2025 年 8 月 31 日

・説教 ルカの福音書18章35-43節「見えるようになれ!」

Filed under: 礼拝説教,説教音声 — susumu @ 19:36

2025.08.31

鴨下直樹

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 今回、3週間ドイツに行かせていただきまして、本当に素晴らしい時間を過ごすことができ感謝でした。ドイツ留学から18年が経ちます。これまでも、教団の研修で2回ドイツに行かせていただいていますが、今回はスケジュールを自分たちで組むことができましたし、半分休暇も兼ねていたので、色々な懐かしい方々のところを訪問することができました。特に、マレーネ先生をはじめ、日本で長い間働いてこられた宣教師たちを訪ねることができたことは、本当に嬉しいことです。

 退職された宣教師の皆さんとお会いして驚いたのは、退職されてすでに20年以上たっているのに、皆さんまだ完璧に日本語を話すことができます。メツガー先生ご夫妻、クリステル・ホッテンバッハ先生、ヘルガー・タイス先生、エルケ・シュミッツ先生、クノッペル先生ご夫妻、そして、マレーネ・ストラスブルガー先生と本当に多くの宣教師たちと再会することができました。この間に亡くなられた先生もたくさんおられますが、改めて多くの方々の祈りと、具体的な支えによって、私たち同盟福音の教会は支えられてきたのだということに気づかされました。これらの先生方は、退職されてドイツにおられるので、なかなかお目にかかることはできません。けれども、来年で私たち同盟福音の教会は宣教70周年を迎えるとお伝えすると、皆さん日本に向けてのメッセージを届けてくださいました。

 今日の説教題を「見えるようになれ!」としました。、この宣教師の先生方の思いもそうですけれども、私たちは普段は目にすることができないもの、そういうものを無いものとして生活しています。けれども、実際には存在していて、そのことがとても大切であるというものがたくさんあります。

 今日の聖書の中に出てくるのは一人の目の見えない人の話です。以前は「盲人」という言葉を使いましたけれども、差別用語、不快用語にあたるということで、今の聖書ではそういう言葉は使わないようになりました。

 私が神学生の時のことです。奉仕をしていた教会に目の見えないKさんという方がおられました。役員もしておられ、とても熱心な方でした。当時私が祈祷会で聖書の話をする当番だったことがあります。その頃、教会では「聖歌」を使っておりましたので、その時の集会に聖歌の451番「神なく望みなく」という曲を選んで歌い始めました。教会生活の長いかたは皆さんよく歌ったことのある聖歌だと思います。こんな歌詞です。

神なく 望みなく さまよいし我も
救われて 主をほむる 身とはせられたり
我知る かつては 盲(めしい)なりしが
目明きとなり 神をほむ 今はかくも

 私はこの最後の繰り返しの歌詞である「我知る かつては盲(めしい)なりしが」というところまで歌って、しまったと思いました。

 この聖歌はKさんのいる時には選んではいけないと思いまして、すぐに聖歌の番号の横に大きなバツ印をつけました。それからは、私はこの451番を選ぶことはなくなったわけです。

 この「盲(めしい)」と言う言葉は、「盲人」よりも、もっと強い言葉のように思います。まさに差別用語です。「わたしはかつては目が見えない者であったが、今は目が開かれて見えるようになった」そう歌っています。けれども、Kさんは今も目が見えないままです。この歌を教会で皆が歌うことで、どれだけKさんを苦しませることになるのだろうかと思ったのです。

 私たちの信仰の闘いというのは、このようなところにあると思います。聖書にはすばらしい奇跡の数々が描かれています。しかし実際には私たちの生活の中で、このような奇跡はそれほど起こりません。そして私たちには、さまざまな悩みがあります。苦しみがあります。そういう思いを誰かに分かって欲しいと願いますし、そういう思いが少しでも軽くなればと願いながら信仰を求めるという方も少なくないと思うのです。そこに、ある共通する思いがあるとすれば、この聖書の中に出てくる人のように「見えるようになりたい」ということであるかもしれません。

 明日の生活の不安、複雑な人間関係の中から起こる思い煩い。将来には安心して笑って暮らせるようになりたいとか、問題のある人との関係が改善されることを願うということがあると思うのです。

 「見えるようになる」というのは、今は見ることができないが、その先に見えるようになることです。そのような願いを実に多くの人は持っています。信仰を持つようになれば、その悩みは解決されるのだと、どこかで漠然と願っておられる方は少なくありません。

 このルカの福音書に出てくる「目の見えない人」の願いは一つです。それは、「見えるようになること」です。そして、今日の聖書の箇所は、まさにこの目の見えなかった人が、目が開かれて見えるようになるという奇跡を経験するところです。

 今日の聖書の箇所はまさにそのような奇跡を扱うところです。私たちは聖書を読む時、主イエスは奇跡を行うことを通して、ご自分が神の御子であることを示そうとしておられると考えます。けれども、本当はそうではありません。聖書が語る奇跡は、「神が与える救いとは何か?」ということを、ここで明らかにしているのです。別の言い方をすると、「神の国とは、どういうところか?」ということです。それは、「神の国に入ることで私たちはどう変わるのか」ということでもあります。

 そして、この問いかけに対する主イエスのお答えは「見えるようになること」だということができます。神がお与えになる救いというのは、今見えていないものが見えるようになることです。「神の国は今は見えていないが、それが何であるのかが見えるようになる」ということです。

 つまり、この見るべきものが見えていない状態のことを、聖書は「罪」と理解していることになるわけです。

 『星の王子さま』というサン=テグジュペリの書いた小説があります。お読みになられたことのある方も少なくないと思います。

 星の王子さまは、自分の星で1本しかないバラの花をとてもとても大切していました。けれども、ある時、王子さまはこのバラを自分の星に置いたまま、他の星へ旅をして回ることになるのです。そうして、やがてこの王子さまは地球にやってきます。すると、この星には、1本しかないと思っていたバラの花が5000本もあることに驚きます。そんな時に、キツネと出会います。そのキツネと友達になろうとすると、キツネは「それなら僕を飼い慣らさないといけない」と言うのです。この「飼い慣らす」というのは、どういうことかというと、話をするうちに「絆を作ること」「仲良くなること」だということだと分かるようになってきます。こうして、キツネと仲良くなってみると、一つのことに王子さまは気がつきます。それは、「自分にとってかけがえないものになる」ということなんだということが分かるようになるわけです。

 やがて、王子さまとキツネとのお別れの時がやってきます。キツネが「寂しくて泣いちゃうよ」と言います。すると、王子さまは、「それなら出会わなければ良かった」と言うのですが、その時にキツネが一つの秘密を王子さまに教えます。それは、「ものごとは心で見なくちゃよく見えない。大切なことは目に見えないんだ。」と教えます。そして、「君がバラを特別なものにしているのは、君がそのバラのために費やした時間なんだ」と教えてくれるのです。時間をかけて絆を作って、仲良くなる。そうすることで、それはとてもかけがえのないものとなるのだということを、王子さまは知るのです。

 この時のキツネの王子さまへの最後の言葉「大切なものは目には見えない」という言葉が、この物語のメッセージとなっているわけです。

 私たちはひょっとすると、ものごとの表面的なところばかりを見て、この本当に大切なものが見えていないのかもしれません。見たいと思っているもの、それは星の王子さまであれば、自分が大切にしているバラからの優しい言葉であったのかもしれません。あるいは、目の見えない人であれば「自分の目が見えないという問題が解決すること」それが、「見えるようになること」です。そして私たちの場合は、「目の前の困難が取り除かれること」なのかもしれません。

 けれども、主イエスが私たちに見せたいと思っておられる「一番大切なもの」とは何でしょう。「神の国」とか「救い」と言っているものの正体は一体何なのでしょう。それは、「主イエスの心の中にある私たちへの思い」です。

 この物語に出てくる目の見えない人は、確かにその人の願ったように目が見えるようになりました。けれども、この人がそこで見たのは、自分自身が願った以上のものだったのです。それは、自分の目を開いてくださった主イエスの、自分に対して注がれている大きな愛でした。

 主イエスが私たちに見せてくださるのは、私たちが願っている以上のものです。神のみ思いは、私たちが望むものを遥かに大きく超えているのです。43節にこう書かれています。

その人はただちに見えるようになり、神をあがめながらイエスについて行った。

 この人は、もっと見たいと願うようになったのです。主イエスが、これから人々を救われる姿を。このお方が、どのように人を愛し、どのように人を救いに導き入れていくのかをもっと見たいと願うようになったのです。それは、自分の目が見えるようになって自分のための生活を築き上げるということよりも、もっと素敵な生活に違いないと、思い描けたのです。だから、この人は主イエスに従うようになったのです。

 神学生の時の、聖歌の選曲の失敗から1年ほどが経った頃のことです。私の奉仕先の教会が変わることになって送別会をしてくださった時に、ある方が聖歌451番の「神なく望みなく」を選びました。私はドキッとしました。あの時以来1年ほど、歌っていなかった曲です。すると、その曲を選んだ方がこう言ったのです。「この曲はKさんの一番好きな歌なんです」と。私は拍子抜けしてしまって、Kさんに尋ねました。「どうしてこの歌が好きなんですか?」するとKさんはこう言われたのです。「私は信仰に導かれるようになって、目は見えないままですが、本当に見るべきものが見えるようになりましたから、このことに気づかせてくれるこの歌が好きなんです」と。

 私の方が、見えていなかったのだと、その時に愕然としたのを今でもよく憶えています。私の方こそ、目先のことしか見えていなかったのです。Kさんは、自分の目が見えるようにならないということで、嘆いたりはしていませんでした。「この歌は自分の歌として、心から喜んで賛美することができる。」そう言われたのです。

 私たちの主イエスは、私たちの目を開くことのおできになるお方です。主イエスは、私たちが本当に見るべきもの、本当の喜びや幸せがどこにあるかということを私たちに見せたい、示したい、体験させてやりたいと願っておられるお方です。

 主イエスが語られるこの言葉、「見えるようになれ!」は、今も私たちに向けて語り掛けられています。主は、今日も私たちに神の国を、神の現実を、神のみ思いを私たちに見せたいと願っておられるのです。

 お祈りをいたします。

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