・説教 ルカの福音書18章15-17節「神の国を受け入れる者」
2025.07.06
鴨下直樹
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私が子どものころ、教会でしきりに聞いた話は、「私たちは死んだ後、天国に行ける」という話でした。まだ小さかった子どもの頃なので、正直この話がよく分かりませんでした。「死んだ後」というのがイメージできなかったのです。昔は、「四つの法則」なるトラクトがあって、「神、罪、救い、天国」の順で神様の救いの説明がなされていました。みなさんの中にも、そのころこういう話を聞いたことのある人がたくさんおられると思います。あるいは、5つの色のフエルトで作った本がありました。黒、赤、白、黄色、そして表紙が緑の5色で、一つずつの色の説明をしながら福音を説明していくのです。
黒は、私たちの「罪」。私たちは神様の思いを離れているので、心が真っ黒です。けれども、今度は赤色を示して、イエス様の「十字架の血」の説明をします。イエス様が私たちの罪を十字架の上で流された血潮によってきよめてくださいました。それで、私たちの真っ黒な心は雪のように白くなるというのです。そして続いて黄色を示して、私たちは光り輝く「天国」に入れていただけるのですという説明がなされるのです。最後の緑はそれまで私たちの信仰が「成長」していくことを「緑」の色で表して説明をするのです。
キリスト教の福音を単純化して分かりやすく説明するためには、とても良い方法だと思います。ただ、このような分かりやすい話で、福音を説明していくのですが、子どもの頃の私には、「死んだら天国に行ける」というのは、イメージしにくいどこか遠い話でした。話としてはよく分かるのですが、死ぬということを考えたことがない子どもの私には、あまりピンときていなかったのです。
その頃、私にとって衝撃的だったことがあります。当時、「日曜学校」と言っていましたが、礼拝の前の時間に、子どものための礼拝として「日曜学校」が行われていました。そこで、讃美歌を歌って、聖書の話を聞いて、お祈りをするわけです。その頃、聖書の話を聞くと、最後に「暗唱聖句カード」という小さな豆カードが一人一人に渡されていました。
その時もらったカードにはこういうみことばが書かれていました。マタイの福音書7章13節と14節のみことばです。
狭い門から入りなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広く、そこから入って行く者が多いのです。いのちに至る門はなんと狭く、その道もなんと細いことでしょう。そして、それを見出す者はわずかです。
この聖句のカードに絵が書いてありました。広い道の先に大きな門が描かれていて、パレードのように多くの人たちがその道を進んでいくのですが、「ウェルカム」と書かれた物の先には火が燃えていて、悪魔が描かれています。そこにたくさんの人たちが落ちていくのです。ところが、その広い道の途中で細い怪しげな道があって、そこに小さな門があります。そして、その門の先には天国が待っているという絵です。
その時の私が何年生だったのか覚えていないのですが、その時私は心に誓ったのです。もし、こういう小さな門を見つけたら、その時はその門をくぐっていけば失敗しないんだと。こういう小さな門があることをちゃんと覚えておこうと思ったのです。
この話は何年か前にもお話ししたかもしれません。私には、非常に印象的な出来事だったので、こうして今でも覚えているわけです。
ただ、子どもの頃は「天国」というのが、あまりイメージできなかったわけですが、聖書を読んでいくと、「天国」=「死後の世界」のことではなくて、「神の国」、「神様が一緒にいてくださる実際の生活」のことだということが、分かるようになってきました。だんだんと、信じている中身の意味が変わってくるという経験をするわけです。
今、私たちはルカの福音書の18章に入っています。この18章と19章は、「神の国に入るとはどういうことか」を語っている部分です。そして、今日のところは、「子どものように神の国を受け入れるものが神の国に入ることができる」ということを語っています。
ことの発端は、主イエスのところに大勢の人々が触れていただきたくて集まってきたことでした。その多くの人々は、病気を治して欲しい人や、汚れた霊につかれた人、癒して欲しい人たちです。そこに、「人々は幼子たちまで連れてきた。」と15節に書かれています。
この言葉の背後にはいろいろなことが想像できます。「幼子たちまで」というわけですから、これを叱った弟子たちからすると、想定外だったことが分かります。なぜ想定外なのかですが、まず、病気や困った状況ではない子どもたちまで来ていたのではないかと想像できます。あるいは、自分の意思で来たのではなくて、親に連れられてくるわけで、こういう子どもたちまで受け入れていたらキリがないと弟子たちが考えたのかもしれません。
それで、「弟子たちはそれを見て叱った。」と15節の後半に書かれています。いつまでもいつまでも、人々が押し寄せてきます。それに、「子どもたちまで」、いや子どもでもない「幼子」です。新共同訳聖書では「乳飲み子」と訳されています。
先日の祈祷会である方が「乳飲み子を連れてきてお祈りしてもらうメリットがどこにあったのでしょうか?」という質問をされた方があります。なぜ、乳飲み子を連れてきたのか不思議に思うわけです。もちろん、その答えは想像するしかないのですが、こんなにも人気のあるイエス様に触れていただいたら幸福になれるとか、神様の祝福が与えられると考えたのではないかと思います。ルカには書かれていないのですが、マタイの福音書でも、マルコの福音書でも、主イエスが子どもたちに手を置いてお祈りしていることからも分かります。ただ、ルカがここで伝えたいのは、イエス様にお祈りしてもらうという目的ではないので、そのあたりのことを丁寧に書いてはいないわけです。
ルカには、ここで考えさせたいテーマがあります。それは、連れられてきた幼子は、神の国に入れるのか? というテーマです。もっと分かりやすく言うと、救われたいと思っていない人に、神の救いが与えられるのか? ということです。そして、この問いの結論は、「はい」と言える部分と「いいえ」と言える部分があるといえます。
まず、「はい」となぜ言えるか、から考えてみたいと思います。16節をお読みします。
しかし、イエスは幼子たちを呼び寄せて、こう言われた。「子どもたちを、わたしのところに来させなさい。邪魔してはいけません。神の国はこのような者たちのものなのです。」
主イエスはここで明確に、自分で選び取って主イエスの前にきたのではない、しかも自分でよく考えることもできない幼子であったとしても、神の国はそのような人たちに与えられるということを明確にしておられます。
このことは、とても大きなことです。私たちは、救われるために、あるいは信仰を持つためにある程度の信仰理解が必要であると考えています。その点で、幼子は対象外です。「乳飲み子」という言葉からも良く分かるように、まだ乳を飲んでいる子どもが、どのくらいキリスト教の教理を理解できるのか。そう考えると、まったくもってまだかれらは対象外であると考えた弟子たちの気持ちも理解できるのです。私たちも、そのように考える部分があるからです。
今、この教会でも小学一年生の子が、洗礼を受けたいと願っていまして、そのための学びを教師の方々がしてくださっています。毎回、私はその学びがどうだったか聞くのですが、とても積極的に、自分の言葉で自分の受け取っていることを表現しようとしていると聞いて、とても嬉しく思います。もちろん、教会によってはまだ早いので、もう少し理解できるようになってからの方が良いと考える教会もあると思います。
けれども、少なくともこの箇所の主の言葉を聞くと、幼子であったとしても、神の国、神の救いは与えられることを、主イエスがここで語っていてくださっていることがわかります。
では、誰でもどんな人であったとして洗礼を受けられるのか、神の国に入れるのか、救いをいただけるのか。その意味でもう一度整理すると、どんな人でも神の国に招かれているということを答えているのが16節で、次の17節では、ではどういう人が神の国に入れられるのかについて、主イエスは答えておられます。17節をお読みします。
「まことに、あなたがたに言います。子どものように神の国を受け入れる者でなければ、決してそこに入ることはできません。」
ここで、主イエスは「子どものように神の国を受け入れる者」が神の国に入ると言っています。では、この「子どものように」という言葉が何を意味しているのか、そこが重要です。私たちはつい、「子どものようになるべきだ」という考え方をしてしまう場合があります。子どもは純粋だからそういう部分が大事なのだとか、素直さだとか、さまざまな子どもの美徳をここから考えようとする場合があります。けれども、そうすると、誰でも招かれているという16節の言葉がどこかに行ってしまって、結局、「子どものようになれる人だけが」という理解にもなってしまいかねません。
ここで主イエスが言われる「子どものように神の国を受け入れる」というのは、どういうことなのでしょうか? ここで、主イエスが言われる「子どものように」というのは、「何も持っていない者」ということです。「乳飲み子がただ乳を必要とするように、神の国を受け取る者」という意味です。大事なことは、神の国、主イエスが与える救いを受け取るかどうかです。ただ、それだけが、ここで言われているのです。逆に言うと、神の国を受け取ることができなければ、当たり前のことですけれども、神の国に生きることにはならないのです。
子どもの理解ですから、受け止め方はいたってシンプルです。はじめは死後の世界の意味での「天国に入れる」という受け止め方だったかもしれません。あるいは、ただ、神様の話を聞いていたいということだったかもしれません。その神の国の中身については、そのあと、どんどん上書きされていって、信じている内容は更新されていきます。それで良いのです。神の国に入ることができる者というのは、何かとても厳しい条件があるのではなく、主イエスのことを受け止めるところから、はじまっていくのです。
ここまで理解していなければならないとか、あるいは、聖書が自分でちゃんと読めるようになる必要があるとか、あるいは、ちゃんと献金して、奉仕できるようにならないとダメとか、そういうことではないということです。
主イエスは、乳飲み子であったとしても、神の国に招かれるのだと言ってくださるのです。ここには、大きな希望が満ち溢れています。
年老いて、いろんなことが理解しにくくなってしまったというようなお年寄りに対しても、あるいは、病気のために意思の疎通が難しいような状況だとか、まだ小さな子ども、日本語がよくわからない外国の方が教会に来るというような場合も含めて、神の救いはその人たちの前に示されているということなのです。その人がどんな状況の中にあっても、家族や、知り合いが救いを諦める必要はないのだということです。
私は子どもの頃聞いていた話で「天国の福音」は「死後の救い」と受け止めていましたが、今は「今、神が私たちと共に居てくださるという平安」が、神の国の知らせだというようにその理解が変わっています。そして、この神の国には、この岐阜の人や、日本人ということもこえて、ドイツでもアメリカでも、中国でも、それこそロシアであったとしてもそのところにあって、神の国を求める人には示されているのが、この神の救いなのです。難しいことではないのです。本当に、乳飲み子が乳を求めるように、何も持たない子どもがいろいろなものを受け止めていくように、神の国の知らせを受け止めるなら、この神の救いは、私たちに与えられるのです。だから、私たちはこの福音を私たちの周りの人たちに届けていきたいのです。
お祈りをいたします。
