・説教 ルカの福音書19章11-27節「王様の視点、しもべの視点」
2025.09.28
鴨下直樹
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みなさんは、仕事を誰かに頼まれると、先に終わらせてしまうタイプでしょうか? それとも、ギリギリまでやらないタイプでしょうか? こういう質問をすると、いろんな答えが返ってきそうです。もちろん、先延ばしにするよりは、すぐにやった方がいいと多くの方は考えると思います。自分でも言いながら、みなさんの視線が痛いような気もしてきます。誰がそれを言っているのだと。
たぶん皆さんの家庭には今、国勢調査のアンケートが届いていると思います。もうすでに終わらせてしまった人と、まだ終わらせていない人といると思います。10月8日が最終締め切りだそうです。まだの方は、まだあと1週間ありますのでご安心ください。
先延ばしにする人の場合「しなければならない用事というのは、いくつかの優先順位がある」そんな考え方で、重要度によって分けているという人もあると思います。いろんな考え方があると思うのですが、しなければいけないことを後まわしにする人にも言い分があります。「直前に何かの事情で、やらなくても良くなる場合もあるので、様子をみている」という意見です。「なるほどな」と私も思います。私はどちらかというと、そのように答える人の気持ちがよく分かるタイプです。
私はというと、ご存知の方も多いと思いますが、「以前は」最後までやらない人間でした。夏休みの宿題も最後の日にラストスパートをかけるタイプです。けれども、実は芥見教会に来てから少し考えを改めました。十数年前のことなのですが、水曜の祈祷会の時に、長老と何かのことで相談をしたのです。もうその時すでに夜の10時頃だったのですが、長老は躊躇なくその場で電話をかけて、あっという間に、その要件を済ませてしまったのです。私なら、明日の朝電話をしようと思いながら、つい電話をかけ忘れてズルズルいくパターンが多いので、この時の長老の姿に私は衝撃を受けました。仕事ができる人というのは、こうも軽やかなのかと感動したのです。もちろん、改めたと言っても、誰も信じてくれないかもしれません。なぜなら今でも昔の癖が抜けきらず、ギリギリまで延ばしてしまうことも多々あるからです。ですが、気持ちとしては、できるだけ早めに終わらせようと思うようにはなりました。はい、信じるか信じないかはあなた次第です。
どうしてこんな自分の首を絞めるような話から始めたかと言いますと、今日の聖書の話は主イエスのなさったミナの譬え話です。ある身分の高い人が10人のしもべに「私が王様に任命されるために留守にしている間に、一人1ミナで商売をしなさい」と命じて出て行ったという譬え話なのです。1ミナというのは、だいたい100万円くらいと考えていただいて良いと思います。
そこで、10人のしもべたちは主人が帰ってくるまでに、そのお金を使って商売をしたわけです。当然、うまくやった人もいます。うまくできなかった人もいるわけです。すぐに商売に取り掛かった人もいたでしょうし、入念に計画を立てていた人もいたと思います。まだ時間があるから大丈夫と、のんびり構えていた人もあったと思うのです。ここで求められているのは「商売」という能力です。仕事の能力というのは個人差がありますから、誰もが商売上手とも言えません。商売ですから、失敗する可能性も大いにあるわけです。そういう中で、どう振る舞うのが正解なのか、そこには人の数だけ正解がある気もします。
さて、11節を読むと、この譬え話の前提が記されています。
人々がこれらのことばに耳を傾けていたとき、イエスは続けて一つのたとえを話された。イエスがエルサレムの近くに来ていて、人々が神の国がすぐに現れると思っていたからである。
前回はザアカイの話でした。ザアカイはエリコの町に住んでいる人です。この町はエルサレムの玄関とも呼べるような場所にあります。もう間もなくエルサレム、イスラエルの首都に主イエスが入られるのです。
それで、人々は、いよいよ何か始まるという期待感を膨らませていたようです。何かが始まるというより、ここには、はっきりと「神の国がすぐ現れると思っていた」と書かれています。ということは、主イエスがエルサレムに入られた時には、自分たちの国を支配しているローマを追い出すために、いよいよメシアとして立ち上がってくださるのではないかという期待感が膨らんでいたわけです。そんな人々をご覧になりながら、主イエスがその人々に向けて話をされているのが今日のところです。そして、このミナの譬え話をなさったのです。
ここで私たちがよく理解していないといけないのは、エルサレムに近づかれるということの意味です。人々は浮かれながら、何かが起こると期待しています。けれども、主イエスにしてみれば、死が間近に近づいているということです。この、人々の思いと、主イエスの思いの隔たりの大きさがここでの大きな差となっているのです。
譬え話自体は、それほど難しい話ではありません。一人1ミナ、約100万円を10人のしもべに与えて、主人は王位を授かるために出かけて行ったのです。ここでまず、考えなければならないことがあります。というのも主人が王位を授けられるために遠い国に行くということの意味が、私たちにはピンときません。そこからまず考えてみたいと思います。
どの聖書学者もこぞって言及しているのは、紀元前37年にローマ皇帝からユダヤの王として任命されたヘロデ大王の跡目争いの出来事です。このヘロデ大王は、紀元前37年から紀元前4年までユダヤの王として在位し、主イエスがクリスマスにお生まれになった時に、ユダヤ人の子どもの大虐殺をした人として知られています。けれども、悪いことばかりをした人というわけでもありません。このヘロデ大王は、エルサレムの神殿を建て直したり、ローマからユダヤの人々を守るために政治的に尽力したりと、ユダヤ人のために非常に大きな貢献をした人でもあります。
このヘロデ大王には3人の息子がいました。ヘロデ・アルケラオスと、ヘロデ・アンティパス、ヘロデ・フィリポスです。ヘロデ大王は初め長男のアルケラオスにユダヤの全域を任せると遺言しますが、のちに撤回して、3人の息子たちに分けることになります。ところが、父ヘロデ大王が死んだ時にアルケラオスはローマに使者を送って、自分がユダヤの王になるための申請をします。しかし、ローマはこれを認めませんでした。というのは、ユダヤ人たちが55人の使節団をローマに派遣して、アルケラオスが王となることに反対したからです。この話が主イエスの譬え話の背景にあるというのです。
ただ、ここまで説明しておいてなんですが、このアルケラオスの話は実際にはこの譬え話にそれほど大きな意味は持っていないと私には思えるので、そんな話が当時あったんだなくらいに理解しておいてくだされば、それで問題ありません。というのは、このアルケラオスというのは、悪い人物であったゆえに、当時のユダヤ人たちが反対していたのであって、14節や27節の、王の即位に反対していた人を理解する時に、この王が悪い王だったのではないかと考えると、この譬え話の理解が混乱してしまう可能性があるからです。
もう一つ、ついでにお話をしておくと、マタイの福音書にタラントの譬え話というのがあります。3人のしもべに、それぞれ5タラント、2タラント、1タラント預けた主人の譬え話です。このミナの譬え話は、これとモチーフが似ていますので、混同してしまう人がいると思いますが、それもここでは忘れてもらって大丈夫です。このミナの譬え話は、ミナの話として独立させて理解する必要があります。
さて、そこで考えたいのは、王位を授かるために遠くに旅立っている間に、しもべたちに一人1ミナずつ託して商売をするようにと命じた主人の意図は何かということです。そこで考えられるのは、自分が王となって戻ってきた時に、広大な支配地を治めるために、役立つしもべを見極めたいということでしょう。将来自分の部下として大切な使命を託すために、誰が役に立つしもべかということを見ておきたいわけです。
そうすると、ここに呼ばれた10人のしもべたちは、ある程度見込みがある人物10人ということになります。少なくともこの後の14節に出てくる、王になることを反対するような人物たちではないはずです。主人はこの自分のしもべたちを信頼して、1ミナ、約100万円を託したのです。
では、その時のしもべたちの気持ちはどうだったのでしょうか? 最初に言ったように、個人には能力差というものがあります。こと「商売」というジャンルは、誰もが得意とも言えません。託された方は託された方で、いろんなことを考えると思うのです。これは大変なことを頼まれてしまったと考える人もあるでしょう。あるいは、これは千載一遇のチャンスと捉える者もいたと思います。また、自分のことを主人は期待してくださっているのだと喜んだりもしたはずなのです。
ここからが問題になるわけですが、この譬え話の主人としもべたちの関係と、主イエスと私たちの関係を考えてみると、私たちは今この譬え話とまったく同じ状況に置かれているということが、お分かりいただけるでしょうか? 私たちは今、主イエスが天にあげられている中にあって、主人がいない間にそれぞれ等しくチャンスを与えられて、やがて主イエスが王位を授かって戻って来られるまでの間、主人の期待に応えられるかが問われているのです。
私たちにとってこの譬え話は、主イエスがおられた聖書の時代とも同様です。いよいよエルサレムに主イエスが入城されるという状況と、これからのち主イエスが再臨されるという、今私たちが置かれている状況は、同じ状況であると言えるわけです。そうなると、少しここからの読み方が変わってくるのではないでしょうか?
当時の人々は、もう間もなく神の国が来るという期待感の中で、自分たちが、その恩恵に与かれることだけを考えていたに違いありません。そんな人々に向かって、主イエスは語りかけておられるわけです。それは「あなたは、わたしのしもべなのか?」という問いです。
というのも、この譬え話には、もう一種類の人々のことも描き出されています。それが、「敵」として描き出されている人たちです。14節です。
一方、その国の人々は彼を憎んでいたので、彼の後に使者を送り、「この人が私たちの王になるのを、私たちは望んでいません」と伝えた。
この主人のことを誰もが好きだったわけではない。そうすると、しもべとしては考える必要が出てきます。この主人に従って行っても良いのか、それとも、別の主人を探すべきなのか。私たちには、自分で考え、自分で決断する自由があります。
主イエスが私たちに「あなたは、わたしのしもべなのか?」と問われるのと同じように、私たちも主人に問うのです。「あなたのしもべになって本当に大丈夫でしょうか?」と。そこで、重要となるのは主人の人柄です。信頼に値する主人なのかどうか、それは私たち自身が、自分で見極めなければなりません。私たちは義務的に従わせられているのではないのです。
主人は、私たちに宿題を出しておられます。それは、「わたしが王位を受けて戻ってくるまでに、わたしが預けておいたもので商売をしないさい」という宿題です。
スヌーピーという犬を主人公した漫画があります。日本のものではなくて、アメリカの作品です。知らない人はあまりいないくらい有名だと思います。この漫画に登場する主要人物にルーシーという女の子がいます。ルーシーがある時、スヌーピーにこう言います。
「時々私はどうしてあなたが犬なんかでいられるのか不思議に思うわ」と。すると、スヌーピーがこう答えるのです。
「配られたカードで勝負するっきゃないのさ、それがどういう意味であれ」と。
なんでもないセリフですし、私はスヌーピーの漫画をそんなに読んだこともないのに、どういう訳だか、このセリフだけが頭の中に残っています。とても、説得力のある言葉だからなのかもしれません。
さて、主人が王位を授かって戻ってきます。いよいよ、しもべたちの成果を発表する時が来たのです。
一人のしもべは自信を持って答えます。「1ミナを10ミナに増やしました。」そして、もう一人が答えます。「私は5ミナに増やしました。」そんな立派な答えを、自信を持って答えている人たちを見ると、自分なら萎縮してしまうかもしれない、そんな考えを持つ人もあると思います。そんな中で、一人のしもべが答えます。20節と21節です。
「ご主人様、ご覧ください。あなた様の一ミナがございます。私は布に包んで、しまっておきました。あなた様は預けなかったものを取り立て、蒔かなかったものを刈り取られる厳しいお方ですから、怖かったのです。」
私が、その場にいたら、きっとこの人を見て少しホッとしたと思います。「ああ良かった! みんなが完璧じゃないんだ…」と。でも、主人はこのしもべの言葉を聞いて悲しくなって、怒ってしまいます。それはそうです。主人のことをケチな人で、厳しく怖い人だと思っていたというのです。
主人をどう見るかというのも、もちろん人それぞれです。ですが、少なくともこのしもべは主人から期待されていたしもべだったはずなのです。もしかするとこのしもべは、仕事を後回しにするタイプの人間だったのかもしれません。そうだとすると少し同情するのですが、どうもそういうわけでもなさそうです。このしもべはこの主人のしもべであるということを、あまり喜んでいなかったのです。主人のことをあまり良い主人だと思っていなかったということは、この答えから明らかです。
大切なのは、自分の主人の姿は自分でしっかりと見極めることです。親が決めた主人でも、誰かにしもべをやらされているわけでもないのです。
10ミナ儲けた人や、5ミナ儲けた人は、きっと精一杯この主人のために自分ができる限りのことをしようと思ったから、成果を出せたはずです。きっとミナを預けられた時に、このしもべたちは顔がほころんで、嬉しかったに違いないのです。自分は10人のしもべに選ばれた。選ばれたどころか、こんな大金までも任されたんだと。それが、その時のしもべたちの姿だったと思うのです。
しかし、私にとって興味深いのは残りの7人のしもべがどうだったのかが、ここには書かれていないことです。祈祷会で話した時に「中にはそのお金でギャンブルをして一攫千金を狙った人もいたかもしれない」と言った方があって、みんなで笑ったのですが、中にはそういう人もいたかもしれません。誰もがうまくいくとは限らないのです。失敗するリスクも当然あるのです。
ある牧師の説教を読んでいたら、こんなことを書いている人がいました。「どうして、一人で頑張ろうと思ったんだろう、他の人と協力すればいいのに、10人で助け合えば、主人からしたら、そんな協力し合えるしもべたちを誇らしく思っただろうに」と。私は、これを読んで、まさに目から鱗でした。なるほどそういう考え方もあるのかと感心しました。発想の転換です。
確かに、自分一人ではリスクが大きいかもしれない。けれども、その主人のことが大好きな人たちが10人集まれば、少しは力強く感じるのかもしれません。力強く感じるどころか、いろんな可能性が見えてくるはずです。
教会というところは、個人戦で戦うところではありません。どちらかというと、団体戦です。みんながプレイヤーというわけでもありません。プレーする人もいれば、サポートする人もいます。作戦を考える人もいれば、アイデアを出す人もいる。けれども、きっとそんな姿を主人は喜んでくださる。私たちの主人は確かにそんなお方なのです。
こうして、私たちは協力しながら主人から託された10ミナを10人で、30人で30ミナを、100人で100ミナを使って主人の望むことをしていけば良い。大切なことは、大成功することではありません。主人を喜ばせることが何よりも大切なことだからです。
今日の説教題を「王様の視点としもべの視点」としました。この聖書の箇所は、このことに目がいくかどうかが重要だと考えるからです。私たちは、どうしても私たちの側からしか物事を考えられないという傾向があります。そうすると、自分に出された課題は、自分一人で乗り越えなければならないと考えてしまいがちです。隣を見ては焦り、うまく行っている人を見ては羨み、妬んでしまう。しかし、主イエスがもたらそうとしておられる神の国は、そういう所なのでしょうか? 神が真ん中におられて、神の思いが支配する世界、そこでは、神を愛し、隣人を愛する世界、それが神の国です。そうであるならば、お互いに支え合えば良い。私たちの主人は、私たちたちに期待をしていてくださるお方です。「わたし〈たち〉」にです。そうであるなら、私たちは互いに喜んでこの主にお仕えし、ともにこの主人がおいでになるまで、私たちのするべき役割を果たしていけば良いのです。
お祈りをいたします。
