・説教 マルコの福音書6章30-44節「五つのパンと二匹の魚」
2025.07.13
内山光生
イエスは五つのパンと二匹の魚を取り、天を見上げて神をほめたたえ、パンを裂き、そして人々に配るように弟子たちにお与えになった。また、二匹の魚も皆に分けられた。
マルコ6章41節
序論
今日の箇所は、イエス様の行なった奇跡の中でも割と有名なものです。しばしば「五つのパンと二匹の魚」と呼ばれています。そして、この出来事は、マルコの福音書を含め4つの福音書すなわちマタイとルカとヨハネにも同じ内容が記されています。しかしながら、それぞれの福音書記者が強調している部分が少しずつ異なっているのです。
ですから、私たちは「あ、この話は聞いたことがある。」と早急に判断するのではなく、今読んでいるマルコでは、この出来事から何を伝えようとしているのかを読み取っていくことが大切なのです。
最初に結論をお伝えします。マルコによると、5千人の男たちに食事を与えるという奇跡が行なわれる前に、弟子たちを休ませようとしています。つまり、イエス様は人間の肉体の弱さを知っておられ、必要に応じて休息を取ることの大切さを示そうとしています。その流れの中で、大いなる奇跡が行なわれているのです。
イエス様がこの奇跡を行なった目的は、イエス様は人々にみことばを語るだけでなく、人々の肉的欲求、この場合は、お腹が空いている状態をよく理解して下さるお方だということが示されています。そして、イエス様は人間の肉的欲求の一つである腹ペコになっているお腹を十分に満たして下さるお方なんだということが示されているのです。一言で言うとイエス様は私たちの身体に対して配慮してくださるお方なんだという事が示されているのです。
順番に見ていきましょう。
I 休息するよう促した主イエス(30~31節)
30節と31節を見ていきます。
イエス様の使徒たち、すなわち、弟子たちは、二人一組となって伝道旅行に遣わされていました。この旅行は、彼らにとっては自分たちだけで行なった初めての伝道活動であって、かなりの緊張感や不安な気持ちがあったと思われます。また、色々な町や村を渡り歩いたために、肉体的な疲れを覚えていたと推測することができます。
伝道活動を終え、彼らは、イエス様にどのような事が起こったのかを詳しく伝えたのでした。イエス様は使徒たちから一通りの報告を聞くと、すぐに「寂しいところへ行って、しばらく休みなさい。」と命じられたのです。自分たちの周りに多くの人々が出入りしていたので、あまりにも忙しくて食事をとる時間さえなかったからでした。
私たちが伝道活動をする際に、これ程にまで忙しかったならば、かえってうれしい気持ちとなるかもしれません。そして、多少の無理をしてでも人々の要求に応えていきたいという思いが出てくるかもしれません。人々が救いを求めて集まってくることは、神様にとっても私たちにとってもうれしい事だからです。
しかしながら、それでも休息を取る時間を削っていくならば、長い期間、活動を続けることができなくなります。それゆえ、イエス様は使徒たちに対して「しばらく休みなさい」と命じられたのです。使徒たちによる伝道活動は1回限りの事ではありません。この後、何度も何度も繰り返されていくのです。また、イエス様が天に昇られた後も、生涯、続けられていくのです。ですから、イエス様は、奉仕をする時と休む時の区別をしっかりするようにと促しているのです。
教会において、伝道活動をする時も同じような事が言えるでしょう。つまり、自分たちの肉体的な疲れをきちんと回復させることも大切であって、その部分を軽く扱うと、結局は、長続きしない可能性が高くなるのです。
イエス様は、私たちの肉的な弱さをよくご存知のお方なのです。ですから、私たちに対して「肉体の限界まで奉仕しなさい」とは言われないのです。むしろ、「休みなさい」と言って下さるお方なのです。その事を教会全体で共有していくことが、結局は、私たちが喜んで神様に仕えていくための秘訣となっていくのです。
II 休息する暇がなくなる弟子たち ~人々が先回りしたゆえに~(32~33節)
続いて、32節と33節を見ていきます。使徒たちはイエス様とは別に自分たちだけで舟に乗って移動しました。イエス様に言われた通りに、なるべく人がいない場所に移動したのです。
ところが、多くの人々は、イエス様の使徒たちが舟で移動するのを見ていたのです。人々は、恐らく、使徒たちがどの方向に進むのかを予測したのでしょう。そして、使徒たちが行きそうな場所を目がけて、「徒歩で」とありますが、恐らく、早歩きで先回りをしたのでした。これは、想定外の出来事です。せっかく使徒たちが休息を取ろうとしていたにも関わらず、人々がまた大勢集まってきたのです。
イエス様は確かに、伝道活動を終えた後で休息を取るようにと促しています。ただ、現実的な問題として、しばしば、救いを求める人々の数があまりにも多くて、十分に休息を取ることができない、そういう事も起こるんだということがほのめかされているのです。しかし、弟子たちの肉体的限界は近づいています。ここには書かれていませんが、彼らの心の中では「せっかくイエス様が休みを取るよう配慮してくださったのに、これでは休みにならない」と不満な気持ちが出てきていたかもしれません。無理もないことです。人は肉体的な疲れが強くなる時、どうしても、不満な気持ちが出てくるのです。
III 人々に解散させることを提案した弟子たち(34~36節)
34~36節に進みます。
イエス様と使徒たちは、別の舟で移動していました。そして、イエス様が舟から上がって陸地に大勢の群衆がいるのをご覧になり、イエス様は群衆を深くあわれんだのです。イエス様は旧約聖書の民数記27章において、モーセが神様に対して「羊飼いのいない羊の群れのようにしないでください。」と祈っている、その場面を意識したのでしょう。
羊というのは、きちんとした導き手、つまり、羊飼いがいないと危険な目にあったり迷子になりやすいと言われています。羊は2~3メートル先は見ることができるが、しかし、何百メートル先となると見えていないというのです。また、羊は周りの羊の行動の影響を受けると言われています。つまり、正しい方向に進んでいるかどうかの判断力がなく、ただ自分の前にいる羊と同じ方向に進んでしまうです。ですから、前にいる羊が危険な方向に向かっていたとしても、その羊の行く先を知らずに、ついて行ってしまい、ついには、命が危険な状況となってしまう、羊には、そういう性質があるのです。
同じように、人間も霊的な事柄に関しては全く同じことが言えるのです。すなわち、多くのクリスチャンは、正しい導き手がいる時は、健全な信仰を維持することが可能となりますが、一方、導き手がいなくなると、間違った方向に進んでいることに気づけなくなってしまう。ついには、的外れな歩みとなってしまう、そういう危険があるのです。
旧約時代において、モーセが「羊飼いのいない羊の群れのようにしないでください。」と祈ったのは、人々が神様と良い関係を維持するために必要な祈りだったのです。ですから、イエス様も、今、目の前にいる群衆をほっておく訳にはいかなかったのです。そして、霊的な渇きを覚えていて、みことばを求めている群衆に対して、多くの事を教えられたのです。
ところが、すでに食事をとる時間となっていたにも関わらず、群衆は自分たちのところに帰ろうとしなかったのでした。それで、イエス様の弟子たちは、イエス様に対して「皆を解散させてください。」と願ったのでした。この弟子たちの願いは、常識的な感覚に基づくものであって、決しておかしな願いではありません。群衆がお腹が空いていることは明らかであって、それを放置しておくことは良くないことです。また、あまりにも大勢の人々がいるので、自分たちで食べ物を買ってもらうように促すのは当然の事で、自然な流れだったのです。
弟子たちがイエス様に伝えた願いは、極めて普通の発言であって、特に問題があるとは思えれないのです。しかしながらイエス様がこれから行なおうとしているご計画と弟子たちとの考えには大きな隔たりがあったのです。多くのクリスチャンは、日常生活において、普通の計画を立てて、そして、ごく普通の生活を送っていることだと思います。毎日、毎日、特別な奇跡が起こる訳ではないからです。ところが、ごく稀に人間の考えと神様との考えに大きな隔たりがあることが起こるのです。そして、その時、私たちが神様のご計画に同意することができるかどうかが問われるのです。
この場面においては、弟子たちは今までとは違った特別な霊的真理を悟ることが目的として、イエス様による大いなる奇跡が行なわれようとしていたのです。けれども、弟子たちはまだその事に気づいていなかったのでした。
IV 今あるパンの数を確認させた主イエス(37~38節)
37~38節に進みます。
37節でイエス様が弟子たちに言われた言葉「あなたがたが、あの人たちに食べるものをあげなさい。」は、弟子たちにとっては不可能とも思える要求でした。彼らは、直前まで伝道旅行をしていましたし、更には、弟子たち自身もお腹が空いていた状態でした。そのような中で、イエス様から不可能と思われる事を命じられても、素直に応答をすることができなかったのでした。もし彼らが霊的に成熟していたならば、「はい、あなたがそうおっしゃるなら、それが可能となります。」と応えることができた事でしょう。けれども、そういう応答ができなかったのです。
私たちは、この弟子たちの霊的幼さを責め立てることができないのです。というのも、恐らく、私たちが似たような場面に立たされたならば、やはり、素直にイエス様の命じられた事に応じることができないと思うからです。ここに人間の弱さがあるのです。でも、イエス様は初めから、私たちの弱さをご存知のお方なのです。問題なのは、私たちが自分たちの弱さに気づかされた後、イエス様の言おうとしている真理に気づくことができるかどうか、そして、イエス様の命じられたことに応えていこうとする言葉や態度が出てくるかどうかなのです。
弟子たちは、すぐには良い返事ができませんでした。彼らは「私たちが出かけて行って、二百デナリのパンを買い、彼らに食べさせるのですか。」と否定的な反応を示したのです。200デナリと言えば、200日分の給与に相当する額です。仮に一日1万円としても200万円ものお金が必要となるのです。この時、弟子たちは200万円もの大金を持っていなかったのは明らかなことです。だから、弟子たちは「自分たちには、イエス様の言われたことを実行することができませんよ」と言おうとしているのです。
弟子たちは、イエス様の命令に応じることができないとの反応を示しました。これが私たち人間のごく普通の反応です。しかし繰り返しますが、その後、イエス様の言われたことを通して、イエス様が示そうとしている真理が何かについて気づくことができるかどうかが問われているのです。
イエス様は更に弟子たちに言われました。「パンはいくつありますか。行って見て来なさい。」と。すると今度は、弟子たちはイエス様の命じられたことに素直に従ったのでした。ここが大切であって、一度はイエス様の命じらた事に応じることができなかったとしても、次の段階において、イエス様に従うことができるならば、それで良いのです。
さて、イエス様の弟子たちは、言われた通りにパンを持っている人を探しに行くと、「五つのパンと二匹の魚」があることが分かり、それをイエス様の元に持ってきたのでした。
そして、いよいよ、イエス様のご計画通りに、大いなる奇跡が行なわれようとしていたのです。
V パンと魚を弟子たちに配るよう促す主イエス(39~41節)
39~41節に進みます。
弟子たちは、イエス様に命じられるままに、群衆を組に分けて、青草の上に座らせていきました。群衆は100人ずつ、あるいは50人ずつ、と数を計算しやすい人数でまとめられていったのです。
41節で、イエス様はパンと魚を手に取り、父なる神に祈りを捧げています。そして、パンを裂いて弟子たちに渡したのです。その後、弟子たちはパンを人々に分け与えたのです。同様に、魚も弟子たちに渡された後で群衆に与えられたのでした。
最初のパンの数は5つでした。しかし、イエス様から受け取ったパンを弟子たちが群衆に配ると、そこにいたすべての人に行きわたる程に、パンの数が増えていったのです。魚も、元々は2匹しかなかったにもかかわらず、すべての群衆のところに魚が配られていったのでした。
イエス様の行なわれた奇跡は、多くの場合、イエス様お一人で奇跡が行なわれたのですが、今回の場合は、イエス様と弟子たちとの共同作業によって、大いなる奇跡が行なわれたのでした。
では、この奇跡が起こるために必要な要素は何だったのでしょうか。そもそも、弟子たちの心の中には、イエス様が奇跡を起こして群衆にパンを与えるに違いない、という考えはなかったのでした。そうなると、この奇跡は弟子たちがイエス様にはパンを増やす力がある、と確信していたから起こったとは言えないのです。
確かに、イエス様は今までに、弟子たちの前で、病人を癒したり、悪霊を追い出したり、湖の上で嵐を静めたり、様々な奇跡を行なってきました。それらの奇跡は、人間側がイエス様に期待し、イエス様に信頼する信仰があったゆえに起こった奇跡です。一方、人間側が全く予期していない中で行なわれた奇跡もあります。つまり、神様が起こす奇跡というのは、私たち側の期待がある場合とない場合と二通りがあるのです。
今回、イエス様が奇跡を起こす上で大切な要素が何かについて考えていくと、それは最初、弟子たちは「自分たちの持ち金ではとても多くの群衆のためにパンを用意することはできない。」と否定的な反応を示しつつも、イエス様から「パンはいくつあるか見てきなさい」と言われた時に、そして、その後も、イエス様が命じられた事に対して素直に従っていった、そこが大切なのです。つまり、自分たちにできる事を誠実にこなしていくこと、これがイエス様と弟子たちとの共同作業による大いなる奇跡へとつながっていったのです。
今までは、イエス様単独で奇跡が行なわれていました。しかし、イエス様との共同作業によって弟子たちも、奇跡を行なう担い手にさせて頂けたのです。
VI 男5千人が満腹とある(42~44節)
最後の部分、42~44節に進みます。
すべての群衆に十分なパンと魚が配られたという事の裏付けとして、42節に「彼らはみな、食べて満腹した。」とあります。すなわち、例えば、今日の礼拝における聖餐式のような小さなパン切れだけが与えられた、ということではなく、十分にお腹がいっぱいになる程にパンが配られたのです。
それだけでなく、残ったパン切れが12かごいっぱいになったとあるように、本当に人々のお腹が満たされた事が強調されているのです。そして、パンを食べた人の数が「男が5千人」と書かれています。別の福音書では「男だけで5千人」とあるように、これ以外に女性や子どもたちも含まれていたのです。
まとめ
神は私たちに聖書を通して、あるいは、説教を通して、霊的な糧を与え続けるお方です。そして、そのような霊的糧を得ることによって、私たちの日々の生活が守られ、心が喜びと平安で満たされていくのです。また同時に、神は私たちの肉体的な必要を心配して下さるお方なのです。それゆえ、イエス様は、弟子たちが疲れを覚えていることを配慮して「休みを取るように」命じられたのです。更には、イエス様のことばを聞いて霊的な糧で満たされた群衆たちでしたが、彼らがお腹が空いている状態だと分かると、イエス様は彼らに、特別な方法によってパンと魚を与えたのでした。このような奇跡は、いつでもどこでも頻繁に起こることではありません。しかしながら、神は、本当に食べ物が必要な人々がどこにいるのかをご存知であって、しばしば、神様の方法によって、それらの人々のお腹を満たして下さるお方なのです。
弟子たちが奇跡のみわざに携わったように、神のみこころならば、不思議な方法で神は私たちを用いて下さるお方なのです。私たちが「自分たちにはとてもできそうもない」と感じたとしても、自分たちができる事が何であるかをよく考え、それらを実行に移そうとする、それが大切なのです。神様は、私たちが「神様には不可能なことがない」と確信することができるよう導いて下さるお方なのです。信仰とは神に信頼することなのです。
お祈りいたします。
