・説教 マルコの福音書6章53-56節「ゲネサレでのいやし」
2025.08.10
内山光生
村でも町でも里でも、イエスが入って行かれると、人々は病人たちを広場に寝かせ、せめて、衣の房にでもさわらせてやってくださいと懇願した。そして、さわった人たちはみな癒やされた。
マルコ6章56節
序論
イエス・キリストが人々の前で宣教活動を開始した時、主イエスは二つの事をしました。一つは、福音を伝えることです。もう一つが、病人を癒したり、悪霊で苦しんでいる人々を悪霊から解放する事でした。つまり、主イエスは単なる知識を教えるのではなく、苦しんでいる人々の身体の問題や心の問題に対しても光を与えようとしたのです。
また、イエス様はお一人で宣教活動をするのではなく、早い段階で弟子たちを選んで、弟子たちを引き連れて宣教活動をする方法をとりました。自分一人だけで福音を伝えるのではなく、福音を信じたその人を用いて、更に多くの人々に福音が伝えられていくことを願ったのです。
もちろん、最初の頃はイエス様が中心となってみことばを語り、そして、癒しのみわざをなしてきました。けれども、ある段階になると、弟子たちを二人一組にして、多くの町や村に遣わしたのです。
宣教活動を任せられた弟子たちは、あらかじめイエス様から権威を授けられました。それで、彼らもまた、力強くみことばを語ったり、癒しのみわざを行なうことができたのでした。すでにイエス様の力を体験していた弟子たちです。ところが、彼らはイエス様がどういうお方なのかを本当の意味では悟っていなかったのでした。弟子たちは色々な失敗を通してイエス様のことを深く知るようになっていくのです。
このことから、人というのはイエス様が本当にどういうお方なのかを悟るためには、様々な経験が必要だということが分かってきます。単なる知識だけでは、イエス様がどれほど偉大なお方なのかについて知ることができないのです。また、弟子たちのように、たとえイエス様から権威が与えられたとしても、必ずしもイエス様の事を十分に知っているとは限らないのです。
イエス様の弟子たちの信仰は、まだまだ未熟な状態でした。しかし、もっと不信仰な人々が存在しました。それは今日の箇所より少し前の箇所に記されています。たとえば、イエス様とその一行がゲラサ人の地に到着した時、悪霊で苦しんでいる人がいました。そこで、イエス様はその人から悪霊を追い出したのです。それで、その人は正気に戻り、イエス様によって苦しみから解放されたと受け止めたのです。本人は、イエス様に感謝をささげていました。ところが、ゲラサ人の地に住んでいた人々は、イエス様のことを警戒したのです。そして、イエス様に対して「出ていってください」と言ったのでした。その結果、ゲラサ人の地の人々は、イエス様の福音に触れる機会を失ったのでした。
また、イエス様の故郷ナザレの町においても、その町の人々は「イエス様がすばらしいお方だ」といううわさを聞いていたにもかかわらず、イエス様を受け入れようとしませんでした。人々の心がかたくなになっていて、イエス様に心を開かなかったのでした。それで、不本意ながらも、イエス様はナザレの町では、大きなみわざを行なうことができなかったのでした。
このように、イエス様が福音を伝えたとしても、すべての町や村がイエス様を歓迎した訳ではなかったのでした。一方、今日の箇所において、ゲネサレの地に住んでいる人々は、イエス様を歓迎し、また、イエス様の良い噂を広めていったことが記されています。この地の人々は、素直な心でイエス様の語る福音を受け入れ、更には、イエス様には癒す力があるという事を喜んで受け入れたのです。
各地で福音が語られ、イエス様による奇跡が行なわれていました。しかし、それらを受け入れなかった地域と受け入れた地域が存在したのです。これらの事実を通して、神様が私たち一人ひとりに何を語ろうとしているのかを思い巡らしていきましょう。
I ゲネサレの地に到着(53節)
では53節から順番に見ていきます。
53節の直前には、イエス様が湖の上を歩いた時に、それを見た弟子たちが幽霊だと勘違いして恐ろしい気持ちとなった出来事が記されていました。彼らは、イエス様には普通の人間では行なうことができない力があることを目撃したのです。それは特別な経験であって、誰でも体験することができる訳ではありません。ところが、弟子たちがすぐに信仰が強められたかというと、そうではなかったのです。というのも、彼らが本当の意味ではイエス様がどういうお方なのかを悟っていなかったからです。そういう中で、イエス様の弟子たちとは正反対の反応を示したのが、ゲネサレの地に住んでいる人々だったのです。
ゲネサレという地域は、ガリラヤ湖の北西に位置する地域です。そこは作物を育てるには良い条件が整っていました。例えば、土地が肥えていて、また、水が十分にあったのです。その結果、おいしい果物の産地として知られていたのです。例えば、「くるみ・なし・いちじく・オリーブ・ぶどうなど」の産地として知られていた、と言われています。しかも、収穫できる時期が他の地域よりも長かったというのです。
岐阜県も、割と果物がよく育つ地域だと思います。もちろん、隣の長野県だとか山梨県の方が良いぶどうが育つのですが、岐阜市周辺でも幾つかぶどう園がありますので、恵まれている地域だと言ってもいいと思うのです。ぶどうはそれ程ではないにしても、富有柿が有名ですから…。
自然が豊かな地域というのは、作物を育てている人々の心に安らぎを与える効果があると言われています。もちろん、農家にとっては、収穫作業は肉体的に厳しい側面もあるのですが、おいしい果物が収穫できる時期になると感謝な思いが出てくるのではないかと思うのです。
イエス様の時代におけるゲネサレの地というのも、人々の日常生活において、神様からの恵みに対して感謝な気持ちが出てきやすい、そういう地域性があったと考えられるのです。この地域の人々は、旧約聖書に記されている神の存在を信じている人々が多かったのです。ですから、人々は神様から与えられる恵みに対して感謝をささげやすい、そういう土壌があったと、言えるでしょう。
けれども、この地域の人々が、皆、何も問題のない生活を送っているかというと、そうではなかったのです。おいしいものを食べることができる事は、一時的に「しあわせだ」と感じ取ることができるのは確かな事です。しかしながら、肉体的な、あるいは、精神的な不具合があると、人々の心が暗くなる、そういう現実があるのです。病気になった時、誰でも、辛い気持ちになるものです。また、今の医学では治らない病気だと分かると、誰であれ一時的に信仰が揺れ動いてしまう、そういう事が起こりうるのです。
もちろん、私たちは神様に心を向けていくことによって、どのような境遇であっても神様に感謝をささげることができる、そういう希望があります。あのイエス様の使徒パウロも、様々な苦労に遭いながらも、神様に対する感謝な気持ちであふれていたことを証ししています。でも、皆がいきなり、そういう感覚になる訳ではないのです。むしろ、神に対して怒りの感情がでてきたり、納得できないという思いとなってしまう、そういう経験をする人々が少なくないのです。
ですから、私たちは、まずは今の自分の心の中にある素直な気持ちを神様に訴えていく、そういうステップが必要なのです。神は、私たちのすべての悩み苦しみを受け止めることができるお方です。そういう神に信頼をしていくのです。
II すぐに主イエスに気づいた人々(54節)
54節に進みます。
イエス様と弟子たちが舟から上がると、すぐに、人々は「舟から上がってきたのはイエス様だ」という事に気づいたのでした。誰かが岸に立っていて、遠くから舟がやってくることに気づき、最初は誰が乗っているのかが分からなかった。しかし、近くに来ると、それはまさに今、人々が注目しているイエス様だということに気づいたのです。
私の今までの人生の中で、それ程多くはないのですが、有名人を目撃した事があります。家族と共に、長野県の軽井沢を散策していた時に、テレビ番組のロケで、町を歩いている姿の撮影がなされていたのでした。一瞬にして黒山の人だかりとなり、何が起こったのか分かりませんでした。私がぼっとしていると、確かに、テレビで見たことのある俳優が目の前に現れたのでした。
また、同じ軽井沢ですが、私たちはしばしばテニスコート周辺の駐車場に停めていたのですが、ある時、テニスコートの前で、カメラを構えている人々が何十人もいる事がありました。また、警備員が立っていて、何かが起ころうとしている気配を感じました。どうやら、天皇あるいは、皇族の誰かがテニスをしに来る可能性があるとの事で、人々が張り込んでいたのです。
私は、どちらかというと、有名人を見たいという願望がそれ程強くないのですが、(いや、実際には、今までの人生で何度も経験してきたので、もう十分だ、と思っているのかもしれないですが…)ある特定の人々は何としても有名なあの人を自分の目で見たいと思い、そのために時間と体力を消費することを惜しまないのです。
若い世代では、「推し活」をすることが流行っていますが、自分が推している人に会えるチャンスがあるとなると、多少のお金や時間を犠牲にしたとしても、何とも思わないのです。
また、しばしば、スーパーや電気屋さんで特売があると、大勢の人々が並ぶことがあります。少し前ですが、備蓄米が販売されるという事で、全国各地の販売店で、何百人も人が並んだとの報道がなされていました。人々が並んでいると、それにつられて、ますます行列が長くなるのです。多くの人々は、「今だけしかチャンスがない」「今ならお値打ちに商品を買える」という情報に対して敏感に反応するのです。そして、そのようなうわさは、あっという間に広がっていくのです。
当時、イエス様はガリラヤ地方においては、かなり有名になっていました。ですから、どこに行っても、人々は「あそこにイエス様がおられる」と気づくと、イエス様の周りに多くの人々が押しよせてきたのです。更には、イエス様がいることを周りの人々に伝える、そういう現象が起こっていたのです。
III 主イエスのもとに病人が連れてこられる(55節)
55節に進みます。
「今、イエス様がどこどこの場所におられる。」そんな情報が、一瞬にして広がり、そして、イエス様の助けを必要とする人々、すなわち、病気で苦しんでいる人々が運ばれてきたのです。自分の力で歩くことができない、しかし、なんとかしてイエス様によって癒してもらいたい、そういう方が大勢おられたのです。それらの人々は、家族あるいは近所の方の助けによって、イエス様の元に連れてこられたのです。
多くの人々は、自分だけ健康ならばそれでいいという考えではなく、あの人の病気も癒されてほしい、そういう優しい心を持っているのです。もちろん、そういう感性が弱い人もおられるかもしれません。しかし、やはり自分の家族や友人・知人・あるいは近所の方が健康でいられるようにと願うのは、大切な考えだと思うのです。
ですから、私たちクリスチャンは、自分のためにだけでなく、周りの苦しんでいる人、祈りが必要な人のために、熱心に祈り続けているのです。イエス様は、私たちに対して「神に自分の願い事を祈るように」と促しているのです。そして、私たち自身も、必要に応じて、助けが必要な人のために何らかの行動に移すようにと促されているのです。私たちは、そのイエス様の促しに応じる事によって、神様の栄光を現していくのです。
確かに、今日の箇所に出てくる人々が、どの程度、イエス様を信じていたのかについては何も情報がありません。イエス様がまことの救い主だとはっきりと自覚していた訳ではなかった、そういう可能性が高いとも言えます。けれども、私たちは、ゲネサレの地に住んでいる人々が、イエス様に心を開いていた事、また、イエス様には病人を癒す力がある事を素直に受け止めたことに目を留めたいのです。
しばしば、「キリスト教はご利益宗教ではありません。」と言われます。たしかに、一般的な人々が思い描いているご利益がある訳ではないのです。つまり、賽銭箱にお金を入れて願いをとなえれば、その願いが叶えられる、そういう種類の宗教ではないのです。けれども、今の時代においても、イエス様は、イエス様を信じる人々の心の中に住んでくださり、そして、イエス様に助けを祈り求める人々に対して、何らかの応答をして下さる、その事は確かな事なのです。
また、イエス様は単なる聖書の知識だけを伝えようとされたのではなく、イエス様を信じる事によって神様との関係が回復すること、その結果「祝福された人生」を送ることができる事を示そうとされたのです。聖書が示している祝福された人生、それは、必ずしも、自分の思い描いている祝福と同じとは限りません。ですから、私たちは聖書の言っている祝福がどういう事なのかを整理していく事が必要なのです。
ある人々は、自分の病気が治ってほしいと願いながらも、しかし、完全には治らない、そういう事があるかもしれません。また、自分が欲しいと思っている物があって、そのために熱心に祈っていたとしても、必ずしも、自分の願い通りになる訳ではない、そういう現実を受け止めることができずに苦しむことがあるかもしれません。人間関係での苦しみが何歳になっても続いていく、そういう苦労をする人もおられるでしょう。
ある意味、クリスチャンになったとしても、苦労や苦しみがなくなる訳ではないのは本当の事なのです。しかしながら、神は私たちに何が必要なのかをご存知であって、すべてが神の御心のままに事が進んでいくのです。それらの事実を信仰によって受け止めることができる時に、私たちは、神様への感謝な思いがますます強められていくのです。
ただ、私たちは何が神の御心なのかについては、すぐには理解できないのです。後になって、ようやく、あの出来事がどういう意味があったかについて理解できるようになるのです。神は、神を信頼する人に対して心に平安を与えてくださるお方です。また、神は私たちが神を信頼することができるよう導いて下さるお方です。ですから、今は納得しがたいという思いがありつつも、すべての出来事を益として下さる神に信頼していくのです。
IV 主イエスによって病人が癒される(56節)
最後、56節に進みます。
イエス様はゲネサレの地の様々な村や町、また里に行かれました。そして、それぞれの場所において、病人を癒されたのです。その中には、イエス様の衣の房をさわれば癒されるに違いないと考える人もいました。とにかく、今のこのチャンスに何とかしてイエス様によって病気を治してもらいたいと考える人々がたくさんいたのです。そして、イエス様は、人々の願いに応えていったのでした。
まとめ
今日の箇所全体を見ると、イエス様が人々の病気を癒された事が強調されているように思えます。そして、この箇所だけで判断すると、イエス様はどんな病気でも治すことができると感じるかもしれません。けれども、聖書の別の箇所を読むと、例えば、パウロの書いた手紙の中には、パウロが自分のとげを取り除いてもらえるよう3度も祈った事が記されています。ところが、パウロの祈りの通りにならなかったのでした。そういう中にあっても、パウロは自分の願い通りにならなかったけれども、神様に感謝をささげる事ができたのでした。
つまり、聖書全体から言えることは、すべての病気が必ず癒されるという事でなく、あくまでも、神様の御心によって、ある人々は癒されるが、しかし、たとえ病気が癒されなかったとしても神様は、その人の最善の道を備えてくださっている、そういう事が示されているのです。
今日の箇所から学び取ることができることは、「イエス様が私たちの願いに応えて下さるお方だ、という事を素直に受け入れる事」これが大切だという事です。ゲネサレの地に住んでいる人々全体としては、イエス様に対して心を開いていました。その結果、イエス様は、自分のもとに来るすべての人々を癒すことができたのでした。
お祈りいたします。
