2025 年 9 月 7 日

・説教 ルカの福音書19章1-10節「見つけ出される喜び」

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2025.09.07

鴨下直樹

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 今日の聖書の箇所は取税人ザアカイの話です。ザアカイの話というのはとても有名な話ですけれども、ルカの福音書にしか書かれていません。ところが、このザアカイを取り上げた説教は沢山あります。その中でも、いくつかの説教を読んだのですが、私が心惹かれたのは旧約聖書学者の左近淑先生の説教で、とても心に残りました。どんな話かというと、牧師の家で飼っていた犬が迷子になってしまったという話なのです。

 その家にはスキピーという大きな犬がいたそうです。毎朝家の前を通るジョギングの人たちに向かって、家の囲いに足をかけてワンワン吠える。その牧師曰く、「がんばれ! がんばれ!」と吠えているのだそうです。ところが、ある日、この犬がいなくなってしまいます。1日がかりで探しても見つかりません。都内近隣の保健所やペットショップに連絡し、いつ電話がかかってくるかと、待っても電話がないのです。娘さんは学校の友達にも見つけて欲しいと頼んだそうです。

 その日の夕方、先生のお父さんの80歳の誕生祝いの夕食会があって、家を空けることに後ろ髪を引かれる思いで、お父さんの家を訪ねて行ったのだそうです。その日の夕食で、お父さんの80歳の歩みを感謝するお祈りをすることになりました。いつもこの時に家族のことを祈るのだそうです。この時に、いなくなったまま戻ってこない犬のことを祈ることにためらいがあったそうです。けれども、一息ついて、続けて祈りました。「どうか、スキピーも無事でいられますよう守ってください。アーメン」

 夕食が終わって家に帰る途中、車の運転をしていた次男が見つけました。「あっ、スキピー!」娘も大きな声をあげて駆けよって行きました。犬の方はというと、「帰って来たんだから叱らないで欲しい」という顔をしていたんだそうです。その牧師が思わず言いました。「いやぁ祈りがきかれると思っていなかったけれど、やっぱり神様はきいてくださったねぇ」。すると、それを聞いた息子たちが「何だよ、神学校の教授が疑いながら祈ったのかよ!」すると、その牧師は、「神様というお方は人間が疑いながら祈ったとしても聞いてくださるお方なのだ」と少し苦しい言い訳をしたのだそうです。

 そこで、左近先生はこんなことを言っています。「私にとっては小さな経験だったけれど、神様がこんな風に、いやこれの何百倍も、何千倍も心をくだいて私たちに接していてくださる」と。

 私たちはこのように大切なものを失うという経験をすることがあります。家族であったり、犬や猫であったり、あるいは大切にしていた物がある時壊れてしまうというような経験もあると思います。大切なものを失うと、そこに大きな穴があいてしまいます。そして、その穴はなかなか埋まりません。そして心にぽっかりできてしまった大きな穴を、何か他のもので埋めることで、その悲しみを乗り越えようとすることがあります。

 今日登場する「ザアカイ」という人は、この人自身が失われた人だったと言ってよいと思います。ザアカイというのは、「正しい人」という意味の名前です。元から悪い人だったということではなさそうです。この人は背が低い人でした。そのために、小さな頃から人に軽んじられてきたのかもしれません。そして、そのために何とか人を見返してやろうと人一倍努力したのかもしれません。実際、この人はエリコの町の取税人のかしらという立場につくことになりました。取税人というのは、ローマの役人になったということです。ユダヤ人でありながら、ローマに取り立ててもらうわけですから、他の人と同じようにやっていてはそういう待遇は得られませんし、中でもその取税人たちのかしらにまでのぼりつめたわけですから、並々ならぬ努力があったと思うのです。

 しかし、この仕事は自分たちの同胞であるユダヤ人から税金を取って、支配者であるローマにお金を渡す仕事ですから、同胞の仲間たちからは嫌われる仕事です。実際に、ユダヤ人たちは、この取税人という仕事を罪人の代表的な職業としてみていました。社会的にみれば立派な仕事かもしれませんが、仲間たちからは忌み嫌われる職業だったわけです。

 けれども、もともと背が低いことで軽んじられて来たザアカイからしてみれば、普段自分を軽んじるユダヤ人たちを見返してやる、格好の仕事だったとも言えます。

 ザアカイという名前は「正しい人」という意味だと先に言いました。きっとザアカイは、「自分は正しい、自分は悪くない」、「そういう仕事だから仕方がない」「税金をとるのが自分の仕事なのだから、この仕事は正しいはずだ」と言い聞かせながら仕事をしてきたに違いないのです。誰も、自分を守ってなんかくれません。誰も、ザアカイのことになんて関心がない。普段、街の収税所に座っていますから、ザアカイの顔を見れば思い出すことはあったとしても、ローマのためにお金を集める嫌な奴という感情が生まれるくらいのことです。

 そんなある日、最近町で名前を聞くようになったイエスという人物がこのエリコの町にやって来たらしいという噂を、ザアカイはどこかで聞きつけます。この人は癒しをし、立派な教えを話される方だという。ひょっとすると、この人がメシアなのかもしれない。そんな噂が囁かれるのを聞いていて、ザアカイはぜひ一度見てみたいと関心を抱きます。

 実際に近くまで行ってみると、すごい人だかりで背の低いザアカイはその様子を見ることができません。町の人たちは親切に道を開けてくれたりはしないで、かえってじゃまをします。背の低いザアカイにしてみれば、ここでも腹を立てることしかできません。

 ザアカイはそれでも、主イエスを見てみたいという思いを諦めることができませんでした。それで、苦肉の策です。近くのいちじく桑の木に登って、木の上からならきっと見えるに違いないと思ったのです。その時には、「大の大人が木登りなんて」というような、プライドはどこかに消えてしまっています。とにかく、見てみたいという思いが強かったのです。こうして、ザアカイはようやくいちじく桑の木の上から主イエスを見ることができたのでした。

 ザアカイにはそれほどまでしてでも、主イエスを見たかった。我を忘れるほどに、主イエスに惹きつけられていたのかもしれません。このお方のことは、噂でしか聞いたことがありませんでした。ただ、何かあるのではないか、そんな期待をいだかせるに十分だったのです。

 ちょうどその時、ザアカイが登った木の下を主イエスが通り過ぎようとしておられるところでした。そのことが、4節に記されています。すると、どうなったのでしょうか。5節にこう記されています。

イエスはその場所に来ると、上を見上げて彼に言われた。「ザアカイ、急いで降りて来なさい。わたしは今日、あなたの家に泊まることにしているから。」

 ザアカイは驚いたに違いありません。そもそも、どうしてザアカイの名前を知っていたというのでしょう。自分は興味本位でただ見たかった、どんなお方なのかと思っていたけれども、そのお方から名前を呼ばれて、あなたの家に泊まることにしているからと声をかけられたのです。まるで、昔からザアカイのことを知っていたかのような声かけです。主イエスの言葉は、まるでザアカイと会って泊まるように計画していたかのような話しぶりです。今まで自分を蔑んできた人たちの前で、自分はまるで特別であるかのような、そんな声かけを主イエスはしてくださったのです。

 誇らしかったに違いありません。嬉しかったに違いありません。ザアカイの心の中にあった思い、「自分は正しいはずだ」という思いを抱きながら、人を見下すことで承認欲求を満たして来たザアカイは、ここに来て本当に見つけ出される、見出される、あなたのことを私は必要としているという声かけをここで聞くことができたのです。

 もちろん、ザアカイは喜んで木から降りて、主イエスを自分の家に迎え入れました。「今日は、部屋が片付いていないのでまた後日にしてください」とか「買い物をしていなかったので」なんていう言い訳をして先延ばしにはしませんでした。このチャンスを逃すまいと思ったに違いないのです。それほど、主イエスが訪ねて来てくださるということは、ザアカイにとって特別なことでした。

 さて、この一連の出来事を見ていた町の人々は、どう感じたでしょう。取税人の家に泊まるなどあり得ないことです。ザアカイという男は、ローマの手先となって同胞であるユダヤ人たちからお金を取り上げて、敵にわたすような男です。彼はその名前の示すような「正しい人」ではありませんでした。人々の思いは「よりによってなぜザアカイなのだ?」です。当然、人々は不満を口にします。7節。

人々はみな、これを見て、「あの人は罪人のところに行って客となった」と文句を言った。

 主イエスの人気は「ダダ下がり」です。多くの人が失望しました。多くの人の期待を裏切ったのです。しかし、ザアカイに対する非難の声はあがりませんでした。気がつくと、ザアカイに向けられていた敵意が、主イエスに向けられていたのです。

 主イエスのなさることというのは、本当に人間が考えるのとは全く違います。私たちはというとメリットとデメリットを考えて、できるだけデメリットの少ない方を選択しようとします。今のままの人気をキープすることと、人々を失望させることのどちらかを取るとすれば、私たちは当然、今のままの人気をキープする方を取るでしょう。罪人のザアカイと、その他大勢の人々の関心を引くことを比べたら、大勢の人の関心を集めることのほうがメリットは大きいはずです。けれども、主イエスはそうしないのです。

 たとえ、多くの人を失望させたとしても、ザアカイを取る。それが、ここでの主イエスの選択なのです。自分が人から文句を言われても、ザアカイをお選びになられるのです。一体、なぜそんなことを主イエスはなさるのでしょうか?

 前回の聖書のテーマを覚えておられるでしょうか? 前回のテーマは「見えるようになれ」です。道ばたで物乞いをしていた目の見えない人の目を開かれた時に、主イエスはそう言われました。主イエスはその時、ただ目が見えるようにされただけではありませんでした。本当に見るべきもの、つまり「主イエスの思いを見ること」をお求めになられました。

 そして、同じエリコの街で、今度はザアカイの友となるために、その周りにいる大切なことが見えていない人たちに、主イエスはここで「見えるようになれ!」というメッセージを問いかけておられるのです。

 ザアカイはどうなったのでしょう。今まで、ザアカイは自分の振る舞いを正当化して生きて来ました。けれども、この主イエスのお姿を見た時に、自分の見ていたものがいかに、自分勝手であったかが見えるようになりました。それで、こう言ったのです。8節です。

しかし、ザアカイは立ち上がり、主に言った。「主よ、ご覧ください。私は財産の半分を貧しい人たちに施します。だれかから脅し取った物があれば、四倍にして返します。」

 ザアカイは自分がこれまで正しいと信じて振る舞ってきた行いが、どれほど自分本位で自分の損得しか考えていなかったかということに気づきました。それで、今まではお金が何よりも大切だった、他の人から自分が舐められないために、自分で自分を守るために必要だと考えていたお金へのこだわりが無くなったのです。自分が自分であるために必要なのは、地位やお金ではない、それらのものは必要な人に与えればいい、困っている人、自分が困らせてきた人に返していけばいい、自分はこのお方に見出されたのだからという充足感が、ザアカイの心を支配するようになったのです。

 主イエスは言われます。

「今日、救いがこの家に来ました。この人もアブラハムの子なのですから。人の子は、失われた者を捜して救うために来たのです。」

 ここからも、主イエスの意図がはっきりと分かります。ザアカイが木によじ登った時に、たまたま主イエスがその木の下を通りかかったのではないのです。主イエスはザアカイのところにはじめから行こうとしておられたのです。救いをもたらすためにです。自分で自分を正しいとしてきたザアカイの、心の目が見えるようになって、もう一度アブラハムの子どもとして生きることができるようにしようと思っておられたのです。見失われていた人を、ザアカイを主イエスは探しておられたのです。

 主イエスは、私たちを探しておられるお方です。自分は正しいのだ、この生き方で良いのだとうそぶいている私たちザアカイを、主は見ておられるのです。そして、私たちの傍に来られて、声をかけてくださるのです。「ザアカイ、急いで降りて来なさい。わたしは今日、あなたの家に泊まることにしている」と。

 はじめに、迷子になってしまった犬の話をしました。主イエスというお方は、迷子となってしまった私たちを、必死で出かけて探し出して、ご自分の身元へともう一度招き、救い出してくださるのです。これが、主イエスというお方なのです。

 迷子というのは、もともとは家があり、家族があり、そこで平穏に楽しく生きていたはずなのです。この私たちが失ってしまった家というのが、聖書が語る「神の国」です。けれども、私たちはその大切な家である神の国を飛び出してしまったばかりに、その後とんでもなく大変な道のりが私たちには待ち構えているのです。

 私たちの主イエスは、そんな家を飛び出してしまった私たちを探し出そうとしておられるお方です。そして、今日も、そんな私たちに目をとめて、わたしのところに戻ってくるようにと探し続けておられるのです。これが、主イエスというお方です。私たちを見つけ出してくださるお方です。このお方に見出されるならば、私たちは本当の喜びと安心感を与えられ、救いの喜びに包まれるようになるのです。

 お祈りをいたします。

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