2025 年 9 月 21 日

・説教 マルコの福音書7章14-23節「人から出てくるもの」

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2025.09.21

内山光生

イエスはまた言われた。「人から出て来るもの、それが人を汚すのです。…」  

マルコの福音書7章20節

序論

 猛暑が続いた長い夏でしたが、ようやく涼しくなってきました。朝起きて、家の外に出ると半袖では寒いと感じるようになり、秋だなと実感しております。だいぶ先の行事だと思っていた芥見教会のチャペルコンサートも、数週間後に迫ってきました。先週の木曜日と金曜日に新聞折り込みでチラシが配られているそうなので、チラシを見て教会に足を運ぶ人が起こされることを祈っていきたいと思います。

 さて、前回の箇所では律法学者やパリサイ人たちがイエス様の元にやってきて、イエス様の弟子たちがユダヤ人のしきたりを破って、きよめの儀式を行なっていないことを指摘しました。一方、イエス様は、彼らの問題点を指摘していくのです。その流れの中で、今度は、イエス様が群衆に対して大切な事を教えられました。

 今日の箇所の内容は、読めば理解できるかと思います。けれども、イエス様が言われたことを真剣に思い巡らしていくならば、自分自身の問題と向き合うこととなります。いや、そうなるようにと聖書は私たちを導こうとしています。

 ですから、ある意味、今日の箇所は「厳しい内容」と言えるかもしれません。私たちがイエス・キリストが示した福音を受け入れるためには、自分自身の問題と向き合うことを避けて通ることができないのです。けれども、自分こそが罪人なんだと自覚出来た人は、イエス様の十字架の愛がどれ程大きいかに気づかされるのです。その結果、イエス様がなぜ十字架にかかられたのか、その意味が分かるようになるのです。その結果、「イエス様こそまことの救い主だ」と告白する事ができるようになるのです。また、すでにイエス様を信じている人々は、自分の罪がイエス様に赦されていることに感謝を覚えつつ、十字架には私たちの罪をきよめる力があることに目を向けていきましょう。

I 群衆にたとえを話される主イエス(14~15節)

 では14節から順番に見ていきます。

 先ほどお伝えしたように、今日の箇所の教えはイエス様が群衆に対して語られたものです。イエス様は「わたしの言うことを聞いて、悟りなさい。」と言われました。これは、イエス様が重要な教えを伝える時によく使われる表現です。ですから、聖書を読む私たちも、今から語られる内容は、軽く聞き流すようなものではないことを自覚しながら、読んでいくとよいのです。

 15節でイエス様は言われました。

「外から入って、人を汚すことのできるものは何もありません。人の中から出て来るものが、人を汚すのです。」

 まるでとんちのような内容となっています。ある人々は、すぐに「外から入るもの」が何を意味するかが分かるかもしれません。また「人の中から出て来るもの」についても、すぐに分かるかもしれません。もちろん、それが分かることはイエス様が私たちに伝えたい事を悟るための最初のステップとして必要なことです。しかしながら、たとえその意味が分かったとしても、それだけでは、イエス様の意図が何であるかが分からないのです。たとえ、「こういうことではないか。」と推測したとしても、色々な可能性が出てくるだけであって、それがイエス様の伝えようとしている事だとは限らないのです。

 恐らく、どれだけ知恵がある人だったとしても、イエス様による解説がなければ、イエス様が何を伝えようとしているかを悟ることができないのです。イエス様は、しばしば、たとえを用いて大切な事を教えられました。その中には、分かりやすいものもあれば、そうでないものもあったり、心にすっと入ってきやすいものもあれば、あまりピンとこないと感じるものもあって、すべてが理解しやすいとは限らないのです。

 ただ言えることは、本当の意味でイエス様のことばが私たちの心の中に入っていく時に、私たちの考え方に影響を与え、私たちの考え方が変えられていき、更には、言葉や態度に変化が起こる、そういう事が起こるのです。14節で「わたしの言うことを聞いて、悟りなさい」とイエス様が言われた通りに、みことばから悟ることができる時に、何らかの変化が起こるのです。

II たとえの解説~その1~(17~19節)

 17~19節に進みます。

 17節でイエス様の弟子たちは、群衆がいない状態となった時に、イエス様が言われた教えがどういう意味なのかを尋ねたのでした。イエス様から色々な教えを聞いてきた弟子たちでしたが、今回の内容は、どうも理解する事ができなかったのです。でも、それは当然の事だと思うのです。

 ところが、18節において、イエス様から返ってきた最初の言葉は、とても厳しい内容となっています。18節でイエス様は「あなたがたまで、そんなにも物分かりが悪いのですか。」と言われたのです。もしかしたら、イエス様は、解説がなくても当然理解できるものだと思っていたのでしょうか。いや、それとも弟子たちが理解できていないのを重々承知の上で、敢えて、厳しく接しているのでしょうか。

 その辺りは分からないのですが、ある人々は、もっと優しい言い方をしてほしいと思うかもしれません。いや別の人は、厳しく言ってもらえることは自分たちが期待されている証拠だと前向きにとらえるかもしれません。いずれにせよ、このイエス様の口調は、私たちの心の中に残るインパクトのある言い回しだということは確かな事でしょう。ですが、今の時代において、私たちが誰かに何かを教える時にイエス様のように「あなたがたまで、そんなにも物分かりが悪いのですか。」と、こんな言い方は避けた方が無難だと思うのです。これはイエス様と弟子たちとの信頼関係があって成り立っている言葉だからです。

 さて、イエス様はご自身の言われた教えの解説をしていきます。19節において、「腹に入り、排泄されます。」との説明がなされています。その事から、弟子たちは「あ~、食べ物のことを指している」ということを理解することができたのです。そして、その意味するところは、「すべての食物はきよい」ということを伝えようとしていたのです。

 旧約聖書の時代では、神はイスラエルの民に対して、「きよい食べ物」と「きよくない食べ物」を分類しました。羊や牛はきよい食べ物とされていましたが、豚はきよくない食べ物とされていました。それで、イスラエルの民は、決して豚肉を食べなかったし、豚の世話をすることすら避けていたのです。それ以外にも、食べていいものとそうでない物が細かく分類されていて、人々は、その教えをしっかりと守っていたのです。

 ところが、イエス・キリストは、この旧約聖書の食べ物に関する教えを否定するかのような事を教えられたのです。どういう事なのでしょうか。確かに、神はイスラエルの民に対して、「神の聖さがどういう事なのか」を教えるために、食べて良いものとそうでないものとを分類して、それを守るように命じられました。そしてこの本当の意味は、「神の聖さ」と「人間の罪深さ」を私たち人間に悟らせることが意図されていました。つまり、それらの食べ物に関する規定を守ったから、天国に行けるとか、守らなかったら天国に入れてもらえないという事ではなく、あくまでも、神が聖いお方だということを人間に知らしめる事が意図されていたのです。

 この神の意図が何であるかを知ることが大切であって、新約時代においては、イエス・キリストは、もはや旧約時代の食物の規定は、行なわなくてもよいと教えたのです。このことは、旧約時代の教えを守ってきた人々にとっては、すぐには頭のスイッチを切り替えることができなかった事が別の聖書箇所に記されています。旧約の教えが背景となっていない私たち異邦人にとっては、大した問題とはならないのですが、少なくとも、当時のユダヤ人にとっては、イエス様が「すべての食物をきよいとされた」との教えは、受け入れがたい内容だったのです。

 繰り返しますが、旧約時代の食物の規定は、人々が神様の聖さを自覚するために必要な教えでしたが、しかし、イエス様が地上に来られた後は、もはや、それを守る必要がなくなったのです。なぜなら、神様が願っている大切な事は、私たち一人ひとりが「神様がどれ程、聖いお方か」を自覚することであって、更には、「私たち人間の罪深さ」に気づく事、そこがポイントとなっていたからです。

 実の所、私たちが自分の知恵を使ったとしても、何らかの努力をしたとしても、神の聖さや人間の罪深さを悟ることはできないのです。聖霊が私たちのうちに働くとき、その時、私たちは本当の自分の姿に気づかされ、そして、神様がどれ程聖いお方かを悟ることができるのです。

 イエス様は「悟りなさい」と命じられましたが、これは聖霊が働くときに「悟りが与えられる」という意味として受け止めていけばよいのです。自分の悟りに頼るのではなく、神が私たちに悟ることができるよう導いて下さるのです。

III たとえの解説~その2~(20~23節)

 続いて、20~23節に進みます。

 ここからが私たちにとっての「厳しい内容」となっています。イエス様が言われた「人から出て来るもの」とは、単純に「人の口から出てくる言葉のこと」を指しています。私たちが聖書の教えに触れる時、イエス様の光に照らされて「優しい言葉や相手の慰めになる言葉、励ましとなる言葉」が自然と出てくることがあるかと思います。自分では、そういう自覚がなかったとしても相手にとっては「良かった」と思える言葉が出て来ることがあるのです。

 一方、その口から悪い言葉が出て来ることもあるのです。神様を信じていて、神様を愛していて、神様の教えに従いたい、そういう思いがありながらも、しばしば、悪い言葉が出てきてしまうのです。それらが、「人を汚す」と指摘しているのです。

 多くのクリスチャンは、しばしば家庭の中において、あるいは、学校や職場の中において、相手を傷つける発言をしてしまった事で、「あんな事を言わなきゃよかった」そういう経験をしていると思うのです。私自身も、毎日ではないにしても、時々、家族に対して、もっと優しい言い方をすればよかったと思う事があります。けれども、そういう感覚があったとしたら、それは聖霊が働いている結果であって、むしろ、神様との関係が健全である、と言えるのです。

 一方、神様を信じている人が、聖霊が語りかけている内なる声を故意に無視し続けると、問題発言をしているにも関わらず、その事が良くないという事が自覚できなくなっていきます。ですから、自分の口から出た失言に対して、「あ~あんな事を言わなきゃよかった」という感覚がある内は、まだまだ聖霊の語りかけが聞こえている状態なので、回復していく余地があるのです。

 ただ、私たちは過去に犯した自分の失言で、心が苦しい思いとなる、そして、その事を思うときに「自分は駄目な人間だ」と感じて、自分で自分を責めてしまうことがあるかもしれません。多くの人は、自分を責めすぎてしまい、その結果、神様に心から感謝をささげる事が難しくなっていく、そういう事が起こるのです。

 しかしそういう時にこそ、イエス様の十字架を仰ぎ見ることによって「すでに、それらの罪はイエス様によって赦されているんだ」と確信することが大切なのです。イエス様は、私たちがどんな罪を犯したとしても正直にそれらの罪を告白する時に、すでに赦されているとの確信を与えてくださるお方なのです。そこに立つことができる時、私たちは自分の罪深さで心が暗くなっていく状態から抜け出すことができるのです。

 自分の口から出てしまう失言、これは敏感になりすぎてもいけないし、反対に鈍感になりすぎるのもよくない、つまり、両極端にならないよう注意をし、イエス様の十字架に目を向けていくことができると良いのです。そのための助けとして聖餐式があるのです。

 21節後半から22節には、口から出てくる言葉による罪のリストが記されています。これらは、私たちが何が「罪深い言葉」なのかを自覚させる事が目的となっています。

 私も含めて罪深い人間は、自分の言っている事は正しいのだから、これぐらい言っても大丈夫なんだと思い込んで、ついつい言わなくてもよいことを言ってしまう、そういう事があるのです。それは自分自身の問題にとどまらず、周りの人を不快な気持ちにさせるという点で、イエス様が「人から出て来るもの、それが人を汚すのです。」と言われたように、本当の事なのです。

 けれども、このイエス様の指摘は、多くの人々にとっては図星であるがゆえに、非常に厳しい言葉のように感じてしまうのです。聖書の教えは、その意図するところをきちんと捉えることができると私たちにとって益となります。一方、「自分は駄目な人間だ」との思いが強くなるならば、かえって害となる事があるのです。

 イエス様が言われた事は真実な言葉であって、私たちが神の国の一員として生きるために必要な教えです。そして、それを素直な心で受け止める時、神様を信じていて良かった、と感じ取ることができるのです。けれども、聖書の読み方を間違えると、自分を苦しめるものとなりかねないのです。

 私は今までの教会での奉仕の経験から、一定数の人が聖書の言葉によって、自分を苦しめている現象を見聞きしてきました。一方、その反対に、それ程多くはありませんが、聖書の教えを軽く考えている人々がいることも見てきました。

 それらを解決するためには、聖書の教えをどのように伝えていけばいいのだろうか。これが私にとっての大きな課題でした。そういう事を長い期間、思い巡らした上で、ある事に気づかされました。それは聖書箇所の一部分だけを抜き取って理解しようとするのではなく、その箇所で聖書が言おうとしている本質が何であるのか、その部分を丁寧に伝えていく、そういう必要がある事に気づかされたのです。

 イエス様が、私たちにとって心に刺さるような「悪い言葉の背後にある問題」をリストアップしたのは、どういう考え方が罪なのかをはっきりと指摘しないと、私たちが自分の問題に気づくことができないからなのです。

 注意すべき事は、イエス様は「あなたは罪びとだから、駄目な人間です。」と宣言するためにこのようなリストをあげたのではありません。むしろ、「そのような罪深いあなたのために、イエス様が十字架にかかったんですよ」ということに気づかせようとしている、そこを読み取ることができるかどうかなのです。

 しばしば旧約聖書の中のモーセの十戒は言い回しが厳しい、もう少し優しい言葉遣いの方がよいのではないか、と言われることがあります。確かに今の時代の私たちにとっては、厳しい内容のように感じるのです。しかしながら、その厳しさの中にあって、神の守りと導きがある事に気づかされる時に、すばらしい教えだと受け止めることができるのです。

 今日のこの箇所は、私たちが心の中で悪い考え方をしていると、結果的に罪深い言葉が出てくると指摘されています。それが人を汚すがゆえに、そのままの状態でいることは良くないことだということが分かってくるのです。けれども私たちは、自分の中にある汚れを自分の努力によって取り除くことはできません。多少の事はできたとしても、部分的にしか取り除けないのです。しかしながら、イエス・キリストはそれらの罪をすべて赦してくださり、更には、罪を聖めて下さるお方なのです。

まとめ

 私たちの口から出る汚れた言葉、そのような発言が出ないようにするためには、あるいは、減らしていくためには、自分の発言の背後に、つまり、心の中にどのような罪が隠されているかに気づくことができるかどうかにかかっているのです。いや、聖霊の光によって気づかせていただけるかどうかにかかっているのです。

 誰かに対して威圧的な発言をしてしまう背後には、必ずと言っていいほど「高慢の罪」が隠されています。しかし、その自分の心の中にある高慢の罪に気づかされて「神様、私の心の中には高慢な罪がありました。どうか、この罪をイエス様の十字架によって赦してください。また、この罪を聖めて下さい」と祈ることによって、自分の心が作り変えられていくのです。

 ついつい話を盛ったり、故意に事実と異なることを言ってしまう人というのは、その人の心の中にある「欺き」という罪が、隠されているからだと言えるのです。しかしながら、聖霊の光に照らされ、自分の心に人を欺く罪がある、ということに気づかされるとき、真実な悔い改めへと導かれていき、更には、それらの罪が聖められていくのです。

 私たちが自分の罪を告白し、祈ったとしても、すぐには変化が起こらない場合もあるかと思います。反対に、急激に罪が聖められていく経験をする方もおられます。いずれにせよ、私たちがイエス様の十字架は「罪の赦しと聖める力がある」との確信を持って、神様に祈り続けていくことが大切なのです。

 多くの人にとって、自分の心の中にある罪と向き合うことは、決して、易しいことではありません。しかし、聖霊が私たちの内に働くとき、それらの問題と向き合うことができる力が与えられるのです。

 神は私たち一人ひとりが、互いに愛のある関係を築くことができるよう導いておられます。そのためのステップとして、私たちの中にある汚れを取り除こうとしておられるのです。

 お祈りします。

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