2025 年 7 月 20 日

・説教 マルコの福音書6章45-52節「主イエスに気づけなかった弟子たち」

Filed under: 内山光生師,礼拝説教 — susumu @ 07:05

2025.07.20

内山光生

みなイエスを見ておびえてしまったのである。そこで、イエスはすぐに彼らに話しかけ、「しっかりしなさい。わたしだ。恐れることはない」と言われた。  

マルコの福音書6章50節

序論

 一般的に言うと、職場における上司や経営側に立っている人の視点から見れば、物事をすぐに吸収する人、仕事を覚えるのが早い人の方が好まれる傾向があるでしょう。また、学校においても、勉強ができると先生や親から褒めてもらえる、そういう現実があるかもしれません。

 少し前までは、古本屋に行くと「効率のいい仕事の仕方」とか「勉強ができるようになるための秘訣」といった種類の本がたくさん並べられていて、私自身もそのような本を手に取って、参考にしていました。けれども、今の時代では、インターネットのユーチューブを見ると、分かりやすく、また、すぐに効果がでるような仕事の仕方や勉強方法が無数にあふれています。ただ、あまりにも情報量が多いので、どれが自分にあっているのかが分からなくなり、無駄な時間を過ごすことになる事もあるようです。また、事実と異なっていたり、いいかげんな情報も含まれていますので、それらを判別するためには、ある程度の経験が必要となります。

 多くの人々は、なるべく早く物事を吸収したいと願っていて、そして、そういう事がうまくできるのが良いことなんだ、そういう価値観の影響を受けているのです。それゆえ、そのような基準で考えると、確かに、職場などにおいても、言われたことを素直にすばやく吸収していく人が良い評価を受けやすい、そういう現実があるのです。

 ところが、私たちの信仰について考えるとき、必ずしも、この世の基準が当てはまるとは限らないのです。誤解を恐れずに言うと、聖書を効率よく読んでいき、そこに書かれていることを吸収するのが早ければ、それがいいことなんだ、とは言えないのです。というのも、ゆっくりかもしれないですが、聖書の教えを着実に実生活につなげていく、そういうタイプの人もおられますし、年齢によってはみことばを吸収する速度が早い時期とそうでない時期があるからです。

 また、人間というのは、そう簡単に自分の中にある罪深い言動が変わっていく訳ではないのです。自分では良くないことだと分かっていても、ついつい、家族に対して、冷たい言葉が出てきてしまったり、相手が不快に感じる言動をしてしまう、誰もがそういう弱さを持っているのです。いや、家族だからこそ、自分の弱さが出てしまうのでしょう。

 実は旧約時代の信仰の父と呼ばれているアブラハムでさえも、神様に出会った最初の頃は決して、立派な信仰者とは言えなかったのです。アブラハムが何度も何度も同じ過ちを犯した事が聖書に記録されているのです。例えば、外国の地において、自分たちの命の危険が迫ってくると、自分の妻のことを「あれは妹です。」とごまかしたのでした。しかも、同じような事を2回繰り返したのでした。ところが、神様は、そのようなアブラハムが年老いた頃には、立派な信仰者へと成長させてくださったのです。

 同じように、イエス様の弟子たちも、何度も何度も、失敗を繰り返したのです。更には、イエス様が捕らえられた時に、皆、一斉にイエス様の元から逃げ出したのです。けれども、イエス様はそんな弟子たちに怒りをぶつけたり文句を言ったりしませんでした。むしろ、彼らが立ち直る事ができるよう祈ってくださったのです。それらの事実を通して、私たちは、神様のふところの大きさに気づかされるのです。

 この世の基準では優等生タイプの人が評価されやすい傾向があります。けれども、神は、霊的な成長が遅い人であっても、決して見捨てないお方なのです。また、たとえ失敗を繰り返す人であっても、何度も何度も赦して下さるお方なのです。

 私たち自身の事を考えてみると、イエス様の弟子たちと同様に心がかたくなになってしまうことがあるかもしれません。また、何が罪であるかを知っていたとしても、自分の行動パターンが変わらない、そういうことがあるかもしれません。しかし、それでも神は決して私たちのその罪深さに対して、諦めたり、見放さないお方なのです。そして、聖霊の導きによって私たちを成熟した信仰者へと導いて下さるのです。

I 弟子たちを先に行かせた主イエス(45~46節)

 45節から順番に見ていきます。45と46節を見ていきます。

 この直前には、イエス様と弟子たちとの共同作業によって5千人の男性にパンと魚が配られたという驚くべき奇跡が記されていました。けれども、この時点でイエス様の弟子たちが、肉体的に疲れ果てていたことは明らかでした。というのも、直前まで、伝道旅行に行っていたからでした。

 イエス様は弟子たちに休息を取るようにと命じられました。ところが、彼らが休息を取ろうとした矢先に、多くの群衆が押し寄せてきたのでした。それで、イエス様は、群衆たちにみことばを語ったのでした。更には、お腹が空いている群衆に食べ物を十分に与えたのでした。それらが終わろうとした頃、イエス様は無理やり弟子たちを舟に乗り込ませたのです

 弟子たちの中には、自分たちが休むことに対して遠慮気味の人がいたかもしれません。でもイエス様は彼らのために、強い意志をもって、舟で移動するようにと促したのでした。これはイエス様の弟子たちに対する愛の現れだと言えるでしょう。そもそもイエス様ご自身も疲れを覚えているはずです。しかし、自分が休むことよりも、弟子たちを先に休ませることを優先させたのです。

 さて、弟子たちがいなくなると、イエス様自ら、群衆を解散させました。その後、イエス様は山に移動し、祈りの時を持ったのです。マルコの福音書には、何度も、イエス様が一人で祈られた事が記されています。これは私たちが伝道活動を継続していくために何が大切なのかが示されています。

 かつての私自身の事なのですが、教会で奉仕をする前に十分に祈るのはごく普通に習慣化していました。ところが、奉仕が終わると、祈ることもせずにただ休息を取るだけ、そういう事を繰り返してしていたのです。そして、だんだん疲れがたまっていき、週の前半は身体全体が重く感じる、そんな生活が続いていました。ところが、ある時、聖書の中に記されているイエス様の姿を見ていくときに、奉仕を終えた後にこそ、一人で神様と祈る時を持つことが大切だということに気づかされたのです。そして、これが霊的疲れを取り除くための秘訣だと感じ、さっそく実行に移すと、予想通りに、奉仕を終えた後こそ、祈った方が良いということが分かってきたのでした。

 今から7~8年程前の事ですが、互いに兄弟と呼び合う程に仲良くなった牧師がいます。個人情報の関係でその人の名前は敢えて伏せておきますが同盟福音とは別の群れで奉仕されている方で5年以上前から子ども食堂を通して地域に仕えている方です。彼は、よく賛美をし、また祈る人です。その牧師は口癖のように、「ただ何かの行動をするだけでなく、とにかく祈ることが大切です。」と言っておられました。私は彼の牧会している教会が地道に色々な活動が続けられているのは、その背後にあって多くの祈りがささげられているからだ、と実感したのでした。

 さて、聖書の箇所に戻りますと、この時点では弟子たちが熱心に祈っていた、という姿はどこにも記されていません。まだまだ祈りの重要性に目が開かれていない状態にあったのです。また、イエス様がどういうお方なのかを悟っておらず、彼らの未熟な姿が明らかにされていくのです。

 私たちは、このような弟子たちの姿に共感を持ったり、安心したりするかもしれません。それはそれで意味のある事です。が、しかし、そんな弟子たちも聖霊の力を受けた後は、まるで別人のように変わっていき、大胆に福音を伝えるようになった事に目を向けていきたいのです。つまり、すぐに私たちが変わることはない、そういう現実を受け止めつつも、しかし、長い信仰生活の中で、神様は私たちの信仰を成長させて下さるに違いない、と神様に委ねていくのです。

 私たちは、自分は簡単には変わらないと思ったり、変わりたいとは思わないと感じるかもしれません。ところが、私たちのうちに聖霊が働く時、イエス様に似る姿に変えてくださる神の力に気づかされていくのです。神様は、私たちの思いを超えて、私たちの人生を変えてくださる、そのようなお方なのです。

II 湖の上を歩いて弟子たちのところに向かった主イエス(47~48節)

 続いて47~48節に進みます。

 時は夕方になっていました。弟子たちは、すでに湖の真ん中辺りまで進んでいました。一方、イエス様は陸地にとどまり続けていました。

 そして時が進み、夜明け頃となっていました。夜明け前というのは、まだまだ暗い状態であって、少し離れた場所にいる人が誰なのかの判断が難しい状態なのです。

 そのような中、弟子たちは向かい風によって、思うように前に進めなくなっていたのでした。その状況を知ったイエス様は、なんと、湖の上を歩いて弟子たちの舟の方に向かったのでした。けれども、その目的は弟子たちを助ける事ではありませんでした。ただ、彼らの様子を見に行くために舟のそばを通り過ぎようとしただけなのです。

 直前において、弟子たちはイエス様と共に5千人の男性に食べ物を与えるという奇跡のみわざに参加することができました。また、それ以前にもイエス様が風を叱りつけると、風が弱くなるという奇跡を体験しました。

 もしも彼らが、それらの奇跡を通して、イエス様がどういうお方なのかを悟っていたならば、イエス様が湖の上を歩いていたとしても、「イエス様は神様だからそういうことも出来るんだ」と素直に受け止めることができたと思うのです。ところが、すべての弟子たちが、まだまだイエス様がどういうお方なのかを悟っていないということが、今回の出来事を通して明らかにされていくのです。

III 主イエスを幽霊だと勘違いした弟子たち(49~50節前半)

 49~50節の前半部分を見ていきます。

 先ほどお伝えしたように、この時はまだ夜明け前です。多少、明るくなり始めていたかもしれませんが、やはり、まだ暗かったと思うのです。その影響もあったのでしょうか。弟子たちは自分たちの舟の近くを通り過ぎようとした物体に気づき、幽霊だと勘違いしてしまったのです。

 無理もないことです。確かに、弟子たちはイエス様には奇跡を起こす力があることを知っていました。けれども、まさかイエス様が湖の上を歩いて自分たちのところに近づいてくるとは、全く予想ができなかったのです。

 ただイエス様は、なにも弟子たちを驚かすために、わざと幽霊のように演じた訳ではありません。イエス様は、向かい風によって苦しんでいる弟子たちの様子を見に行っただけなのです。そして、彼らがしっかりと前に進もうとしているのを確認したら、陸地に戻ろうとしていたのだと思うのです。ところが、イエス様は弟子たちが叫び声をあげて怯えている姿を見ると、彼らが正気に戻るようにと、「しっかりしなさい。わたしだ。恐れることはない」と言われたのでした。

Ⅳ驚きに包まれた弟子たち(50節後半~51節)

 50節の後半と51節を見ていきます。

 人間というのは、自分たちの常識を超えていると感じる、そういう現象を見ると、恐ろしい気持ちが出てくるのです。そして、大きな刺激を受けると、すぐには恐れが消えない、そういうことがあるのではないか、と思うのです。ですから、弟子たちは、目の前にいるのがイエス様だということを、頭では分かったとしても、しかし、すぐには恐ろしい感情が取り除かれなかったのでした。

 さて、マルコがここで伝えようとしている事は、この時点でイエス様の弟子たちは、まだまだイエス様がどういうお方なのかを悟っていなかったんだ、ということです。そして、これが私たち人間の姿なんだという事に気づかせようとしているのです。
 

V 奇跡から悟っていなかった弟子たち(52節)

 最後52節に進みます。

 この箇所には、弟子たちがイエス様だということに気づかずに幽霊だと勘違いしてしまった理由が記されています。それは、直前における大いなる奇跡を体験しつつも、しかし、その事を通してイエス様が神様だという事に気づいていなかった事、そして、彼らの心がかたくなになっていた事が原因だということが記されています。

 今の時代においても、しばしば指摘されることは、人間というのは、たとえ神様が奇跡を起こして下さったとしても、しかし、その出来事だけでは、必ずしも神様のことを信じるようになる訳ではないということです。けれども、心の目が開かれていて、神様がどういうお方なのかを悟っているならば、そういう人は、奇跡を通して、ますます神様との関係が深められていくのです。

 今日の箇所は、ある意味、弟子たちの情けない姿があぶりだされていて、弟子たちにとっては恥ずかしい内容となっています。このようなエピソードは、なるべくならば隠しておきたい、そういう思いが出てきてしまうのが自然だと思うのです。ところが、イエス様の弟子たちは、イエス様が湖の上を歩かれた事と、そして、その時、弟子たちが皆、幽霊だと勘違いしてしまった事をはっきりと覚えていて、そして、弟子たちの口を通して多くの人々に語られていき、その結果、聖書の中にも記録されたのでした。

 そこには大きな意味が含まれているのです。つまり、弟子たちにとっては恥ずかしい出来事だったけれど、その出来事を後で振り返ってみると、イエス様が本当に神様だったということを知ることなった貴重な体験だったということに気づかされたのでしょう。

 神様は、私たちが失敗したと思った出来事でさえも、私たちの信仰の成長のために益として下さるお方なのです。ですから、私たちは失敗を必要以上に恥じるのでなく、それらの出来事を通して神が自分に何を語りかけようとしているかに目を向けていくと良いのです。

まとめ

 多くの人々は、苦しい体験や恐ろしい出来事に遭いたくないと思っています。そして、それは当然の感情だと言えるのです。ところが、神は、私たちの身に起こる苦しい体験や恐ろしい出来事を通して、私たちを霊的に成長させて下さるお方なのです。

 そもそも、弟子たちはイエス様に促されるままに、舟を漕いで移動し始めました。イエス様に言われた通りのことをしたにも関わらず、向かい風によって苦しんだのです。彼らの心の中には、「なんで今、これほど強い向かい風が襲い掛かってくるのか。」と不満な気持ちが出てきていたかもしれません。けれども、人は信仰生活を歩んでいく中で、いつも、安全に、また、何のトラブルもない生活を送れる訳ではないのです。

 それが私たちの人生であって、当たり前と言えば当たり前の事なのです。また、教会がイエス様の福音を伝えようとするならば、必ず、何らかの壁にぶち当たる、そういうものなのです。そして、そういう中にあって、神様との信頼関係を深めていくことが大切なのです。

 多くのクリスチャンは、日々の祈りの中で、生活していくために必要なものをすべて与えてくださいと祈っているのです。また、事故から守られるように、健康が支えられるように、と祈るのです。けれども、それでも、しばしば困難や苦しみが襲い掛かってくるのです。

 そんな時に、一時的に神様に対して不平や不満な気持ちが出てくるかもしれません。けれども、私たちの心が落ち着いて冷静に物事が判断できるようになったならば、今度は、神様が自分に与えてくださっている恵みの一つひとつを思い起こすといいのではないでしょうか。

 そのような事を繰り返していく内に、神様との関係がより深いものへと変えられていくのです。遅くてもいい、何度でも失敗していい、しかし、神様は、私たちを確実に立派な信仰者へと変えてくださるお方なんだという事を覚えたいのです。

 お祈りします。

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