2024 年 5 月 19 日

・説教 マルコの福音書1章21-28節「主イエスの評判が広まる」

Filed under: 内山光生師,礼拝説教,説教音声 — susumu @ 07:41

聖霊降臨祭(ペンテコステ)
2023.5.19

内山光生

序論

 今日はペンテコステの日、すなわち、聖霊降臨祭です。ペンテコステの日とは、イエス様があらかじめ弟子たちに伝えていたように “助け主” つまり “聖霊” が( くだ )った事を記念する日です。イエス様の弟子たちは、イエス様の教えを聞いていながらも、本当の意味では福音を理解できていませんでした。例えば、イエス様が十字架の上で苦しまれること、その後、よみがえるということを何度も何度も聞かされていながらも、その意味を悟ることができていなかったのです。

 けれども、イエス様が復活した後でようやく心の目が開かれたのです。そして、ペンテコステの日に聖霊が降ることによって、福音がどういう意味なのかがはっきりと分かるようになったのです。そういう訳で、ペンテコステの日は私たちクリスチャンにとって記念すべき時なのです。

I カペナウムでの宣教 ~人々が驚く~(21~22)

 では21~22節を見ていきます。

 カペナウムという町は、ガリラヤ湖の北西に位置し、交通の便が良いことから割と繁栄していたと言われています。この町がイエス様によるガリラヤ伝道の活動拠点となっていくのです。

 イエス様の伝道方法には、あるパターンがありました。それは会堂、つまり、ギリシア語で言うと “シナゴーグ” において、安息日ごとに聖書の説き明かしをする、という方法です。シナゴーグには、会堂司と呼ばれる人がいて、礼拝において誰に説教をしてもらうかを決める権限がありました。それゆえ、イエス様は会堂司の許可を得て、あるいは、依頼されて聖書の説き明かしをしたのでしょう。

 イエス様の教えは、人々に驚きをもたらしました。マルコの福音書では「人々が驚いた」という表現が至る所に記されています。マルコは、イエス様の教えや行動が、どれ程、人々に驚きをもたらしたかを強調しているのです。

 22節では「その教えに驚いた」とあります。では、なぜ人々は驚いたのでしょうか。当時、聖書の説き明かしをする人は、しばしば「あの有名なラビがこう言っている」とか「言い伝えによれば、こうこうこういうことです」といった感じで、有名な人や有力な言い伝えに頼って、自分の言っていることばに権威を持たせようとしました。ところが、イエス様は、他の説教者のように何かを引用する必要がなかったのです。なぜなら、イエス様ご自身が権威あるお方だったからです。

 私たちは自分の言っていることを信じてもらうために、「誰が言っていたのか。」の出所を大切にします。テレビのニュースで放映されていたり、新聞に書かれている事ならば、ある程度の信頼性があります。一方、インターネットの情報は、しばしば、嘘のニュースが流されることがあって、鵜呑みにできないことを私たちは経験しています。しかしながら、本当に権威あるお方ならば、その人が言うことには言葉では表現しがたい独特の雰囲気があって、人々の心に強い印象を与えるのです。

 イエス様の聖書の説き明かしは、当時の律法の教師とは比較にならない程、権威に満ちておられたのです。それで、人々は驚きを隠せなかったのです。

II 汚れた霊の叫び ~イエスについて知っている~(23~24)

 続いて23~24節を見ていきます。

 その時、シナゴーグにおいて礼拝がささげられていました。そして、イエス様が説教をされている最中でした。ところが、その神聖な雰囲気をぶち壊すかのように “汚れた霊につかれた人” が叫んだのです。 “汚れた霊” とは “悪霊” のことを指しています。新約聖書の時代では、そして、特にイエス様が伝道活動をされていた頃は、頻繁に悪霊が出てきています。

 24節によると、ある男が叫んだのですが、しかし、実際にはその背後に隠れている悪霊どもがその男をコントロールして、叫ばせているのです。「ナザレの人イエスよ」と呼びかけています。悪霊どもは、イエス様がナザレで生まれ育った事を知っていたのです。また、イエス様のことを「神の聖者です。」と表現しているように、イエス様がどういうお方かを知っていたのです。更にはイエス様がどういう目的で伝道活動をしているかを分かっていたのです。

 しかしながら、だからといって悪霊どもが、天国に行けるかというと、そうではありません。なぜなら、悪霊どもは、イエス様がどういうお方なのかを知ってはいるものの、しかし、自分の救い主だとは認めていなかったからです。

 誰でも、イエス・キリストを自分の救い主だと信じるならば、その信仰のゆえに、永遠のいのちが与えられます。しかしながら、単に知識としてイエス様を知っているだけでは、救われないのです。悪霊どもは、イエス様がどなたかを知識としては知っていました。しかし、イエス様に対する信仰を持っていないゆえに、神の裁きが下されることが決まっているのです。

 そういう訳で、イエス様こそ自分の救い主だと信じる信仰によって、私たちは救いを得ることができるのです。

III 汚れた霊を追い出す ~ことばのみで~(25~26)

 25~26節に進みます。

 イエス様は、その男の人にとりついている “悪霊” に対して「黙れ」と叱りつけられます。ある人は、なぜ叱りつけるのか疑問に思うかもしれません。というのも、 “悪霊のことば” はある意味、正しい内容を含んでいます。例えば「ナザレの人イエスよ」との呼びかけも、間違ったことを言っている訳ではありません。また、イエス様が “悪魔あるいは悪霊を滅ぼしに来られた事”、そして “滅ぼす力を持っておられる事” も確かなことです。なにより、悪霊が「あなたがどなたか知っています」と言っているように、悪霊どもはイエス様が何のために地上世界にやってきたかを知っているのです。けれども、イエス様は悪霊どもに何かを発言させる事をやめさせようとされたのです。

 イエス様がすぐに悪霊に何かを言うのをやめさせた、その理由は、次のように考えることができます。それは、カペナウムのシナゴーグにおいて、礼拝がささげられていた。悪霊どもが叫ぶ前は、人々がイエス様の権威あることばに驚いていた。人々の心にみことばが入ろうとしていた。そのとても良い霊的状態が悪霊どもの叫びによってぶち壊されてしまった。だから、これ以上礼拝の妨害をさせないために「黙れ」と叱りつけられたのでしょう。そして、イエス様は「この人から出て行け」と言われたのです。

 すると、男の人にとりついていた “汚れた霊” つまり “悪霊” がその人から出ていったのです。その際、悪霊は男の人を引きつけさせ、大声をあげさせたのでした。

 今日の時代において、悪霊にとりつかれた人をどのように解釈すればいいかについて意見が分かれています。ある人々は、聖書の時代には、悪霊現象があったのでしょうが、今の時代には、起こらない、そのように理解したり、悪霊現象は、今の精神医学で説明できる現象だと理解する人々がいます。一方、外国の宣教地において、悪霊現象の報告がなされるようになり、それにつれて、実際には大都会の中においても、悪霊にとりつかれた人の報告がなされるようになってきました。

 見る視点によっては、同じ現象でも解釈が分かれる、そういう分野が、悪霊現象だと言えるでしょう。そういう中で、私たちは「悪霊に対して過度の興味を持ちすぎたり、あるいは、反対に悪霊は存在しないと考えるのを避けなければなりません。つまり、両極端に陥るとき、聖書が示していることと正反対の方向に進むのです。ですから私たちは、聖書の教えから道がそれないように注意する必要があるのです。

 では続いてイエス様の時代の人々がどういう反応をしたのかを見ていきます。
 

IV イエスの評判が広がる ~権威と新しい教え~(27~28)

 27~28節に進みます。

 人々の反応で強調されていることは、「驚いた」ということです。この「驚き」はかなり強いことばです。つまり、悪霊にとりつかれている人から悪霊を追い出す事は、当時の人々にとっても見たことのない不思議な現象だったのです。

 人々は互いに論じ合います。「これは何だ。権威ある新しい教えだ」と。確かに、悪霊の追い出しは人々に強烈な印象を与えました。しかしだからといって、彼らが、イエス様が伝えようとしている福音を正しく理解できていたかというと別問題だったのです。

 恐らく、この時点では人々はイエス様の教えを正しく理解できていなかったと思われます。それでも、イエス様のことばと悪霊を追い出す力が人々に強烈な印象を与えたゆえに、「イエスの評判は、すぐに広まった。」のでした。

まとめ

 安息日にシナゴーグにおいて、イエス様から聖書の説き明かしを聞いていた人々は、その教えに権威があることに驚きました。更には、イエス様が「出ていけ」と命じるだけで男から悪霊が出ていったのを見て、その権威ある教えに驚きを覚えたのです。

 今日の箇所には繰り返されている言葉は二つあります。一つは「権威」、もう一つは「驚き」です。そして人々の反応をまとめると「イエス様の権威ある教えに驚いた」といった感じでしょうか。けれども、恐らく、人々はまだイエス様の福音について正しく理解できていませんでした。

 カペナウムの町は、イエス様のガリラヤ伝道の活動拠点となっていましたが、その町全体としては “不信仰な町” として、イエス様が嘆いておられます。人々はイエス様から様々な教えを聞くのです。また、悪霊追い出しだけでなく病人のいやし、その他、驚くべき奇跡を目撃しながらも、しかし、本当の信仰に入る人々が少なかったのです。

 イエス様の権威は人々に驚きを与えました。その中で、イエス様の教えに対して信仰を持つ人々が生まれます。一方、単に驚くだけであって、イエス様の伝えようとしていることに理解を示さない人々がおります。

 ですから驚くだけで終わるのではなく、一歩先に進んで、この驚くべき教えをもっと知りたいという好奇心を持つことが大切なのです。イエス様が伝えようとしている教えとは、「悔い改めること」と「福音を信じること」です。言い換えると、自分が罪びとだということを自覚して心を神様の方に向ける事、神様の教えに進んでいくこと。そして、十字架の福音を信じること、つまりイエス様が十字架にかかったのは、私たちの罪を赦すためだったということを信じることです。

 マルコの福音書の8章に書かれているようにイエス様の弟子ペテロが信仰告白をしたとき、イエス様はご自身がメシヤだということを言わないようにと厳しく警告しています。またそれ以後もイエス様は自分の口から「わたしはメシヤです。」とは一度たりとも言っていないのです。

 なぜでしょうか。それは当時のユダヤ人たちが思い描いていたメシヤと、イエス様が示そうとしているメシヤとの間に大きなギャップがあったからです。もしもイエス様が「わたしがメシヤです。」と宣言するならば、確かに多くの人々はイエス様を歓迎したことでしょう。しかしながら、人々は自分の都合の良いメシヤ像を持っていましたから、結果的には本当の意味での福音が人々にとどかなくなってしまう事が目に見えていたのです。

 今の時代においても、キリスト教に対して間違った期待をする人々もおられるかと思います。というのも、多くの宗教はいわゆる「ご利益」を求めております。その期待に応えるのが宗教だと理解している人が大勢いるのです。しかし聖書が示している福音は、世間一般で考えられている「ご利益」とは異なっています。

 聖書のことばを通して、私たちはその権威に驚きを覚えます。私たちが神様と祈りにおいて交わりを持つ時に、祈りが応えられていくことに気づかされます。しかし、祈りが自分の都合の良い結果となる訳ではなく、あくまでも神の御心が成就していくのです。

 ある人々は、自分の願い通りにならなくても神の御心の通りになることを受け止めることができるようになります。一方、自分の願い通りにならないことで神に不信感を抱いてしまう人もでてきます。このような違いが出てくるのは、致し方ないことです。私自身も今までの信仰生活を振り返ると、何度も何度も神様に不平不満を言ったのを思い出すのです。

 今日の箇所においては、イエス様の権威に驚いた人々によって、イエス様の評判が広がっていったことがテーマとなっています。確かに評判は広がっていきました。しかし単に驚くだけでなく、イエス様の福音を信じる人々がたくさん起こされることが神の願いなのです。

 お祈りいたします。

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