2024 年 2 月 18 日

・説教 ルカの福音書11章1-4節「試みにあわせないでください~主の祈り7」

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2023.2.18

鴨下直樹

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 今週から受難節、レントを迎えました。主イエスが十字架にかけられるまでの40日間、教会では主の苦しみを心に留めて過ごすという習慣があります。国によってはこのレントの期間、肉を絶って生活するというような習慣のある国もあります。謝肉祭とか、カーニバルという言葉を聞いたことのある方もあると思います。これは、この期間は主の受難を覚えるために肉が食べられなくなるので、その前にどんちゃん騒ぎをして、この期間を乗り越えるためのエネルギーをつけておこうなどという習慣が生まれたのです。

 私たちは今週からレントを迎えるというタイミングで、主の祈りの中にある「私たちに試みにあわせないでください」という御言葉に耳を傾けようとしています。レントの期間というのは、先ほどお話したように、肉を食べないとか、好きなものを絶って、主イエスの苦しみを偲ぶ季節ということができます。このように、一方では自らに試練を課して、主の苦難を偲ぼうという習慣、もう一方では「試みにあわせないでください」と祈る。こうなると、私たちは互いに相反するようなことをしているのではないかという印象を持つのではないでしょうか?

 私たちは「試練」をどう考えているでしょう? 多くの場合、「試練」というのは、私たちを成長させるためには必要不可欠なものという認識が、どこかで私たちにはあると思います。けれども、ここでは「試みにあわせないでください」と祈るように勧められています。とすれば試練はない方がいいというわけです。これはいったいどういうことなのでしょう。

 「若い時の苦労は買ってでもしろ」という諺もあるくらいです。そう考えると、私たちが「試み」にあわないようにと祈るのは少しおかしい気もするのです。

「試練」というのは、この言葉にも表されていますが「試み」という言葉と「練る」という言葉で作られています。たとえば、私は鉄の専門家ではないので詳しくは分かりませんが、鉄を強くするためには精錬して、鉄を高熱で練り上げて、不純物を取り除いて、強い鉄を作り出していきます。ここには鉄の専門家がおりますから、あまり適当なことを言わない方がいいかもしれませんが、少なくとも私にはそんなイメージがあります。

 それで、少し気になって「試み」という日本語の意味を調べてみました。すると、面白いことが書かれていました。「心を見る」という言葉から、「試み」という言葉が生まれたというのです。その人の心を見る。その人が本当は何を考えているのかを見る。表面に出てきていない、その内側を見るというわけです。私たちは普段、心の内側は誰にも知られていないと思って、うまいこと表面上を取り繕って、ごまかしながら生きているかも知れません。だから、その人の内面を、心を見るために、試みに合わせる、テストするというわけです。

 私たちは、ひょっとすると神様からテストされてばかりではなくて、私たちの方でも神様の心を見てやろうと、テストするということがあるのかもしれません。本当にこのお方は信じるに値するのか、試してみたくなる。そうやって、たとえば願い事を祈ってみて、それが叶うかどうか、そういうことで判断をしようとすることがあるかもしれません。私たちが神を試みるということについては、今日のテーマではないので簡単にお話したいと思いますが、これは神を侮る態度ですし、結局のところ自分本位な態度だと言わなければなりません。

 今日、私たちが考えたいのは神が私たちを試みられることです。私たちが試されることがある。私たちの心が見られることがあるのです。けれどもそれは、神からの罰ではないということを、一方で私たちは知る必要があります。私たちは思いがけない不幸が訪れると、それは試練だと考えます。それと同時に、反射的に考えてしまうのは「何か悪いことをしてしまって、神様を怒らせてしまっただろうか?」と考えたり、「神のバチが当たった」と考えたりしてしまうのではないでしょうか。

 原因があって結果があるわけで、こうなったのには自分に何か悪い原因があるのではないかと、自分を責めてしまったり、神様を恨んだりする感情が私たちの心の中に浮かんできてしまいます。ここが、試練の怖いところです。

 病気になる、事故に遭う、災害で被害を被る、いろんな試練が私たちの人生の中で襲いかかってくることがあります。それらの出来事が起こると、それに付随して色々なことが起こります。そのためにたとえば仕事ができなくなる、経済的に厳しくなる、人が怖くなって外に出られなくなる、人を信じられなくなる。さまざまな感情が私たちを襲うようになります。そうなっていくと、平安でいられなくなってしまいます。そんな中で他の人を見ると、案外幸せそうにやっている気がして、他の人が羨ましく思えてしまう。自分だけが苦労を背負っているかのような錯覚を起こしてしまうことがあるのです。

 簡単に乗り越えられそうなことを「試練」とは言いません。「試練」には深い闇が潜んでいます。私たちはこの試練に対して、どう向き合うことができるのでしょう。

 そこで理解してほしいことがあります。その一つは「試練」と「誘惑」との違いです。先日の祈祷会で、この試練と誘惑の違いの話になりまして、ある方が「試練は人を成長させるが、誘惑はその人をダメにしてしまう」という言い方をされた方がありました。なるほど確かにそのように言えるかなと、私はそれを聞いて思いました。実は、この「試み」という言葉は、元々のギリシャ語は「ペイラスモス」という言葉ですが、この言葉は、「試み」とか「試練」とも訳しますが、「誘惑」とも訳すことのできる同じ言葉です。

 試練と誘惑が同じ御言葉だとすると、「試み」は必ずしも私たちを成長させる良いものとばかりは言えなくなってきます。「誘惑」というのは、私たちを神から引き離すもの、私たちに罪を犯させようとするものとなるからです。そして、試練も、誘惑も、実態は同じことです。受け止め方で、試練と感じたり、誘惑と感じたりするということなのでしょうか? 問題は試練が起こったり、誘惑を覚えたりする時というのは、私たちにとってそれは「信仰の危機」なのだということを理解しておく必要があるのです。

 だから主イエスはここで「試みにあわせないでください」と祈るように勧めておられるのです。

 「試みにあったときに、私たちが神から離れて罪を犯すことがありませんように」というのが、この祈りの主な意味なのです。

 私たちは、主イエスの伝道の生涯、公生涯のはじめに40日の断食の後で、悪魔の試みにあわれた出来事を知っています。この出来事のことを「荒野の誘惑」と言います。そこで、サタンは主イエスに対して「石をパンに変えるように」次に、「悪魔にひれ伏すように」、また最後には「神殿の屋根から身を下に投げて、み言葉にあるように御使いが守ってくださるかどうかを見ようではないか」と誘惑します。けれども、主イエスはこの三つの試練、誘惑を見事に退けられました。主イエスは伝道の生涯をはじめるにあたって、サタンに勝利され、神の御心に生きる姿を私たちにお示しになられたのです。

 ただ、主イエスの場合、荒野の誘惑で試練が終わったわけではありませんでした。その後の主イエスの歩みも常に試練の連続です。主イエスが伝道を始められると、パリサイ人たちや律法学者たちから攻撃され、群衆たちは自分の願い、要求を叶えてくれる救い主を求め続けます。そして、今週から受難節を迎えたのですが、十字架にかけられる前の夜には、三人の弟子たちを連れて、ゲツセマネで、「この杯をわたしから取り去ってください」と祈られました。死の直前まで主イエスは試練を受けておられたことになります。

 十字架にかけられた時の主イエスのお姿を、私たちが見る時に覚えるのは、主イエスは最後の時まで常に試練に立ち向かっておられるということでした。

 私たちはこのような主イエスのお姿を知っていますから、試練や誘惑が、この主の祈りを祈ることによって私たちから完全に取り去られるというようなことではないことは理解しておく必要があります。

 しかし、もし、私たちの歩みから試練がなくなることはないのだとしたら、いよいよ私たちはこの祈りを切実に祈り求める必要があることになります。なぜなら、私たちが誘惑されて、私たちが神から離れてしまうことがないようにと、私たちは日毎に祈り求める必要があるからです。私たちは主のように誘惑に立ち向かっていける強さを持っていられるか分からないからです。主イエスがそうであったように、私たちにも試練が、いついかなる時に襲いかかってくるか分かりません。そうだとしてもそこで、私たちが神から離れてしまうことがないようにという祈りは、私たちにとってどうしても必要なことなのです。私たちは祈って備えるのです。

 そして、それと同時に、もう一つのことを私たちは知らなければなりません。それは、私たちの主は私たちが試練を受けることがあったとしても、私たちの信仰がなくならないように祈っていてくださるお方だということです。

 先週の金曜日のことです。私は今東海聖書神学塾で組織神学の「救済論」という学びを行っています。先日が最後の講義だったのですが、そこで私が話したのは「聖徒の堅忍(けんにん)」という教理です。あまり、馴染みのない言葉かもしれません。これは、おもに宗教改革者カルヴァンの流れの教会で教えられていた教理ですが、今ではかなり広く受け止められています。この「聖徒の堅忍」というのは、主によって救われた者の信仰は、主がその人を信仰から離れることがないように堅く保ってくださるという理解です。「堅忍」と言わないで「保持」という場合もあります。

 このことは福音書でも、またパウロも手紙の至る所で語っています。ただ、この考え方はこれまでの歴史の中で色々と考えが変わってきました。教会教父のアウグスティヌスも、宗教改革者ルターも、カルヴァンもこの聖徒の堅忍ということを語っています。

 ですが、この教えは歴史の中で、諸刃の剣となったという事実があります。主がその人を召して、聖霊を与えてくださった聖徒は、クリスチャンは、神様がその人の信仰を保ってくださるというわけですから、少し乱暴な言い方をすると、洗礼を受けた人は絶対に天国に行けるというように理解されてきたわけです。

 そうなるとどうなったかというと、教会の歴史の中ではその時代のことを「死せる正統主義」という言葉が生まれたのですが、「もう洗礼を受けてクリスチャンになったのだから、カトリック教会のように徳を積んだり、救われるために毎週教会に行く努力をする必要はないんだ。もう毎週がんばって教会に行かなくてもいいよね? どうせ教会に行かなくても天国に入れてもらえるんだから」というように理解されてしまったのです。それで、私たちこそが正当な教派だと言ってきた宗教改革の流れの教会の人々は、だんだん教会に行かなくなってしまったわけです。それで「死せる正統主義」などと言われるようになってしまったのです。そしてこの理解は、今日に至るまでヨーロッパではかなり深刻な問題となっています。

 それで、この考え方が良くないという反省が起こります。そこで「敬虔主義」と呼ばれる運動が起こります。「敬虔なクリスチャン」という時の、敬虔です。これは、少し難しい話ですが「アルミニウス主義」として知られることになるのですが、要は「敬虔なクリスチャンにならないと、救われないかもしれないよ?」と言うようになっていったわけです。本当の生きたクリスチャンなら、ちゃんとそれは信仰の態度にあらわれるはずで、神様に自分から応答して、態度で証ししていく必要があると教えるようになっていったのです。そして、この「アルミニウス主義」とか、「敬虔主義」のおかげで、教会は死んだ信仰から、息を吹き返していきました。それと同時に、「聖徒の堅忍」という言葉が忘れ去られるようになっていったのです。私たちの同盟福音基督教会も、この「敬虔主義」の影響を色濃く受けている教会です。

 けれども、このクリスチャンの信仰は神様から離れないように守ってくださるという教えがなくなっていくと、私たちはちゃんとしていないからダメだ。天国にいけないかもしれない。救われていないのかもしれないという不安感と直結していきます。そうなると、誘惑や試練というのは、とてつもない大問題となっていきます。試練を味わうと、神様から離れてしまうという不安に襲われるようになっていくのです。

 私たちは確かにイエス様を信じて、救われたはずなのに、ひょっとするとそれは気のせいで、私たちが手を離してしまえば、私たちは真っ逆さまに、滅びに陥ってしまうと考えさせられてしまいます。しかし、そうなると、救いはすべて神の恵みですとは、もはや言えなくなってしまいます。

 死んでみるまでは本当に天国に入れていただけるか分からないという考えになっていくからです。けれども、もしそうだとすると、私たちは神様の子どもですとか、罪が赦されているとか、義と認められるという教理は、そのように教えているけれども、実はフィクションですということになってしまいます。

 けれども、主イエスの受けられた苦しみは、そんな不確かなことのために受難の道を歩まれたわけではありませんでした。実際、主イエスはゲツセマネの祈りの前にも、弟子のペテロの裏切りの予告をした時に、こう言われました。ルカの福音書22章31節と32節です。

「シモン、シモン。見なさい。サタンがあなたがたを麦のようにふるいにかけることを願って、聞き届けられました。
しかし、わたしはあなたのために、あなたの信仰がなくならないように祈りました。ですから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」

 シモンは、この祈りの後で、主イエスの裁判を見ている時に、三度主イエスのことを知らないと否定してしまいます。ペテロは、主イエスのことを裏切ってしまうのですが、主のこの祈りのゆえに、やがて立ち直って、主の弟子として、また教会の代表として用いられていくようになるのです。

 このペテロの姿からも分かるように、私たちは主を捨ててしまうような試練を経験することがあるのです。けれども、大切なことは私たちが罪を犯してしまった時、失敗してしまった時に、もう私はダメだ。もう主に顔向けできないとなってしまうのか、その後に悔い改めて立ち返ることができるのかで結果は大きく変わってくることになるのです。

 私たちは、この「私たちを試みにあわせないでください」という祈りを祈る時に、私たちはこの主の祈りによって支えられている。この「聖徒の堅忍」と言われるように、私たち主を信じて信仰に生きるようになった者には、主がその信仰を堅く握っていてくださって、その信仰を忍ばせてくださるということを知っていることが大切なのです。

 そうでないと、私たちの気持ちが強い時には信仰があるけれども、弱っている時には信仰が無くなってしまったというような、不確かなものになってしまうのです。けれども、私たちの信仰は、そのようなうつろいやすいものではなく、主が私たちにすでに救ってくださって、神のものとしてくださっているという確かな事実によって支えられていることを知ることが大切なのです。

 私たちの主は、私たちを救うために自ら試練を受け取ってくださって、私たちをその命で贖ってくださいました。私たちの主の救いが確かであるからこそ、私たちは私たちに与えられた救いが確かであることを受け止めることができます。主イエスのいのちの確かさで、私たちは救い出されているのです。ですから、私たちが試みを受ける時、さまざまな困難に直面する時、どうか自分にこう言い聞かせてください。

 それは、かつてルターが自分に言い聞かせた言葉でもあります。その言葉はこうです。

 「私は確かに救われている。私は洗礼を受けている!」です。

 洗礼は、私たちの救いの確かな証拠です。それは、私たちのその時の気分や状態で無くなったりするものではありません。私たちに与えられた信仰は、事実として残っているものだと、洗礼によって確認することができるのです。だから、「私の信仰」は、私のために命を投げ出してくださり、苦しみを受け取ってくださった主イエスによって確かにされているのだ。そう、自分自身に言い聞かせていただきたいのです。

 その時、私たちは、「神から離れてしまう」という罪から、身を守ることができるようになるのです。私たちは、この主イエスが与えてくださった信仰、主の「信実」によって救われているのです。

 お祈りをいたしましょう。

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