2025 年 9 月 14 日

・説教 コリント人への手紙第二 12章9節「弱さの中にあっても」

Filed under: 内山光生師,礼拝説教 — susumu @ 08:08

2025.09.14

内山光生

しかし主は、「わたしの恵みはあなたに十分である。わたしの力は弱さのうちに完全に現れるからである」と言われました。ですから私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。  

コリント人への手紙第二 12章9節

序論

 今朝、多くの方々と共に「敬老の日礼拝」を奉げることができる恵みを感謝いたします。

 日本においては、元々は毎年9月15日が「敬老の日」で祝日となっていましたが、皆さんご存じのように今から20年程前からは9月の第三月曜日が敬老の日となっています。

 そこで、改めて、敬老の日について調べてみました。どうやら、敬老の日の起源は、1947年に兵庫県のある村で「敬老会」を開催したのがきっかけでした。当時の村長が「高齢者を敬い、知恵を借りて地域を良くしようとした」のが始まりだそうです。

 その運動が全国に広がって行き、ついには1966年に国の祝日として制定され「敬老の日」と呼ばれるようになった、というのです。

 敬老の日というのは、年長者に対する尊敬や感謝な思いを伝えるのに最も適した時と言えます。また、長生きをしている方々にお祝いをする時でもあります。

 一つ曖昧になっている事があります。それは「敬老の日」に祝っていただけるのは、何歳からなのかという問題です。ある人々は、法律上は65歳以上だと考えます。ところが、今の時代においては、多くの場合、65才前後の方々が自分が敬老の日に祝ってもらう対象とは思っていないのが現状です。60代、いや70代前半までは、なんらかの仕事をしている人が増えていて、まだまだ自分は年寄りではない、と考える人が増えているのでしょう。

 5年くらい前に聞いた話ですと、ある自治体では75歳以上に敬老の日の集いの案内が届けられる、との事でした。ところが、最近では、75歳以上だと人数が多すぎるので80歳以上に案内が届くようになった、との情報がありました。お祝いをする施設の収容人数の関係なのでしょうか。その辺りはよく分からないのですが・・・。このように、時代によって敬老に該当する人々の年齢に変化が起こっているのです。補足ですが、礼拝後のゴスペルカフェの昼食は、75歳以上が無料となっていますので、ぜひお残り下さればと思います。

I 高齢者を敬うことの大切さ

 さて、日本における敬老の日は、特にキリスト教の影響を受けた人々によって始められたものではありませんでした。しかしながら、年長者に対する尊敬や感謝な思いを伝えたり、長寿をお祝いする考えというのは、聖書の教えと一致するものです。ですから、多くの教会では、敬老の日に近い日曜日にささやかなお祝いがなされているのです。

 聖書の中の教えの一つに「あなたの父と母を敬え」があります。これは、直接的には自分の両親を敬うことの大切さを教えています。親を敬うことが難しいと感じる方もおられるかもしれません。ただ、この教えを実行していく時、神様は、私たちに祝福を与えてくださると約束して下さっているのです。つまり、親子関係が健全な状態を保つことができる時に、心が平安で満たされ、しあわせだと感じ取ることができる、そういう生活を送ることができるとの約束なのです。

 この聖書の教えと約束は、親子関係だけに限るものではありません。少し広い視点で見ていく時に、自分の周りにいるあらゆる年長者に対して敬意を表すことの大切さを教えているのです。この原則を大切にしていく時、その人々の人間関係が祝福に満ちたものとなっていくのです。

 少し厳しい表現ですが、旧約聖書のレビ記19章32節には「老人を敬い、またあなたの神を恐れなければならない。」と命じられています。この教えから考えさせられる事は、老人の方々を敬うことと神を恐れることは、切っても切り離せない関係がある、ということです。つまり、私たちが聖書が示している神に対して敬意を表しているのならば、同じように、老人の方々に敬意を表すようにと命じられているのです。

 イエス・キリストは、神様を愛する事、隣人を自分自身のように愛するようにと、命じられました。つまりクリスチャンというのは、聖書が示している神を愛するだけでなく、自分の周りにいるあらゆる人々を愛する事を大切にしている人々なのです。ただ、クリスチャンであったとしても完璧な人間ではありません。時には、人を愛することができないと感じることがありますし、人間関係で失敗することもあるのです。そういう中にあっても、聖書の言葉を通して、あるいは、神様に祈っていく事を通して、愛のある行いができるようにと日々努めていくのです。

 今日は、敬老の日という事もあって、私自身の祖母の事を思い出しました。私が小学生の頃、母方の祖母が時々訪ねて来ることがありました。父方の祖父や祖母は他界していましたが、母方の祖母だけは健在だったのです。祖母が来ると小遣いをもらえるのがお決まりとなっていました。それ程高額なお小遣いではなかったのですが、お金がもらえる事、それ自体にうれしい気持ちになりました。私の中には、子どもながらに、祖母は小遣いをくれる良い人、そんなイメージができてしまいました。それに加えて、祖母は孫の私に対して、優しい言葉をかけてくださったり、励ましてくださったりしましたので、とても良い印象が残っています。そのような経験から、私自身が高齢の方々に対して敬意を表すことは当然だと思う、そういう考えが身についていったのではないかと感じるのです。

 私が思うのは、祖父や祖母に該当する人々が、孫や孫のような年齢のお子様に良い印象を持ってもらるかどうかは、根本的には、その子と良いコミュニケーションを取っているかどうか、そこがポイントではないか、と思うのです。孫たちから尊敬されるような、そんな言葉や態度を取っているかどうか、そういう所を幼い子どもたちは、しっかりと読み取っているからです。

 聖書の様々な箇所の中で、年長者を敬うことの大切さが教えられています。そして、若い世代の人々がこの教えを大切にしようとする時、社会全体の人間関係がすばらしいものへと変わっていくのです。

II 健康上の悩み

 さて、人が高齢となった時に、健康面での悩みが出てくると言われています。もちろん、生涯、大きな病気をせずに長寿を全うする方もおられると思うのですが、現実には、何らかの身体の不具合をかかえながらの生活となっていく人が多いのです。

 今から3~4年前、私の父が「肝膿瘍」という病に罹りました。コロナが流行っていた時期でしたので、その病名が判明するまでに多少の時間がかかりました。それまで父は命の危険が迫るような病気にかかった事がありませんでしたが、この時ばかりは「もうどれくらい生きられるか分からない」と家族の皆がそう思っていました。幸いな事になんとか危険な状況を乗り越え、退院することができたのでした。しかし、これをきっかけに私は父の健康面での衰えを強く意識するようになりました。

 私が住んでいます高天ヶ原団地では、かなり多くの人々が毎日散歩をしています。結構、厳しい坂があるにも関わらず、時間をかけてゆっくり歩いているのです。今年の夏は、猛暑日が多かったので少しばかり散歩をする人が減ったように感じますが、それでも、涼しい時間帯を選んで散歩をしている人がいますし、また、若い人でジョギングをしている方もおられます。多くの人々は健康維持のために、日々努力をしておられるのです。

 私自身は、今、52歳ですが、血液検査を受ければ、中性脂肪やコレステロール値が高い結果となり、いつ成人病(生活習慣病)になったとしてもおかしくない状況が悩みとなっています。もう少し若い頃は、「自分が “成人病” にかかるはずがない」「体重なんてすぐに落とすことができる。」と本気で思っていましたが、だからといって何らかの対策をとるわけではありませんでした。

 しかしながら、半年前の血液検査の結果で、数値がかなり悪いことが判明して、それ以後本気でダイエットをすることに挑戦しました。大きな病気になることの恐れが出てきて、なんとかしなければ、との思いが強くなったのです。というのも自分自身が早死にするのは、自分の問題なのですが、家族が迷惑するのではないか、そう思うと、家族のためにも健康のために努力をしないといけない、そういう気持ちが出てきたのでした。

 私たちは、自分の身体が動くうちは、ある程度の努力によって健康を保つ事ができるかもしれません。また、食べ物に気をつけたり、アルコールの飲みすぎに注意する事によって、病気になるリスクを減らすことができるかもしれません。けれども、あらゆる努力をしたとしても、私たちは年齢とともに確実に肉体の衰えが進んでいくのです。この現実を受け止める事は、しばしば簡単な事ではないと言われています。ある人々は、「まだまだ自分は元気だ」と言い張りますが、確実に筋力が衰えていきますし、耳や目に不具合がでてくるのです。

 すでに亡くなられた方ですが有名なお医者さんに日野原先生という方がおられました。一時期、日野原先生の書いた本がブームとなって、すごく売れていた事があります。今からちょうど20年前の2005年頃でしょうか。当時、私が集っていた教会で、日野原先生が講演会に来て下さった事がありました。ご存じのように、日野原先生はクリスチャンでしたので、忙しい中にあっても、教会において聖書の話をして下さったのです。健康の話と聖書の話を織り交ぜて、分かりやすく説得力のあるお話をしてくださいました。その中で日野原先生は「人間を遺伝子レベルで調べると、皆、遺伝子が相当傷ついている。それが普通なんだ。だから、多少の病気があったとしても気にせずに、その状態を受け入れて生活するのが良い」とおっしゃられていました。

 私は、この言葉が心にすっーと入ってきました。「なんだ、病気があったとしても、気にせずに生きる、そういう考えをすればいいんだ」と単純に思ったのでした。私は自分が大きな病気にかかったらどうしようと悩んでいましたが、その話を思い出した時、その悩みがどこかに飛んで行ってしまったのでした。

III 弱さの中にある希望

 ここで今日の聖書箇所について見ていきたいと思います。

 コリント人への手紙第二 12章9節をお読みします。

しかし主は、「わたしの恵みはあなたに十分である。わたしの力は弱さのうちに完全に現れるからである」と言われました。ですから私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。

 これはイエス・キリストの使徒パウロがコリント教会の人々に伝えた言葉です。この時、パウロは何らかの病を抱えていたと言われています。その病が何であったかについては、色々な可能性があります。ある人は、目の病気だったのではないか、と言います。別の人は精神的な病だったのではないか、と言います。しかしながら、どのような病だったかについては、はっきりとした事は分からないと言われています。

 いずれにせよ、パウロはその病のゆえに、日常生活に支障が出るほどに苦しかったということは確かな事でしょう。それで、パウロは神様に対して「この病を癒してください」と祈ったのでした。1回祈っただけでなく、3度祈ったと聖書に記されています。ところが、パウロは3度祈った後で、「わたしの恵みはあなたに十分である。」との思いに至ったのでした。つまり、パウロは自分の病が治らなかったとしても、神様から十分に恵みを頂いている事に感謝をささげる事ができるようになったのでした。

 先ほどお話ししたように日野原先生は、「病があったとしても気にしなくても良い」と言い切られていたのは、もしかしたら、聖書の中のパウロが言っている事を日野原先生なりの言葉で表現されていたのではないかと感じるのです。

 病気のことで苦しいと感じることは人間の感情として、自然に出てくる事かもしれません。しかし、その苦しみで悩み続けていると、今度は別の病になっていく危険があるのです。あるいは、神様に対して怒りの感情が出てきたり、聖書の教えに対して不信感が強くなっていく危険があるのです。人間関係にも悪影響が出てくるかもしれないのです。一方、病を抱えていながらも、神様が自分自身に注いでいる恵みがどれ程大きいかに気づかされる時、天から与えられる喜びで心が満たされていくのです。

まとめ

 人間誰でも、年齢と共に肉体的な衰えを感じるものです。あるいは、まだ若かったとしても、なんらかの病気で苦しむ人々もおられる事でしょう。身体の弱さを覚える時、人の心は一時的に暗くなる事もあるのです。しかしながら、神様が与えてくださっている恵みがどれ程大きいかに気づかされる時、その時、弱さがありながらも、命が与えられている事に対して感謝な思いが出てくるのです。私たちが聖書が示している神様に心を向けていくとき、神様は、その一人ひとりに大いなる祝福を降り注いでくださるのです。

 お祈りいたします。

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