・説教 マルコの福音書7章1-13節「神のことばを無にしないために」
2025.08.17
内山光生
柔和な者は【主】によってますます喜び、貧しい者はイスラエルの聖なる方によって楽しむ。
イザヤ29章19節
序論
ここ数年、ずっと猛暑が続いていて「今年は暑いね」という言葉をよく聞くことがあります。10年以上前までは、これ程の暑さが続くことはなかったように思うのですが、いつの間にか、気温が35度を超えるのは当たり前の事で、場合によっては38度や39度になることもある、そういう時代に入ってしまったようです。
そういう中にあっても、今、私たち家族が住んでいる高天ヶ原団地では、朝夕は多少、気温が下がるようで、特に早朝に聖書を読んだり祈ったりするには、快適な環境です。暗い時間から、せみの声や鳥の声が鳴り響いていて、音楽をかけなくても、天然のBGMとなって心地よい気持ちで過ごしています。ただ太陽が出てくると、やはりエアコンのある部屋でないと厳しいと感じています。
さて、聖書の話に進みたいと思います。前回の6章までは、イエス様の宣教活動が多くの町や村に伝えられて行き、特にゲネサレの地では、快く受け入れてもらった事が記されていました。一方、イエス様の教えを受け入れようとしない人々も存在しました。この7章からは、イエス様を受け入れない人たちとイエス様とのやり取りが記されています。
これらの人々は、一言で言うと「神のことばを無にしていた」のです。イエス様は、彼らの本質を見事に見抜いた上で、強烈なパンチを浴びせたのです。しかしイエス様は、彼らが本当の意味で神様の教えがどういう事なのかを知ってもらいたいがゆえに、彼らの問題点をはっきりと指摘しているのです。
人というのは、誰かから自分の問題点あるいは自分の所属しているグループの問題点を指摘されると嫌な感情が出てきます。そして、拒絶反応が起こる、そういう場合もあるのです。けれども、神の教えを無にした人生を送り続けているならば、それは、良くないことなのです。ですから、私たちクリスチャンは、自分の考え方や自分の行動が神のみこころにかなったものなのかどうかを思い巡らすことは、意味のあることなのです。
聖霊が働くとき、私たちは自分の間違いを素直に受け止めることができるようになります。そして、神のみこころが何であるかに気づくようになります。その結果、考え方や行動に変化が生じるのです。耳が痛い話、聞きたくないと思う話、多くの人々は、そういう話を避けようとするかもしれません。けれども、神様に心を向けて、素直に聖書の話を受け入れる事ができる時に、(それさえも聖霊の働きなのですが……)結果的には、神の恵みを味わう事となるのです。
I エルサレムから派遣された律法学者たち(1~4節)
それでは1節から順番に見てきます。まず、1~4節を見ていきます。
1節では、パリサイ人たちに加えてわざわざ都エルサレムから派遣された律法学者たちが、イエス様に質問するために集まって来たことが記されています。イエス様の評判は、すでにガリラヤ地方やユダヤ地方全体に広がっていました。そして、あのユダヤの王ヘロデにまでうわさが届いていたのです。ですから、律法学者たちが黙っていることができなくなったのです。しかも、エルサレムから派遣された律法学者たちですから、普通の律法学者よりも権威を持った人々でした。つまり、個人的に行動している律法学者ではなく、彼らなりの手順を踏んだ上で、「あのイエスという人物をきちんと指導しなければならない」と判断したのでしょう。
律法学者とは、元々は様々な地域に散らされてしまったユダヤ人に対して、旧約聖書の教えを伝えるという役割を担っていました。そして、それ自体は良い働きだったのです。ところが、時代と共に、「人間の言い伝え」と「本来の神の教え」との区別がつかなくなっていたのでした。結果的には、神様の願っている事とは異なった教えがなされていたのです。
律法学者たちは、イエス様の弟子たちが自分たちの教えを守っていないことに気づきました。そして、その現場を直接、確認したのです。彼らは単なるうわさではなく、事実をきちんと確認するという手順を踏んでいるのです。そういう部分は、彼らなりにルールを大切にしていると言えますし、いきなり根拠のない事で訴えようとした訳ではなかったのです。神の視点から見れば、彼らが間違っていることは明らかです。しかし、彼らの立場からすれば、自分たちが正しいと思っていて、だからこそ、自分たちのしていることは良いことだとさえ感じていたと推測できるのです。
3節から4節にかけては、当時のパリサイ人たちがどういう考え方をしていたかの説明が書かれています。彼らが守っていたのは「旧約聖書の教えそのもの」ではなく、「昔の人たちの言い伝え」を守っていたというのです。
その具体例の一つとして、市場から戻ったときは、からだをきよめてからでないと食べることをしなかった、とあります。これは今の時代の私たちが食事の前にする手洗いとは内容や方法が異なっています。すなわち、これらは彼らにとっての宗教行為であって、細かい手順が定められていて衛生的に手をきれいにするという事が目的ではなかったのです。
どの宗教でもそうなのですが、きちんとしたしきたりや方法があると思うのです。そして、それを守ることによって、自分たちは正しい事をしていると安心するのです。人というのは形から入る方が分かりやすいからでしょうか。それで、神社でお参りをする際にも、手順がありますし、また仏教の葬儀においても、それぞれの宗派に応じてルールが存在するのです。ですから、少し調べると、「この宗教ではこういうしきたりとなっています。」という情報を手に入れることができるのです。特に、葬儀や結婚式においては、それぞれの宗教のしきたりを大切にしようとする考えが強いのです。これは日本だけの事ではなく、恐らく、外国の宗教においても、やはり、何らかの守るべきルールがあったり、反対に、タブーと言われる事柄があるのです。
もちろん、キリスト教においても、礼拝に関するマナーやルールというのは存在しますし、葬儀にしても結婚式にしても、それぞれの伝統に基づく暗黙のルールが存在する事でしょう。
私たちは、基本的にはそのようなルールを大切にする必要があるのです。しかしながら、それらの教えが聖書の教えに基づいているものなのかどうか、あるいは、神様が喜ばれる事なのかどうか、その辺りをきちんと見ていく、そういう視点も必要であって、もしもそれらが聖書の教えと正反対のものとなっていたならば、思い切って、それらのルールを変える、あるいは、破棄する必要が出てくるでしょう。
最近、気になって調べてみたのですが、キリスト教の結婚式における新郎新婦入場の方法や衣装については、様々な方法やスタイルがあって、どれが一番正しいとは言い難い、そういう事が分かってきました。以前の私は、あまりそういう事を知らなかったので、自分が今までに見てきたもの、あるいは、自分たちの結婚式の方法が頭にこびりついていたのですが、しかし、それらはただ一つの方法に過ぎないことに気づかされました。つまり、私たちが「これが正しいと思っている事柄」であったとしても、実は修正することが可能であるし、時代と共に変化する、そういう余地があることを理解しておく必要があるのです。
大胆な発言になるかもしれないですが、教会の礼拝プログラムに関しても、多くの場合、修正する事が可能であるし、これでなければいけないと言い切れる要素は、それ程多くはないのです。究極的には、「聖書のことばが語られている事」「賛美がささげられている事」「祈りがなされている事」であって、それらを通して礼拝に集う一人ひとりの心が神に向かっているかが問題なのです。
目で見える方法やルールを完全に無視してもよいということではありません。ただ、神は私たちが礼拝をささげる背後にある「心の中」を見ておられるお方です。ですから、人間の評価を気にしたくなる私たちですが、しかし、神がどう評価して下さっているかに目を留めていきたいのです。
II 主イエスに質問する律法学者たち(5節)
5節に進みます。
パリサイ人と律法学者たちは、主イエスに質問をしました。彼らはイエス様の弟子が食事の前にきよめの儀式を守っていなかった事で疑問を感じていたのです。それで、ルールを守っていない、その理由を尋ねてきたのです。
この時、イエス様の弟子たちが彼らの教えていたルールを守っていないことは明らかでした。彼らはきちんと弟子たちの様子を確認した上で質問してきていますので、適当にごまかすことはできなかったのです。また、彼らは自分たちの教えが正しいと信じていました。それゆえ、彼らを納得させるためには、かなりの知恵が必要だったのです。
相手は、律法の専門家たちです。人々に旧約聖書の教えを伝えることの専門家です。ですから、普通の人ならば、簡単に議論に打ち負かされてしまうのです。また、彼らは、普段から人々に宗教的な指導をしていましたから、今回も、「自分たちの教えを受け入れてもらうことができる」と思っていた事でしょう。
ところが、イエス様の口からは、彼らが反論できないような見事な答えが返ってきたのでした。イエス様は二つのポイントによって、彼らの質問に答えていきました。
III 主イエスの応答 ~その1~ (6~8節)
一つ目のポイントが6~8節に記されています。
主イエスは、パリサイ人や律法学者たちにどういう問題があるかを、旧約聖書を引用して指摘したのです。まず最初に彼らの事を「あなたがた偽善者」と表現しています。誰でも、こんな風に言われると、とても腹が立つと思うのです。しかし、イエス様は相手が怒る事が分かっていても、はっきりと彼らの問題点を指摘していくのです。
イザヤ書には、人々が口先で神を敬っていても、心が神から遠く離れている、そういう人が現れる事が預言されていたのです。確かに、彼らは神様に礼拝をささげていました。しかし、イエス様によると、彼らは人間の命令を教えとしている、と言うのです。更には、「神の戒めを捨てて、人間の言い伝えを守っている」と主張したのです。
大変厳しい指摘です。元々は、パリサイ人たちにしても律法学者たちにしても、イスラエルの民に聖書の教えを伝える事を目的としていたはずです。そして、間違ったことをしている人を見つけては、何が正しいかを教えてきたのです。彼らは自分たちの教えこそが、正しい、と確信していました。しかしながら、主イエスは彼らを偽善者だと宣言したのです。つまり、人間が作り出したルールを教えていたにすぎず、心が神様から離れていたのです。
キリスト教の歴史においても、しばしば人間が作り出したルールを教会の中で教えていた、そういう時代があった事が分かっています。歴史の教科書の中で有名なものに、宗教改革が起こる直前、当時のカトリック教会が、お金を集めるために免罪符を販売したことがあります。それを買えば罪が赦されるという事で人々がこぞって免罪符を購入したのでした。その間違いは、修正されたので良かったと思うのです。
また、ひと昔前の時代では、礼拝に出席するためには、それにふさわしい服装を着用しなければならない、という考えを強調していた教会も存在しました。教会の中では、若い男女が親しく会話をすることすら、控えるよう指導していた教会もありました。また、賛美の種類にしても、伝統的な賛美でなければいけない、と考える時代もありました。食べ物や飲み物についても制限をかける、そういう教会さえも存在しました。それらは、一見、聖書の中に根拠があるように見えるのですが、よくよく聖書を調べてみると、極端な教えだということに気づかされるのです。当時の人々が、自分たちの考えを持ち出して、極端な聖書解釈をした結果、起こったものでした。それらは皆、時代の価値観によって変化が起きやすい、不安定な考えであって、少なくとも、普遍性がある教えとは言えなかったのです。神学校で聖書解釈の学びをすると、何がどう間違っていたのかが分かるようになるのですが、その判断をするにも多少、専門的な学びが必要かもしれません。
ただ、当時の人々は「これが正しい」と信じていて、それを守ることがクリスチャンとして正しい生き方なんだ、と本気で考えていたのです。これらは昔の時代の一部の人々に起こった現象だと言い切れるでしょうか。いや、今の時代のおいても、無意識の内に同じような過ちを犯している可能性があるのです。
ですから、私たちは今自分たちが正しいと思っている事が、本当に神のみこころに沿っているものなのかどうか、それとも、人間が生み出した考え方なのかを区別していくことが大切なのです。そうする事によって、人間の考えに心を向けるのではなく、人間の評価を恐れるのではなく、神に心を向け、神を恐れる事を大切にしていくのです。
IV 主イエスの応答 ~その2~ (9~13節)
続いて9節から13節を見ていきます。
ここには、主イエスが示した二つ目のポイントが記されています。短くまとめるならば、「表向きは神に喜ばれる事をしているように見えても、実質はモーセの十戒を破っている」ということを指摘しています。
具体的には十戒の中の「あなたの父と母を敬え」が引用されています。これは一つの例としてこの戒めが用いられているだけであって、究極的には「神を愛しているかどうか、また、隣人を自分自身のように愛しているかどうか」そこが重要となっているのです。私たちがこの聖書の教えに触れる時、これらの教えを大切にしたいという願いが出てくるのです。また、神は私たちがそれを実行できるように導いて下さるのです。その神の導きに私たちが応えていくのです。
ところで、当時のパリサイ人や律法学者の教えの中には、「コルバン」と呼ばれる教えがありました。それは、本来は一度神様にささげ物をすると約束したならば、それを取り消してはいけないという教えであって、その教え自体は悪い内容ではありませんでした。ところが、「コルバン」を本来の意図とは違った用い方をする人々が出てきたのです。
当時は今の時代のように年金という制度が整っていませんでした。それで、仕事をするのが難しい年齢になったならば、子どもたちに生活の面倒を見てもらうことが常識となっていたのです。また、それは社会常識というだけでなく、当時の人々にとっては「父と母を敬う」事の具体的な方法だったのです。
今は時代が変わりました。それゆえ、子どもたちが全面的に親の生活費の面倒を見るというケースが少なくなったと思われます。それゆえ、当時の感覚が分かりづらくなっているかもしれません。とにかく、イエス様の時代においては、年老いた親の面倒を見るのが常識だったのです。ところが、ある子どもたちは、親に経済的援助をしたくないと思って、それを逃れるために「コルバン」の制度を悪用して、わざと神様にささげ物をする約束をして、親をないがしろにしていたのでした。
これは当時のパリサイ人や律法学者たちの教えを悪用した一つの事例であって、これ以外にも、イエス様の視点から見れば、幾つも幾つも問題点を指摘することができたのです。イエス様が伝えたいことは、「人間が作り出したルールを守ることによって、結果的には、神のことばが無になってしまっている現状が問題なんだ」ということなのです。
まとめ
繰り返しますが、これらの問題を解決していくためには、まず自分たちの中にある考え方や暗黙のルールに対して、それが神のみこころに基づくものなのかどうか、あるいは、人間が作り出したルールなのかを区別していく必要があります。そして、もしも人間が作り出したルールによって、本来、神が私たちに示しておられる教えがないがしろにされているならば、そして、それに気づいたならば、いさぎよく人間が作り出したルールを捨てる、あるいは、修正していくのが良いのです。多くの人々は、今まで自分たちが守っていた教えを変えることに抵抗を持つ、そういうものです。でも、それらの教えが、神のみこころと正反対な結果をもたらしていたならば、そのような教えに縛られる必要はないのです。むしろ、神に喜ばれることが何なのかを思い巡らしていく事が大切なのです。
イエス・キリストは、モーセの十戒を破棄するのではなく成就するために地上世界に遣わされました。それは、イエス・キリストを信じる者が、「神を愛する事ができるように、また、隣人を自分自身にように愛することができるように」、私たちの心と言葉と行ないを変える力を与えるために遣わされ、十字架にかかってくださったのです。
神のことばを無にする生き方ではなく、神のことばに忠実な歩みができるように導いて下さる神に期待をいたしましょう。
お祈りします。
