2025 年 7 月 27 日

・説教 ルカの福音書18章18-30節「他者のために生きる人生」

Filed under: 礼拝説教 — susumu @ 08:22

2025.07.27

鴨下直樹

⇒ 説教音声の再生はこちら

 20世紀の終わりに活躍したドイツの神学者で、ディートリッヒ・ボンヘッファーというルター派の牧師がいました。この人は、ナチスドイツのあり方を批判して闘った牧師です。この牧師の言葉にこういう言葉があります。

「教会は他者のために存在する時に、はじめて教会である」

 このボンヘッファーの言葉は、教会がいつの時代にも聴き続けていなければならない大切な言葉です。

 ここで言う教会というのは、会堂のことや、組織のことではなくて、一人一人主イエスに呼び集められた人々のことを指しています。つまり、私たちの毎日の生活そのものが、そのまま教会の姿ということができます。この教会のあり方というのは、いつも社会のあり方とは正反対だと言えます。政治の世界も、経済の世界も、教育も、基本的にはすべて自己のためにあるものです。国の政治はその国のためになされますし、会社の経済は会社のためですし、教育も基本的には自己目的です。もちろん、どの分野も人のために、世のために貢献しようという部分はありますけれども、基本的には自分の方向に向いているのが、社会のあり方です。けれども、教会はそうではなく、他者のためにあるとボンヘッファーは言うのです。

 さて、今日の聖書の中には、一人の指導者が登場します。この人は主イエスにこんな質問をしました。18節です。「良い先生。何をしたら、私は永遠のいのちを受け継ぐことができるでしょうか。

 「どうしたら、この素晴らしいものを手に入れられるでしょうか?」とこの人は永遠のいのちを得るための方法を主イエスに尋ねています。この問いは、いつも姿を変えて私たちの願いとなっています。
「どうしたら健康が手に入れられるでしょうか?」
「どうしたらお金を儲けられるでしょうか?」
「どうしたら素敵な人と出会えるでしょうか?」
私たちの日常的な願い求めは、いつもここにあります。
「どうしたら経済的に楽に生活できますか?」
「どうしたら病気を気にしないでいられますか?」
私たちはこのような問いを持ちながら、その問いの答えを与えてくれる人を探しています。

 すると、ある人は答えます。
「あなたの家の方角が悪い、運気が悪いから向きを変えなさい」
「名前の画数が悪いから、名前を変えてしまいなさい」
「あなたの子育ての仕方が悪い、あなたのお金の運用の仕方が間違っている、あなたの食べている食品が悪いから、もっとこういうものを食べた方が良い・・・」

 そうして私たちは便利になったインターネットやSNSを見ながら、いつもどこかに新しい情報がないかと、ショート動画を探しているのかもしれません。

 けれども、それらの中に込められている答えは、すべてこういうことです。「それは、今あなたの中にありません!」「あなたは答えを持っていないのです!」だから、もっと新しい情報が必要です。もっとこうするべきです。もっと、もっとと、次々に新しい情報に飲み込まれて疲れてしまっているのに、それを止めることができないでいる。私たちは、必要なことを求めているのに、いつの間にかそれらに支配されてしまって、平安を失い、疑心暗鬼になってしまうのです。

 主イエスは、このような問いに対して何とお答えになられたでしょうか。見てみたいと思います。主イエスはこの指導者に対して、先ずこう答えられました。あなたは今、良い先生と言いましたが、「良い」と呼べるお方は「神以外には誰もいませんよ」と。

 この「良い」という言葉はギリシャ語で「アガトス」という言葉です。「尊い」(とうとい)とも訳される言葉です。主イエスは尊いお方、敬うべきお方は神以外におられないではないかと、まずこの質問をした指導者に、誰を見るべきかを明確にしておられます。

 その次に主イエスは、十戒の後半部分である、隣人を愛するという戒めをお伝えになりました。しかしこれは、この質問をした人が前からよく知っていたことでした。つまり主イエスが言われたのは「すでに、あなたはその答えを知っていますよ!」とお答えになられたのです。「それは今あなたのところにない情報だ」と言われたのではなくて、「すでにあなたはそのことを知っている」と言われたのです。

 「永遠のいのち」という素晴らしいものを手に入れるために必要なことを、もうあなたは聞いている、知っているはずだと主イエスはお答えになられたのです。

 すると、その主イエスのお答えを聞いて、この指導者は「そんなことはもうすでにやってきました」と応えます。これもまた、すごいことです。

 「私は少年のころから、それらすべてを守ってきました。」とこの人は21節で応えているのです。、この人は子どもの頃からそれを知っていて、やってきたと自信を持って応えているのです。ということは、もうすでに永遠のいのちを持っているという意味にもなりそうですが、果たしてそれはどうなのでしょうか。

 この主イエスのお言葉の中には大切なことが隠されています。この世界は何かを手に入れるためには「交換」という原理が働いています。何かを得るためには同等の対価が必要なのです。支払った代価に相応しいものと交換するということで、この世界は動いています。

 この人は、十戒の後半の教え、隣人を愛するということを行ってきたと応えました。そうであるとすれば、その対価として永遠のいのちと交換することができるような気がします。どうなのでしょうか。

 ここで主イエスは続けてこう言われました。22節です。

イエスはこれを聞いて、彼に言われた。「まだ一つ、あなたに欠けていることがあります。あなたが持っている物をすべて売り払い、貧しい人たちに分けてやりなさい。そうすれば、あなたは天に宝を持つことになります。そのうえで、わたしに従って来なさい。」

 主イエスは「ではその通りやってみなさい」、「そうしてきたのであればあなたの持ち物をすべて売り払って、貧しい人たちにやりなさい」と言われたのです。

 みなさんは、この主イエスの言葉を聞かれてどう思うでしょうか? 主イエスは、「交換」の代価は「天に蓄えられる」から、永遠のいのちを頂くためにそのことを受け入れて、私に従って来なさいということを言われたのです。

 「教会は他者のために存在する時、はじめて教会である」というボンヘッファーの言葉を初めに紹介しました。教会というところは、ここで主イエスが言われているように、人のためにすべてを与えてしまう人々の集まりなのだというわけです。

 そうなると、私もそうですけれども、はたして自分にできるだろうかという思いになるのではないでしょうか。あるいは、自分はそこまでしていないから、とちょっと不安になるかもしれません。

 主イエスは続けて24節以下でこう言われました。

イエスは彼が非常に悲しんだのを見て、こう言われた。(中略)「金持ちが神の国に入るよりは、らくだが針の穴を通るほうが易しいのです。」

 昔、あるキリスト教書店からこの譬え話の絵本が出ました。綺麗な挿絵の絵本です。ある金持ちの商人がエルサレムの城にやってきたのですが、城門はもう閉じられていて城の中に入ることができません。商人はラクダの背中に沢山の積荷を載せていたのですが、少し見て回ると、「針の穴」という名前の小さな出入り口があることを発見します。

 城の壁に空いたその穴は、見ると、ラクダがひざまずけばぎりぎり入れそうな大きさなのです。そこで、ラクダの積荷を下ろして、その「針の穴」と呼ばれる小さな入り口にラクダを押し込んで何とか城の中に入ったという物語が描かれていました。

 この絵本が出されて以降、この主イエスの譬え話をこの絵本のように理解する人たちが大勢現れました。この絵本の聖書解釈の趣旨は何かというと、荷物を捨ててへりくだったら、神の国に入ることができるということです。けれども、主イエスはそういう意図でこの譬え話をしておられるのではありません。

 27節で主イエスはこう言われます。

「人にはできないことが、神にはできるのです。」

 主イエスはここで「それは人にはできない」と仰っています。自分の力で努力して、ラクダの積荷を下ろして、謙遜になったら針の穴を通ることができるようになるという話ではないのです。ということは、この金持ちの指導者の話も同様です。頑張ればできるようになるという話ではないということを、主イエスはここで話しておられるわけです。

 さて、この話を聞いていた弟子のペテロが主イエスに問いかけます。28節です。

すると、ペテロが言った。「ご覧ください。私たちは自分のものを捨てて、あなたに従って来ました。」

 これもまた非常に興味深い話なのですが、ペテロはこの主イエスの話を聞いて、ピンと来たわけです。「それをやってきた俺ってすごいんじゃね?」という感じです。

 主イエスは、27節でそれは人にはできないこと、しかし、神にならできるのだと言っておられるのに、自分はやってきたので凄いはずだと、こともあろうにここでペテロは主イエスに言ってしまったわけです。

 このペテロの言葉に対して、主イエスは29節と30節で

「だれでも、神の国のために、家、妻、兄弟、両親、子どもを捨てた者は、
必ずこの世で、その何倍も受け、来るべき世で永遠のいのちを受けます。」

とお応えになられました。

 神の国のためにすべてを捨てること、すべてを与えることを通して永遠のいのちを得ると主イエスは言われました。主イエスの仰ることはずっと一貫しています。自分のために求めるのではなく、神のために捨てること、他者のために与えることであると。自分のものとしていく生き方を、改めていく道があると、主イエスはここで言われます。それは、人間の力では成しえないことです。しかし、神にはできるのだと主イエスは言われるのです。

 ドイツにメルセデル・ベンツという車の会社があります。少し前のことですが、この会社は自社の車をコンクリートにぶつけて、安全性を確認するテストを公表しました。その衝撃を吸収するという新技術を公開したのです。するとある人が尋ねたそうです。「どうしてその新技術を特許申請しないのか、他の会社が真似をしているではないか?」と。すると、ベンツの代表者がこう答えました。「人間には独り占めにしてはならないほど大切なものがある」。自己利益を追求する経済の世界の中にあっても、こういう考えがあるということは驚きです。

 しかし、主イエスの福音は、これ以上のものです。事故を起こしてもあなたの体は守られますというものではありません。あなたのいのちそのものを救うというメッセージです。あなたのいのちも、あなたの夫、妻のいのちも、子どもも、親も、友人も。神の国を受け入れる者には誰にでも永遠のいのちが与えられるのだというのが、このルカ18章の語る福音です。それを受けるということは、神にその全てを託して、神に委ねて生きることだというのです。

 ある牧師が引退をされた時に、私は引っ越しの手伝いに行ったことがあります。書斎には沢山の本が並んでいました。長年、共に生活してきた物ですが、すべてを次の家に持ってはいけないので、沢山の物を処分しなければならなかったようです。それで、「あれもいらない」「これもいらない」とゴミ袋の中に一つ一つ入れていきます。しばらく作業を続けていたのですが、その方は大きくため息をついて、手を止めてしまいました。そして、こう言ったのです。「いらない物ばかり買ってきたんだなぁ…」

 その声は何とも寂しそうな声でした。悲しい気持ちに襲われたのだと思うのです。色々な思い出の詰まっている物を捨てなければならないというのは、覚悟のいることです。ですからどうしても厳しい思いになってしまったのでしょう。その牧師の姿を見ながら、私自身も「本当に大切なものってなんだろう」と考えました。

 自分のために求めた物は一時的なものに過ぎないのです。では長年の伝道を続けてそこに何が残ったのかといえば、やはり関わった人たちが主イエスを信じて救われたということに尽きると思うのです。誰かが、神の国に生きるようになる、それに勝るものはありません。そして、そのために必要だったのが、この一つ一つの物だったのではなかったのかとも思ったのです。

 私たちが、晩年にすべてのものを失ったとしても、残っているものがあるとしたら、それは、主イエスが私たちに与えてくださった永遠のいのちです。それは確かなことです。そうであるなら、私たちは誰かのために、この神の素晴らしさを知らせるために生きる存在となることがやはり大切なのだと思うのです。自分の持ち物を増やしても問題はありません。私たちが生きていくために必要な物は必要なものです。それは悪いことでも何でもありません。けれども、それと同時に、私たちは周りの人のために与えることを覚えるなら、私たちの手にしている神から頂いた幸せを少しでも、周りの人に与えていくことになるのではないでしょうか。

「教会は、他者のために存在する時に、はじめて教会である」

 ボンヘッファーはそう言いました。当時のヒトラー率いるナチスドイツと闘いながら、彼はこの思いを晩年まで持ち続けていました。それは「私たちは、私たちの周りの人のために生きる時、それがクリスチャンの生き方である」というのと同じことです。小さななことでも構わないのです。自分のできることから始めたら良いのです。見栄を張って、大きなことをしようとしなくても、自分の力ではできないことも、神様が私たちにできることから始めさせてくださいます。

 主がこの金持ちの指導者に言われた最後の言葉はこうです。22節の最後の言葉です。「わたしに従って来なさい。」主イエスは、難題を私たちに負わせようとしておられるわけではありません。27節ではこうも言われたのです。「人にはできないことが、神にはできるのです。」と。神は、私たちを造り変えてくださいます。そして、愛のわざに生きるものとしてくださるのです。

 お祈りをいたしましょう。

コメントはまだありません

まだコメントはありません。

この投稿へのコメントの RSS フィード

現在、コメントフォームは閉鎖中です。

HTML convert time: 0.174 sec. Powered by WordPress ME