・説教 「羊飼いなる主イエス」 詩篇23篇
鴨下直樹
この朝は召天者記念礼拝です。この日は教会の暦では昔から「諸聖徒の日」と言ってきました。特にカトリック教会の伝統ということになりますが、それぞれの日には聖何々の日というのが一年の間全ての日に定められています。この日には、それぞれの聖人の亡くなった日を祝うという習慣があります。その中でも有名なのは、聖バレンタインの日であるとか、聖ニコラウスの日というのがあります。この聖ニコラウスの日というのは、一般ではサンタクロースの日と言われている日で、これは12月25日と考えられているようですけれども、本当は12月6日だったと思います。
私がドイツの神学校におりました時に、毎年この日になりますと、聖ニコラウスの祭りを神学生たちと共にお祝い致しました。学生たちは夕食を食べ終わった頃ぞろぞろと寮から出てきまして、みんなの手には「ファッケル」と呼ばれる「たいまつ」を持って、神学校の教授や先生たちの家を訪ねます。そこで、聖ニコラウスの歌をみんなで歌いますと、先生たちが学生たちにお菓子などを渡してくれるのです。本当は子どもの習慣なんですけれども、学生も先生たちもこの日になりますと本当に楽しんでいました。
そのように、古くからある教会の暦では、毎日が誰かの聖人の日として割り当てられておりました。けれどもあまりにも多くなってしまったということもあって、「全聖徒の日」としてまとめてお祝いしようということになりました。そしてこの日が「諸聖徒の日」と呼ばれるようになったのです。
少し余談になりますけれども、昨日はハロウィンと呼ばれる日でした。これも、本当はお化けのようなカボチャを飾る祝いの日ではありません。この「聖徒」のことを「ハロウェド」、記念日の前夜のことを「イヴィング」と言いまして、休日になるのですけれども、「ハロウェド・イヴィング」つまり、「諸聖徒の日」の前の夜のことが「ハロウィン」と呼ばれているのです。
これがドイツなどでは、間もなくクリスマスを迎えるアドヴェントを迎えますけれども、この前に「トーテンゾンターク」、つまり「死者の日曜日」とか、「終末主日」と言いまして、この日に亡くなった方々を覚える礼拝をするのです。
ですから、この日曜日というのは、世界中の多くの教会で、死者のことを覚える「召天者記念礼拝」が行われるのです。
さて、そこで今朝、私たちが聞きたいと願わされているのが、先ほど司式者の方が読んで下さいました詩篇23篇の御言葉です。大変に有名な詩篇です。私にとって興味深いのは、この詩篇23篇というのは、昔から葬儀の時によく朗読されてきたということです。
なぜそのような伝統となったのかははっきりしませんけれども、恐らく、葬儀を行う時に、誰もが思い起こすのは、主は私たちを導いて下さる方であるという信仰なのでしょう。死を迎えた者は、もはやただ神に導いて頂く以外に何もできないからです。そうしますと、私たちは、私たちの主がどのように私たちを導いてくださったのかを、よく知らなければなりません。ですから、この朝は、この詩篇23篇の御言葉に耳を傾けてまいりたいのです。
以前あるところでお話をしたことがありますけれども、私がドイツにおりました時に、知り合いになった友人のお父さんが羊飼いをしているという家族でした。私たちが住んでおりましたはドイツの真ん中、ノルトライン・ウェストファーレンという州です、。聖堂のあるケルンなどのあることで知られている州ですが、私たちはそういう都会からずいぶん離れたところに住んでおりまして、ケルンまで高速道路でどんなに早く走っても一時間半はかかる大変牧歌的なところでした。家の前には一面羊と牛のための牧場が広がっています。ですから、そこで羊飼いである友人のお父さんの姿をよく見かけました。私が何よりも感激したのは、この羊飼いが歩きますと、その後ろを羊たちがぞろぞろとついて行くのです。もちろん、牧羊犬がその周りにいるのですが、友達いわく、家の犬は全然だめだと言っていましたから、ついて行くのは犬のせいではないようです。羊たちは、誰についていけば次に美味しい牧草にありつけるかを良く知っているのです。
写真と、ビデオを撮って来たのでお見せしたいと思いますけれども、本当に羊たちが、いかに羊飼いに信頼しているかが良くお分かりいただけるかと思います。
このように、聖書の中には、神が私たちの羊飼いであるという描写が何度も出てきます。それは一目瞭然で、その比喩は誰にでも、私たちと神との関係をもっともイメージしやすい形で伝えられたのです。良く言われる話ですけれども、羊というのはいつも自分の目の前のことしか関心がありません。目の前に美味しい草があるかどうかだけが羊の関心事です。自分の人生を何年も先まで見通している羊というのはいないのです。そういう羊に、私たち人間が譬えられているというのは、そこに私たちの性質が言い表されているからでしょう。私たちは目の前に起こっていることに、常に左右されながら生きているのです。
そして、また羊というのは、自分で自分の身を守る方法を持っていません。犬と散歩をしていますと、時々こちらに気がつく羊がいます。それで犬と一緒に近づいていきますと、羊は距離がある時はゆっくり移動して離れていく余裕がありますが、気がつくのがもう数メートル前になりますと、身動きできなくなってしまうのです。ただ、固まって、こちらを見ていることしかできなくなるのです。外敵に対してなんら身を守る術を持たないのです。けれども、羊たちは同時に、自分たちは羊飼いたちが準備をした囲いの中にいれば、絶対に大丈夫だということを知っています。ですからもし、私が犬を連れて近づいて行ったとしても、あるところからは、私たちがそれ以上近寄れないことを知っているのです。羊というのは、そのようにいつも完全に羊飼いに守られているのです。
このように、この詩篇の詩人は、ダビデによる賛歌とされていますから、一般にはダビデとされておりますけれども、自らを羊に譬えています。古くからこの詩篇は、ダビデが少年時代に羊飼いをしていた経験を晩年に思い返しながら、そのような歌をうたったのだろうと考えられてきました。羊と、羊飼いの関係がこの詩篇の中によく表わされているからです。自らを羊であると譬えるというのは、今日ではそれほど抵抗のないことかもしれません。羊はかわいらしい生き物ですから、そのようなものに自分を重ね合わせるということがあっても悪くない気がします。けれども、この聖書の時代というのは、羊は貧しい者が世話をしなければならなかった象徴的な生き物でした。ですから、そのような卑しいものに自分を重ねるということは、おそらく、今日のイメージと若干異なるイメージがあったのではないかと思うのです。
今日でもそうなのですけれども、もし誰かに、「あなたは羊のような人ですねぇ、自分で自分を守れないし、目先の事しか考えていないのですから」などと言われると、頭にきてしまうのではないかと思うのです。自分はそんなに弱い存在ではない、と抗いたくなる人にとって、この詩篇というのは、それほど魅力的な歌として響かないのかもしれません。
けれども、この詩篇は、先ほど葬儀の時に用いられると話ました。自分が元気に生きていて、自分には自分の人生設計がしっかりあって、自分は何事かを成すために生まれて来たのだと、自分に自信を持てる時は良いのですけれども、反対に、自分の弱さを知っていて、自分は誰かからの助けが必要で、確かな方に自分を導いてほしいと願う人にとっては、この詩篇は、この心に語りかけるものを持っています。というのは、人は自分の死を思う時に、自分に弱さがあることを認めざるを得ないのです。死んでしまった後、どうなるのかまったく分からないからです。もし自分が死んでしまってもなお、自分は確かに大丈夫であるということができるとしたら、それは強がっているか、根拠なしにそう言うしかありません。
教会で今求道をしておられるKさんがおられます。中国人の方です。Kさんのご両親は中国でキリスト者としてすでに信仰を持っております。そのお父さんがガンになってしまいました。このお父さんが病気であるということが分かったときに、Kさんは教会に足を踏み入れました。それまで信仰に生きてはいなかったのです。それで、自分もお父さんとお母さんと同じ信仰を持ちたい、そして同じ神様に祈りたいと思い、教会に来られるようになり、今洗礼のための準備を進めているのです。このKさんが、毎週学びをしに教会にきておられたのですが、夏以降ぱったり教会に来なくなりました。どうしたのかと気になりまして、先週連絡を取りますと、このお父さんが亡くなったということでした。あまりのショックで教会に行けなかったということでした。けれども、先週からまたこの学びのクラスが始まりました。木曜日に教会に来られまして、Kさんは私に尋ねます。「私のお父さんは本当に天国に行ったのでしょうか?」と。私はすぐに聞き返しました。「お父さんは洗礼を受けておられましたか?」と。もちろん、洗礼を受けているのです。主イエスを、信じておられたのです。けれども、お母さんは熱心なクリスチャンだけれども、お父さんはお母さんに比べるとそれほど熱心じゃないから心配だとKさんは言うのです。この気持ちは大変良く分かります。
熱心な信仰者であれば、天国に入れるけれども、それほど信仰に熱心でなければだめなのではないかと思ってしまうのです。その時にも、お話したのですけれども、聖書の最後にヨハネの黙示録の中に、「いのちの書」のことが記されています。今、ここで聖書を開きませんけれども、ここには、いのちの書に名前の記されていない者はみな滅ぼされるということが記されております。これは教会では昔から、洗礼を受ける時に、天国にある「いのちの書」に自分の名前が記されるのだと理解してきました。つまり、洗礼を受けた時に、教会の教会員名簿というものに、名前が記されるのと同じように、天国にも「いのちの書」というのがあって、そこに名前が記された者は、神の御国に入ることができると理解してきたのです。
それはそうです。自分が死んでみないと、自分が天国にいるかどうか分からないなどということであれば、聖書が語る復活の希望などというのは全く空しいことになってしまいます。主イエスを信じた者は、その時に、神の国、天の御国の民となるのが、聖書のどこを開いても書かれている約束ですから、これが覆されることはありません。ですから、信仰を持って死んでいくということは、それは人と比較してあの人は立派であったとか、この人はあまり熱心ではなかったというような、この世の人々の比較にはまったく寄らないで、信仰を持って洗礼を受けた時に神の国に入れられているのだと、信じて良いのです。
この詩篇23篇がなぜ葬儀で用いられるようになったかと言いますと、やはり、私を導いて下さる方が確かな方であるがゆえに、死という圧倒的に人間の無力を突きつけられる時に、私の神は、羊飼いのような方であるから、私には乏しいことがないのだと、そのように信じて、葬儀の時に高らかに宣言することができるからです。
主は私の羊飼い。私は、乏しいことがありません。主は私を緑の牧場に伏させ、いこいの水のほとりに伴われます。主は私のたましいを生き返らせ、御名のために、私を義の道に導かれます。たとい、死の陰の谷を歩くことがあっても、私はわざわいを恐れません。あなたが私とともにおられますから。あなたのむちとあなたの杖、それが私の慰めです。私の敵の前で、あなたは私のために食事をととのえ、私の頭に油をそそいでくださいます。私の杯は、あふれています。まことに、私のいのちの日の限り、いつくしみと恵みとが、私を追って来るでしょう。私は、いつまでも、主の家に住まいましょう。(詩編23篇)
この詩篇には、か弱い羊がこの歌の中で、どれほど力強い羊飼いに守られ、養われ、導かれているかが見事に歌われています。言葉で説明などいらないほど、ここで語られていることは明確です。先ほど、見たように、羊は羊飼いをただ信頼してつき従っていきます。ここには緑の牧場があり、いこいの水のほとりであって、この羊飼いは、疲れ、不安を抱え、悲しんでいる者に元気を与え、文字通りよみがえらせてくださるのです。ですから、「死の陰の谷を歩くことがあっても」、いや、死のただなかにあったとしても、この羊飼いである神、主は私たちをよみがえらせてくださるのです。神の国にわたしたちを置いてくださるのです。ですから、私たちは何があったとしても、すぐ近くまで敵が迫ってきたとしても、恐れることなく、羊飼いと共にいることで平安を見出すことができるのです。神はそのように、ここで羊に譬えられている私たち人間が、平安を持って生きることができるようにと、導いてくださるお方なのです。
この詩篇は、私たち人間を、弱い存在である羊に譬えられていることに、ある人は抵抗を感じるかもしれないと先ほど言いました。けれども、この羊飼いである神は、私たちが弱いものであることを認めて、本当に力強いお方としてこのお方を信頼することができるようになることが、お分かりいただけるのではないかと思います。
しかし、実はそれ以上に、この世界のすべてを支配しておられる真の神が、羊飼いに譬えられている事の方が、より謙虚な方として描かれていることも、同時に私たちは知っていなければならないと思うのです。そこには、神が私たちのすぐ近くにきてくださって、私たちを直接に導いて下さるという、非常に具体的なイメージで、この詩篇は神のことが表現されているのです。羊飼いとして、御自分を表されることを神は認めておられるどころか、聖書の中には新約聖書に至るまで、何度もこのイメージが用いられています。そこには、それほどまでに、私たちの近くにいてくださるという、神の愛の姿が、神の本質であることがよく表わされていると言えると思うのです。
この世界では、弱肉強食の世界です。今日では、ますますこれが押し進められています。弱い者は、弱いが故に打ち捨てられてしまう世界です。けれども、羊飼いである主は、私たちが弱い者であることを御存じで、私たちを守り、養い、導こうとしてくださるのです。敵が追いかけてくれば、この羊飼いはむちで敵を追い払ってくださるのです。私たちがどこに進んでいいか分からない時は、杖を持って先頭きって歩んでくださる。目の前に敵が待ち構えていても、安心して食事ができるようにしてくださり、私たちを確実に守ってくださることをあかしするように、頭に油までも注いてくださる。だから、この詩人は言うのです。「わたしの杯はあふれています」と。
この詩は最後に、このようにまとめられています。「まことにいのちの日の限り、いつくしみと、めぐみとが、私を追ってくるでしょう。私は、いつまでも、主の家に住まいましょう」と。
私が生きている間、神の愛の眼差しと祝福とが、私を追いかけて来ると言う事ができる人生というのは、どれほど幸いな人生でしょう。いや、生きている時だけではない、いつまでも、私は主の家に住むことができるのです。永遠に神の国に住まい、神と共にある喜びに満ち溢れることができるのです。
これ以上の幸せが、この世界にあるのでしょうか? これにまさる平安がどこか別のところにあるのでしょうか?
羊飼いである神、主だけが、私たちにこれを与えることがお出来になるのです。ですから、私は自身を持って言うことができます。信仰を持ってこの世で生きるということは、生きている時だけでなく、死んでもなお、永遠に神の国で幸いに生きることができるのだと。
今日は召天者記念礼拝です。ですから、大勢の方々が、信仰を持って死んでいったご家族の方々のことを覚えて、ここに集っています。知ってください。信仰を持って生き、そして死ぬということは、これどもまでに幸いなことなのだと。そして、知ってください。この人々は今、主の家に住んでいるのです。神の家で、神と共に、永遠の喜びの中におかれているのです。
主は私の羊飼い。
私は、乏しいことがありません。
この冒頭の言葉を新共同訳はこのように訳しました。
主は、羊飼い
わたしには何も欠けることがない。
主が羊飼いであるなら、わたしにはもはや何も欠けるものはないのです。
この主は、私の羊飼いであるばかりでなく、あなたの羊飼いでもあるのです。
お祈りをいたします。