人ではなくて、個人が個人に対して勝手な制裁をすることを禁じているのだというのは、そういう背景から出ていることなのでした。このことについては後でまた少し考えてみることにしたいと思います。
しかし、やはりまずこの戒めが意図している線にそって、この戒めを理解する必要があります。この戒めの本来の意図は、自分の判断で人を殺すことがあってはならないのだということを、まず戒めているのです。
このことを考えようとする時に、どうしてもまず読まなければならないのは創世記の第四章に記されたカインとアベルの物語です。これは、私が芥見に来たばかりの頃に創世記の説教をしておりますので、ここでそれほど丁寧に説明をするつもりもありませんけれども、最初の人アダムとエバにカインとアベルという二人の息子が与えられました。ところが、収穫の時に神さまへのささげ物をした時に、兄のカインは弟アベルに妬みを起こします。アベルのささげ物を喜んで神が受け取られたことを妬んだのです。そのためにアベルを野に連れ出してカインは弟を殺してしまいます。この出来事が聖書の最初の殺人事件です。ところが、この後で、カインは自分もまた誰かに殺されるのではないかと恐れるようになります。その時に神はカインにしるしを与えてこう言われました。
主は彼に仰せられた。「それだから、だれでもカインを殺す者は、七倍の復讐を受ける。」そこで主は、彼に出会う者が、だれも彼を殺すことのないように、カインに一つのしるしを下さった。
と、四章の十五節に記されています。
ここにも既に、神の殺してはならないという意図が明らかにされていると言えますが、誰かが自分の判断で、面白くないとか、復讐したいとか、妬みであるとか、さまざまな理由で人を殺す。もちろん、カインはそうして弟を殺してしまったのです。けれども、そうだからと言って、今度は他の誰かがカインに対して報復をするようになってしまうと、どうどうめぐりが始まってしまうわけです。これを罪の連鎖と言うことができます。それで、この部分を読みますと、神は、人をたとえ殺してしまったようなカインであったとしても、殺されることをお許しにはなられませんでした。それほど、徹底して自分の判断で、自分を正当化することをお認めになられないのです。人に対する妬みや嫉妬心からはじまるような心であっても、一度相手に手を上げていきますと、その連鎖はたちどころにとまらなくなってしまいます。最近のニュースを聞いていても、子どもに対する親の暴力などもそうですけれども、暴力を受けて育てられると、自分もまた暴力に訴えるということがその家族の中で繰り返されていくといいます。そのような暴力の行き着くところが殺人であるとすると、それをこの戒めが禁じているということは、私たちはよくこのことを心に治める必要があります。たとえ、自ら殺害を犯したカインであっても、そのカインに報復をすることがないようにと、神はカインをお守りになられたのです。
少し前のことですけれども、あるキリスト者の家庭の子どもが、ストーカー被害で殺されてしまうという事件が起こりました。ところが、テレビの会見でその親が出てきた時に、そこでよく見るのは「極刑で臨んでほしい」という厳しい親の言葉ですけれども、このキリスト者の両親はそれを言いませんでした。私はこの方々のことをよく知りませんけれども、キリスト者としてとても誠実な態度だったと思っています。ところが、世の中の人々と言うのはそうは受け取らないようで、今度はその親に対してもずいぶん厳しい非難の言葉を浴びせたようです。自分の子育てに後ろめたさがあったから、相手に対して厳しく言うことができなかったのではなかったかと言ったような非難です。とても、残念なことです。けれども、こういうキリスト者たちの小さな証が積み重ねられて行くことは、とても大きな意味を持つことだと私は思っています。
私たちの神、主は、私たちが神になり変わってこの世の不正を断罪するというようなことを認めてはおられないのです。私たちに問われているのは、赦しの神の御前に立つことだし、また、私たちの回りにいる人々にもこのお方を紹介することです。
決して、自分でやられたらやり返すのだというような、相手に制裁を加える行為を神はお認めになってはおられないのです。
このカインの物語にしても、カインの中に妬みや殺意が生まれて来ることを知っておられるお方は、ここでも、「罪は戸口で待ち伏せして、あなたを恋い慕っている。だが、あなたはそれを治めるべきである」と語られました。復讐の連鎖というようなものであったとしても、神は私たちがそれを治めることができるようにしてくださるのです。
新約聖書のヨハネの手紙第一、三章十五節にこんな言葉があります。
兄弟を憎む者はみな、人殺しです。いうまでもなく、だれでも人を殺す者のうちに、永遠のいのちがとどまるっていることはないのです。
ある説教者がその時期心の病にかかってしまいました。その説教者は本当にそれまで自分の教会の人々のために心を注いで御言葉を語ってきたのですが、心を病んでから時々いやな夢を見るようになったと言っておられました。どんな夢かというと、自分の教会の人々を機関銃で撃ち殺す夢だったと言っておられました。その話を聞いただけでも、そうとう疲れておられたのだろうということがよく分かりました。その牧師が再び元気を取り戻して、ある時の説教でその話をなさった。あの時、私は教会の人々を撃ち殺す夢を見たのだと。すると、礼拝が終わってから一人のご婦人がその牧師の質問をしたんだそうです。「先生、その先生が打たれた中に、私ははいっていましたでしょうか?」と。
それを聞きながら私も思わず笑ってしまいまして、その話をなさった先生も笑っておられたのですが、おそらくその質問をなさった方は笑ってなどいられなかったのだろうと思います。ヨハネの手紙は「兄弟を憎む者はみな、人殺しです」とはっきり書いています。「あんな人いなくなってしまえばいいのに」と心に思い描くだけで、もう人を殺しているのと同じことだというのです。牧師であっても、疲労がたまってくると、ああ煩わしいと考えてしまうことがある。もちろん牧師であっても人間です。私も夢で機関銃を撃ったことはありませんが、昔、教団の学生会をしておりまして、そのために本当に忙しくしていた時に、一緒に働いていた当時の浅野牧師と、マレーネ宣教師に追いかけられている夢を毎日のように見たことがあります。もっとも、私の場合はやらなければならない長期キャンプか何かの説教の準備をする時間がつくれなくて、何とか逃げ出したいと考えていたのだと思いますけれども。たとえ病であったとしても、やはり、心の中で人を殺してしまうことも当然認められることではありません。
私たちがそこでもよく知っていなければならないのは「被害者意識」です。自分は被害者だと考える時に、時にそれを根拠に自分を正当化することが起こります。自分はこの人にこんなに苦しめられたのだ。だから、この人にはそれ相応の報いがあってしかるべきだと考えてしまうのです。
この第六の戒めが目指していることはなんでしょうか。それは、神は私たちと共に生活している人々、私たちの回りにいる人々と共に生きて欲しいと願っておられるということです。それがどういう相手であったとしてもです。自分に被害をもたらす相手であったとしても、自分を傷つける相手であったとしても、その人を受け入れ、愛し、赦して、共に生きて欲しいと願っておられるのです。
ですから、そこには当然、戦争も正当化されるべきではないし、裁判による死刑も認められるものではないと私は思います。こういう場合は相手を殺してもいいけれども、自分の復讐はだめだなどということではないのです。ではなぜ旧約聖書にはこう書いてあるのかと不思議に思う方があるかもしれませんが、これは漸進的啓示と言います。漸進というのは、すこしづつ進むという意味です。神は、ご自分のみ心を少しづつ整えられて、そうして最終的に何を考えておられるのかをお示しになられました。最終的にというのは、主イエスによってと言い換えることができますけれども、主イエスが全ての人の罪を背負って殺されました。神ご自身が、自らの御子を人が殺すことをよしとされた。そのことを通して人の罪が示されるためです。けれども、この十字架によって、神の心が明らかに示されました。神は、人々の心の中に思いいだく「あんな人はいなくても良いのだ」という判断によって、十字架刑に処せられてしまいました。こうして、その人の判断がいかに間違ったものであったかを、いかに自己中心的な思いであったかをお知らせになられました。
本当には罪のない方であっても、人はその心の傲慢さのゆえに、この方を殺してしまったのです。しかし、それは、すべてをご存じである神の御前で正当化されるはずはありません。このことを通して、神は人を罪に定められました。そのあなたの判断が、神をも殺したのだと。主イエスをも十字架にかけたのだと。
それなのに、まだ、自分の判断は正しいと私の前でなおも言い続けることができるのかと、私たちは神の前に立つ時に問われるのです。自分が犯した罪も忘れて、私はこんなに傷つけられたのだから、自分の言い分は正しいはずだなどと、このお方の前では誰ひとり言うことはできないのです。けれども、主は、そのような傲慢な者を、あなたが殺した主イエスが、あなたを救うためにわたしが与えた救い主だと信じるか。本当は神に裁かれ、殺されなければならないのは自分だと認めるか。もし、信じるなら、神はこの主イエスの死を通して、あなたを赦そうと主は言われるのです。そして、赦された者として、互いに赦しに生きる者となることを、この主はお求めになられるのです。
私たちは誰であっても、私たちの思いから、誰かを必要ないと考えることはゆるされません。自分を正当化することもゆるされません。ただ、あるのは、私は生きよと言われる主によって生かされているという事実があるだけです。そして、生きよといわれる主は、私だけでなく、私たちの回りにいる人々にも同じように語りかけているのです。
アモス書の五章六節にこういう御言葉あります。
主を求めて生きよ。
神、主が求めておられるこの戒めの心は、この御言葉に端的に言い表されていると言えます。これこそが、「殺してはならない」という戒めの中に秘められた主の御心なのです。
お祈りをいたします。