・説教 マルコの福音書1章14-20節「人間をとる漁師」
〈ききたまえ〉
2024.5.12
内山光生
序論
今日は母の日です。それぞれが家庭において、お母さんに感謝をあらわす日となれば幸いです。
I 宣教を開始した主イエス(14~15節)
14節を見ていきます。
イエス様が地上において福音宣教を始めたそのタイミングは、ちょうど、あのバプテスマのヨハネが牢屋に入れられた事がきっかけとなりました。
なぜヨハネが投獄されたかについては、マルコの6章に詳しく記されていますので、今日は簡単に説明するだけにいたします。
当時、ガリラヤ地方を政治的に治めていた「ヘロデ・アンテパス」が、自分の異母兄弟の妻を奪うという罪を犯しました。その罪を指摘したのがバプテスマのヨハネです。ヨハネは、正義を大切にする人でした。それで権力のあったヘロデ・アンテパスに対してはっきりと何が罪なのかを指摘したのです。しかしそれが原因で、投獄されたのでした。
さて、ヨハネが投獄された事はイエス様にとっても、ヨハネを信頼していた人にとっても悲しい出来事でした。けれども、その出来事がきっかけとなって、いよいよイエス様によって「神の福音」が力強く伝えられるようになったのです。
イエス様による宣教の最初の地がどこかというと、「ガリラヤ地方」でした。ガリラヤ地方は、頑固な国粋主義者が多い地域と言われていました。また、地理的な条件から北からの侵略者の攻撃を一番最初に受ける場所とも言われていました。だから、自分たちの国を守ろうとする気持ちが強かったのです。ある意味、保守的な地域だとも言えるでしょう。そんな場所に、どこよりも早く「神の福音」が伝えられることとなったのです。
ところで、ガリラヤの地に福音の光が届けられることは旧約の預言書にも記されていることであって、神があらかじめ選んでいた地域だったのです。
今の時代でも、どうしてあの地が、周辺地域で一番最初に開拓伝道地として選ばれたのだろうか? と思う方があるかもしれません。例えば、私たちの同盟福音では、岐阜県の羽島が最初の開拓地域となりました。その理由は、私ははっきりとは知りませんが、どなたかご存じかもしれないですが、、、言えることは、人々の祈りの中で神様がその地で開拓するようにと導いた、そういうことだと思うのです。
ここに神様の支配があることを私たちは認めざるを得ないのです。
「神の国が近づいた」とイエス様は声を大にして伝えました。そして、「悔い改め」を促したのです。悔い改めとは、心の向きを変えて、神様の方向に進むことを意味しています。
イエス様は、更には「福音を信じなさい」と訴えたのです。福音を信じるとは、言い換えると「福音を信頼しなさい」と表現することができます。イエス・キリストを自分の救い主だと信じる者には、心に平安が与えられます。そして、聖霊に導かれ、聖霊に応答するときに、神様が地上世界を支配しておられる事を実感できるようになります。
そのような私たちにすばらしい人生をもたらす「この福音を信頼しなさい」とイエス様は力強く訴えているのです。
ここでの「信じる」とは「信頼する」と置き換えることができる言葉です。そして福音に信頼を置くことは、私たちの人生に光をもたらすことを意味しています。
もちろん、イエス様を信じたら、すべてがうまくいくという訳ではありません。前回お伝えしたように、イエス様を信じた後に人生のどこかで「試練」がおとずれるという現実があります。けれども、神は私たちが試練を乗り越えることができるように脱出の道を備えてくださるお方です。
そういう訳で、「福音を信じなさい」というイエス様の呼びかけに応答するならば、その人には喜びの人生がおとずれるのです。
II シモンとアンデレを召した主イエス(16~18節)
16~18節に進みます。
イエス様は福音を宣べ伝える際に、自分ひとりだけで活動をするのではなく、弟子たちを集めることによって、彼らと一緒に活動することを選びました。
まず最初に選んだ弟子が、シモンとアンデレでした。16~18節を読むと、あまりにも唐突に彼らが弟子となったように感じます。でも実際は、シモンにしてもアンデレにしても、すでにイエス様の福音を聞いていたと思われます。そして、彼らが福音を聞いたとき、イエス様に対する憧れや信頼する気持ちが湧き出ていたのではないかと思うのです。
そういう中で、イエス様はシモンとアンデレを招いたのです。
「わたしについて来なさい」これは、特に説明する必要もない言葉です。でも次に書かれている「人間をとる漁師にしてあげよう」は、かなりユニークな表現だと言えるでしょう。イエス様はしばしば「比喩的表現」を用いています。そして、その表現は人々の心に強烈な印象を与えるのです。一度聞いたら、忘れることができない独特な表現が用いられているのです。
シモンとアンデレは漁師でした。漁師とは、いつでもどこでも網に魚がかかるかと言えばそうではありません。大漁の日もあれば、全くとれない時もある。また、何よりも忍耐が必要ですし、寒さや暑さに耐えなければいけない。
漁師という仕事は、しばしば命の危険さえもありました。というのもガリラヤ湖はときどき嵐がやってくることで知られていました。だから、シモンとアンデレもその恐怖をよく知っていたでしょうし、命を落とすかもしれないという危険にさらされた事もあったと思うのです。
そういう訳で、漁師としての彼らの経験は、これから福音伝道をしていく際に、役に立つことが予想できました。「人間をとる漁師」は決して楽な仕事ではない、しかし、粘り強く活動をしていく時に大漁という喜びを味わうことができる。イエス様に従う事も、きっとそうに違いないと、彼らは期待を膨らませていたのではないかと思うのです。
ところで、「人間をとる漁師」とはどういう意味でしょうか。簡単に言うと、「人間を集める事」を指しています。「人間を集める事」とは、イエス・キリストの福音を人々に伝えることによって、イエス様を信じる人々を見つけ出す、ということです。これから後、弟子たちによって多くの人々が福音を信じる者となっていくのです。
シモンとアンデレは、イエス様の独特の比喩的表現によって、心を打たれ、すぐにイエス様に従ったのです。
彼らは、多くの犠牲を払わなければなりませんでした。すなわち、経済的に安定していた漁師としての仕事を捨てる必要がありました。けれども、彼らは人間の感覚でいう安定よりもイエス様の福音に従うことを選び取ったのです。
なんというすばらしい出来事でしょう。彼らは、人々にしあわせをもたらす福音を伝えるために、イエス様から直接、声をかけられたのですから、、、。
III ヤコブとヨハネを召した主イエス(19~20節)
続いて19~20節に進みます。
イエス様は、更に弟子たちを集めます。今度はヤコブとヨハネを招いたのです。
この箇所も唐突にヤコブとヨハネが従ったかのように見えますが、しかし、実際は以前にイエス様の福音を聞いていて、その時から、心がイエス様に向かっていたと推測できるのです。
そのようにしてちょうど良いタイミングで、イエス様は彼らに声をかけたのです。
ここでは、どのように声をかけたのかは省略されています。でも、きっと彼らの心に響くような言葉を伝えた事でしょう。
福音伝道のために人生をささげることを「献身」と言います。その中で、牧師や宣教師や教会スタッフ、あるいはキリスト教団体の働き手になる事を「直接献身」と呼んでいます。
直接献身は、ある意味、より多くの犠牲が必要だと言えるでしょう。シモンとアンデレは漁師であったにもかかわらず「網を捨てて」イエス様に従いました。また、ヤコブとヨハネも漁師の仕事を捨てて、イエス様に従いました。しかも、自分たちの父や雇い人たちを残して、イエス様に従ったのです。
自分の今までの経験や実績を一旦、神様にささげた上で、まだ経験したことのない神様が導く人生へとすべてを委ねる。とても勇気のいることです。誰でも簡単に決断することができる訳ではありません。そういう意味では、シモンとアンデレにしても、ヤコブとヨハネにしても、大きな大きなチャレンジだったと言えるのです。
このことは、今の時代でも同じであって、それがゆえに、「直接献身」の決断をする事は、その人にとっては人生の中の最大のチャレンジだと言えるのです。
私自身の事を話しますと、ちょうど二十歳ぐらいの頃に心の中で神様から献身を促されました。その時、悩みながらも「献身します」と応答することができました。しかし、「平安」な気持ちと同時に、心の中で「不安」を感じていましたし、何よりも、本当にこんな私が「神様のみことばを人々に伝える者」としてふさわしいのか? と疑問に感じたものです。
なぜかというと、小学・中学・高校と国語の成績が他の科目と比べると悪かったからです。また、活字の本を読むことが得意ではなかったからです。まして、人前で話をするのが苦手だったからです。
でも不思議な事に、あれほど、本を読むのが苦手だった私が、いつの間にか、本を読むのが好きに変わっていきましたし、人前で話をすることにしても、自然と乗り越えることができるように変わっていきました。
また神様は、私の中に献身に対する不安な気持ちがあることをよくご存知で、その都度その都度、御言葉によって励まして下さいました。
特に若い世代のクリスチャンに伝えたいことがあります。それは神様から献身の促しがあった時に「自分は献身者としての資格がない」と思ったり、「自分は向いていない」と決めつけないでほしいのです。
神様は、ご自身の招きに応答する人々を求めておられるのです。そして、そのような人々によって、また、献身者を支える人々によって、教会が成り立っていますし、福音宣教が繰り広げられてきたのです。
まとめ
今日の箇所は、ある意味「献身者を招いている箇所」と言えるでしょう。しかしながら、すべてのクリスチャンに対して「あなたも牧師や宣教師になりなさい」と言っている訳ではありません。
はっきり言える事は、神様からの招きの声を聞いたならば、その人は、思い切って「イエス様に従います」との決断をするようにと促されている、そういう箇所だと言えるでしょう。
私たちが、福音に信頼を置く時に、心の中に平和がおとずれます。そのような福音のすばらしさを十分に味わっているならば、「神様に自分の人生を委ねたい」という気持ちが湧き出てくるでしょう。
確かに、直接献身をする人は決して多くはいません。それゆえ、いつの時代でも福音宣教の働き手が少ないのです。しかしながら、たとえ直接献身をしていなくても、自分に与えられている賜物を用いて、神様に仕えていくことは可能なのではないでしょうか。そういう意味において、すべてのクリスチャンは献身するようにと促されているのです。
皆が牧師ではありません。皆が宣教師になる訳ではありません。皆がフルタイムの献身をする訳ではありません。でも、クリスチャンならば、そして、福音のすばらしさを味わっているならば、イエス様のことを周りの人々に伝えたいという思いが出てくるのではないでしょうか。
イエス様の招きに応答する事、それはある意味、勇気がいることです。思い切った決断だと言えるでしょう。不安や心配な気持ちが出てくることは当然の事です。しかしながら、自分の中に浮かんでくる否定的な考えを一旦、横において、イエス様に人生を委ねます、と決断する時、今までに経験したことのない、天から与えられる喜びと平安で心が満たされるのです。
イエス・キリストは、自分ひとりで宣教活動をするのではなく、福音宣教のための働き手となる人々を集める事から始められました。そして、救われる人々が起こされ、クリスチャンの数が増えていき、更には、イエス様の福音が次の世代へと伝えられていったのです。私たちは、何らかの賜物が与えられています。その賜物はいろんな種類があって、皆が同じではありません。大切なことは、各々が自分に与えられている賜物を用いることなのです。
お祈りします。