・説教 ルカの福音書12章35-40節「待つことを喜びとして」
2024.5.26
鴨下直樹
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主イエスの譬え話がここに記されています。主イエスの話はとてもイメージしやすく、聞く人たちの気持ちに寄り添った話し方をなさいました。
今日の箇所は本来35節から48節までを一括りの話として理解することもできます。けれども、今日はこの40節までとしました。ここは短い箇所ですが、二つの譬え話が記されています。一つは35節から38節の「結婚式に出かけた主人を待つしもべ」の譬え話です。もう一つは「泥棒への備え」の譬え話です。
この二つの譬え話、またこれに続く48節までの部分のテーマは「再臨」と呼ばれるテーマです。主はもう一度戻ってこられるという話です。けれども、この当時、主イエスから話を聞いていた人々や弟子たちは、まだ「再臨」というテーマの話は聞いたことがありませんでした。私たちも人によっては、この「再臨」ということが、あまりよく分からないという人があるかもしれません。
「再臨」とは何でしょうか? それは、主イエスが再び来られるという約束です。先週、私たちはペンテコステをお祝いしました。ペンテコステというのは、神の霊である聖霊が私たちに与えられたことを覚えてお祝いする日です。聖霊が、私たちの心に与えられているので、私たちは主イエスを、私たちの救い主ですと告白することができるようになります。この出来事が起こったのはいつかというと、主イエスの復活の後、弟子たちに姿を現されてから、40日経って主イエスは天に帰っていかれました。私たちを天に迎え入れる準備をする、そう言っておられました。そして、それから10日後のペンテコステの日に、約束通りに弟子たちに聖霊が与えられたのです。この時から教会は、主イエスがもう一度この世に来てくださるとの約束を待ち望んでいます。この主イエスが、もう一度この世に来てくださることを「再臨」と言います。再び主イエスがご臨在くださる。このことを「再臨」と言うのです。「再臨」の時というのは、私たちが天に迎えられる準備が整ったということでもあります。
まだ、主イエスの十字架も、受難の出来事も起こる前に、主イエスはずっと将来のことを見据えて、譬えを通して、この「再臨」についてお話しになられました。それが、ここに記されている主人を待ち望んでいるしもべの譬え話です。あまりにもこの話がよく分からなかったので、この話を聞いていた弟子のペテロがこの後の41節で、今の話は誰に話されたのですか? と尋ねています。それくらい分からない話だったのです。
この聖書の箇所が語ろうとしている一つの重要なテーマは「タイムリミットがある」ということです。しもべの主人は結婚式に出かけたようです。当時の結婚式は一週間続いたという話があるくらいですから、主人がいつ戻って来るか分からないのです。けれども必ずいつかお戻りになられるわけです。当分の間、主人が戻ってこないことが分かっている時に、しもべがその間何をするか。そのことがここで問われています。
皆さんならどうでしょうか? 主人がいない間、自分がしもべだとすると、どうやってその時間を過ごすでしょうか?
しもべに期待されていることといえば、その間にするべき務めを果たすことです。けれども、いつ戻ってくるかわかりません。今のように監視カメラがある時代ではありませんから、「やったー!ついに自由だ!」と束の間の自由を楽しむこともできます。
こういう場面というのは、私たちの生活のさまざまな場面でも見られる光景です。「出かけている間に、洗濯物を取り込んでおいてね」とか、子どもであれば「少し買い物に出掛けてくるので、その間に宿題を終わらせておくように」とか、あるいは、職場であれば「納期がいついつまでなので、それまでにこの仕事とこの仕事をやり終えておくように」とか、まあいろんな場面でこういう出来事が起こります。
いついつまでにやるべきことがある。そんな時、ついつい先延ばしにしたい人もあるでしょうし、まず最初にやるべきことは終わらせておきたいと考える人もあるかもしれません。あるいは、頑張って先にやるべき用事を終わらせておくと、そこから更に仕事を増やされてしまうので、ほどほどに手を抜いて、ちょうど終わるように調整するというような達人もあるかもしれません。
問題なのは、やらなければならないことがあるのに、その前に自分のやりたいことを優先させてしまうという思いが私たちの中に出てくることです。この問題は、相手よりも自分の気持ちを優先させるというところから出てきます。聖書は面白いもので、こういう、私たちが毎日の生活の中で、何でもないことのようにしていることに踏み込んできます。
自分が人に仕事を頼む場合と、自分がする側に立つ場合とで態度が変わってくるなんていう人も、あるいはあるかもしれません。
そんなお話をなさったこの譬え話の冒頭、主イエスはこのように話を始められました。35節です。
腰に帯を締め、明かりをともしていなさい。
譬え話をし始める前に、いきなり命令の言葉で始まっています。
今、私はまさに腰に帯を締めています。先週の月曜からギックリ腰になってしまいまして、もう一週間経ちますがなかなか治りません。毎日、朝は激痛で今日はベッドから出られないかもしれないと思いながら一日が始まります。ですから、腰を支えるために、この腰に巻く帯というか、サポーターというのでしょうか、これは今の私には必需品です。けれども、この時代に帯を締めるというのは、もちろん腰痛用のベルトのことではありません。
「腰に帯を締める」というのは、当時の日常生活の様子から考えるに、身なりを整えて働けるように備えていなさいという意味でしょう。「明かりをともす」というのも、主人がいつ帰ってきても良いように備えをしておくということです。ここで主イエスは話をする前にすでに結論を話してしまっておられます。
結論を先に言った後で、「主人が婚礼から帰ってきて戸をたたいたら」と話が続くのです。いきなり、タイムリミットが来たところから話が始まるのです。その時、「うわっまずい、やばい、何にもやってない」となるのか、「あー良かった、無事にやっとお戻りになられた」と言って迎えるのかです。
自分のことを優先させていた場合は、そこで「まずい」となるでしょう。主人のことを優先させていた人は「あー良かった!」となるのです。ここで問われているのは、自分が大事なのか、主人が大事なのかという問いかけです。
ただ、この主イエスの譬え話を読んでいくと、この時に戻って来た主人の人となりが描き出されています。37節では主人のことがこのように書かれています。
帰ってきた主人に、目を覚ましているのを見てもらえるしもべたちは幸いです。まことに、あなたがたに言います。主人のほうが帯を締め、そのしもべたちを食卓に着かせ、そばに来て給仕してくれます。
ちょっとびっくりするような主人の姿が描き出されています。こんな主人が実際にいるのかと疑いたくなるほどの人格者のようです。こんな優しい主人なら、私たちも進んで喜んで迎えたくなるのではないでしょうか。この主人は決して意地悪な主人ではないのです。しもべのことをいつも監視していて、出来そうもない無理難題を押し付けるような人物ではありません。しもべの立場をよく理解していて、愛情に満ち溢れる優しい人物です。
やがておいでになるお方は、戻ってこられるのを心待ちにするようなお方だというのです。今年の秋に、マレーネ先生がドイツの教会の方々を連れて日本に来日してくださるようです。そういう話を聞きますと、私たちはお会いするのが楽しみで心待ちにしたい、そんな気持ちになるのではないでしょうか。それと似ているかもしれません。
この主人は、夜遅く出迎えてくれたしもべに対して「こんな時間まで良くやってくれたね。今から私の方がお前たちの夕食を準備しよう。結婚式で美味しい食事が振舞われて、それを少し分けてもらって来たのでお前たちにも食べさせてやりたいのだ」そんなことを言っているかのようです。
主イエスはこの話を弟子たちにしておられます。あなたがたの主人はやがていなくなるが、その後に帰ってくる。必ず戻ってくるから、それまでしっかりとしもべとしての務めを果たすようにと言っておられるのです。
そして、今度は39節と40節でこんな話をなさいました。
このことを知っておきなさい。もしも家の主人が、泥棒の来る時間を知っていたら、自分の家に押し入るのを許さないでしょう。
あなたがたも用心していなさい。人の子は、思いがけない時に来るのです。
ここで主イエスがお話になられたのは、待ち遠しい優しい主人ではなくて、「泥棒」だというのです。そして、その泥棒が来るのが分かっていたら、盗まれないようにするでしょうと言います。まるで違ったテーマの話をしているようで、タイムリミットがあるということは共通しています。けれども、今度のタイムリミットは、いつ起こるかは分からないけれども、それまでに備えておくようにということが前提となっています。「泥棒が来る」というのは「大事なものが盗まれることがないように」という警告です。では、その盗まれてしまうかもしれない大事なものとは何のことを言っているのでしょう。
あまり、小難しい議論はしないで結論だけを言うと、それは「信仰」のことです。私たちが守らなければならないのは、主人に対する信頼する心です。というのは、主人が戻ってくるまでの時間が長ければ長いほど、待っている方からすると、本当に戻ってくるのだろうか? という疑いの心が生じるのです。そして、油断して、もう来ないのではないかと思っている間に、私たちの心は主人である主イエスから遠く離れてしまうことになってしまうのです。
これは、私たちクリスチャンが毎日直面している課題だとも言えます。何がきっかけで「もう教会に行くのを止めようか」となるか分からないほど、私たちの信仰を奪おうと泥棒は私たちを待ち伏せているのです。
仕事が楽しくて、主イエスのことを忘れさせてしまうことが起こることがあるかもしれません。いや、仕事は全然楽しくないけれども、あまりにも忙しくて、大変で、そのせいで主イエスのことを忘れてしまうことがないとも言えません。
あるいは、今でいえば「推し活」なるものがあるそうですが、「アイドル」なんていう偶像的な名称よりも、「推し」と言った方が、積極性が出るというものです。その「推し」に夢中になりすぎて、主イエスのことを「推せなくなる」なんてことも起こり得ます。病気が苦しくてとか、人生の壁が高すぎて、もはや何も見えなくなってしまったというようなこともないとは言えないでしょう。
主は言われます。
あなたがたも用心していなさい。人の子は、思いがけない時に来るのです。
こればかりは「まだ大丈夫だろう」とはいかないのです。そこで、私たちが心に留めている必要があるのは二つのことです。一つは、私たちが待つべきお方は、待っているのが嫌になるようなお方ではないということです。ここに福音が語られています。私たちの主は、やがて来られると約束を残して天に引き上げられました。私たちを天に迎え入れるために家を備えに行かれたのです。このお方は、私たちのことを心から大切にしてくださるお方ですから、そのお方のことを心に留めているならば嫌になってしまうなんていうことはないのです。
そして、もう一つのことは、主イエスは必ず来られるということです。私たちは誰もが必ず主イエスとお会いする時が来ます。再臨が先か、私たちの命が尽きるのが先か、それは誰にも分かりません。けれども、いつ主イエスが来られてもいいように、主を待ち望む信仰が私たちには求められています。そしてこの主は必ず来られるのです。聖書の約束は、すべて成就しています。主イエスが来られる約束も、聖霊が与えられる約束もそうです。主は忘れてしまわれたということはありません。また、神は死んでしまったのだということもないのです。私たちの主イエスは、今も生きて働いておられるお方です。そして、主の約束は必ず実現するのです。
信仰とは待ち望むことです。そして、待ち望むことは楽しいこと、嬉しいことです。収穫を待ち望む時の気持ちにも似ています。野菜を植えて、手間暇をかけて世話をし、収穫を迎えます。その収穫の時、実りを得た時の喜びは計り知れません。あるいは、結婚を控えた男女のようなものかもしれません。早く一緒になりたくて、心待ちにする気持ち。そんな思いにも似ているかもしれません。待つことは嬉しいこと、喜びです。そして、主は私たちの所にもう一度おいでになると約束してくださっているのです。その喜びの日は必ず来るのです。
信仰とはその日を待ち望むことです。主に期待し、主に信頼し、主を待ち望む。これが信仰です。そのために必要なことは、主イエスがどんなお方であるかを心に刻むことです。このお方に礼拝を捧げ、み言葉に耳を傾け、このお方に祈ることです。これが、私たちが待ち望んでいる間に、私たち主のしもべがするべき務めです。礼拝すること、聖書を読むこと、祈ること。これが、神が私たちに残してくださった、私たちの主をよく知ることができる方法なのです。
今日は、この礼拝の後で礼典部主催の学び会で「ディボーションの祝福」を学ぶことにしています。簡単に言うと、どのように聖書を読むかという話です。私たちには、聖書が与えられています。この聖書には、神が私たちに向けてくださった愛が満ち溢れています。この素晴らしい主を知ることは、私たちにとって喜びそのものです。私たちが主を待ち望む時、それは私たちが心から喜んで、豊かな主の恵みをいただく時です。私たちの主は、私たちのことを忘れることのない、恵み豊かな愛の神さまなのです。
お祈りをいたします。