・説教 ルカの福音書11章1-4節「罪の赦しを~主の祈り6」
2024.2.11
鴨下直樹
⇒ 説教音声のみの再生はこちら
主の祈りも今日で6回目になりました。こんなにゆっくりと解き明かしをしなくても良いのではないかという声も有るかもしれません。けれども、この祈りは私たちの信仰の歩みの根幹を支えるものですから、できるだけ丁寧にみ言葉に耳を傾けたいと願っています。
今日は「私たちの罪をお赦しください」という祈りです。ここでは、罪の赦しを祈り求めます。
「罪」。この言葉は、教会に来るようになった人の多くが、最初に戸惑う言葉の一つです。私たちは、クリスチャンになる前は、「罪」という言葉を「犯罪を犯すこと」という意味で認識している場合が多いと思います。ですから「あなたには罪があります」と言われると、「自分は警察にお世話になるようなことはしていない」と抵抗したくなります。けれども、教会に集うようになって、聖書の話を聞いていくうちに、この「罪」というのはどうやら「犯罪を犯した」という意味ではないことが少しずつ理解できるようになってきます。
この「罪」という言葉は、ギリシャ語で「ハマルティア」と言います。そのもともとの意味は「的が外れている」という意味です。向くべき方向を向いていないことという意味です。では、その「的とは何か?」というと、それは「神」と言ってもいいし、「神が願っている生き方」と言っても良いものです。この私たちが向かうべき「的」とも言えるゴールというのは、神の目にかなう生き方ができていることを指します。このことを「義」と言います。そして、この神の目にかなわない生き方のことを「罪」と言うのです。
では、その神の願う生き方とは何か?と言った時に、教会は何を教えてくたかというと、「十戒」と「主の祈り」と「使徒信条」の三つの文章を、三つの要の文、「三要文」として、これをを中心に教会は信徒に教えてきました。もちろん、三つの文章で神の御心をすべて知ることができるわけではありませんが、中心的な事柄が、この三要文で扱われているのです。そういう意味でも、今私たちはこの主の祈りの、み言葉を丁寧に聞き取っていこうとしているわけです。
特に、三要文の中の「十戒」には、神からの10の戒めが記されています。そこでは、神がどう私たちに生きることを命じられているかが分かります。この十戒は、さらにまとめると二つのことを教えています。ここでは「神を愛すること」と「隣人を愛すること」の大切さが教えられていると言えます。ということは、「愛すること」が、神の御心の中心部分だということが分かってきます。つまり「罪」というのは、「犯罪を犯した」ということではなくて「愛さなかったこと」が問題になっているとも言えるわけです。神を愛さなかったこと、あるいは私たちの周りの人々を愛さなかったことが罪と言えるのです。
「愛する」というのは、私たちの内側から出てくる自覚的な行動によって示されます。そして、その愛というのは、ギブ・アンド・テイクの愛、見返りを求める愛ではなくて、一方的に与える愛だということを私たちは何度も何度も聞いています。これが神の愛だからです。けれども、一方的に与える愛というのは、どういうものなのかとなると途端に解らなくなってしまいます。
愛を知る。これは、とても短い言葉ですが、とても難しいことです。けれども、どうして愛を知ることを難しく感じてしまうのでしょうか? 私たちは生まれた時から、たくさん愛を受けて育ってきたはずです。だから、本当は愛をたくさん知っているはずです。ところが、私たちは子どもの頃から、この愛を受け取ることがうまくできないようです。慣れてしまうからでしょうか。それとも当たり前だと思ってしまうのでしょうか。毎日毎日、私たちが生きていけるように、親が働いてくれて、親が世話をしてくれて、衣食住を整えてくれていて、そこには十分な愛が示されているはずなのに、気づくと不満ばかりを見つけてしまう、これは一体どうしてなのでしょう。
押し付けが過ぎるのでしょうか?それとも、もっと高品質の愛を求めているからなのでしょうか?
実際には、私たちに愛を示してくれている親の愛さえも、うまく受け留められない状態ですから、神様から示される愛というのは、もっと受け取りにくいものなのかもしれません。やってくれて当然、毎日の生活が支えられているのはあたりまえ、そんな思いになってしまっているのかもしれません。
親とのキャッチボールがうまくできず、神様とのキャッチボールも上手くできないとなると、受け取りにくいボールを投げてくる親が悪い、神様が悪いということになっていく。そうなってくると、私たちは本当に残念な存在と言わなければならなくなります。
安心して生きることのできる日常も、美味しい食事も、居心地の良い生活も受け留めることができないとなれば、もうどうすることもできません。
信仰の学びをする時に、創世記から順にみ言葉を聞いていくことがあります。そのときに、初めの方で学ぶ重要な言葉があります。それは「応答責任性」という言葉です。私たちは神のロボットとして創造された存在ではありません。自分の意思で判断するように造られました。ですから私たちは、この神様のしてくださったことに、自分の責任で応答する必要があるということを知るのです。
美味しいものを食べたら「美味しい」と言い、嬉しいことがあれば「ありがとう」と言う。もし、この応答責任を果たさなかった場合、それは私たちの責任です。そこから「罪」が始まっていくのです。
「私たちの罪をお赦しください。」この祈りは、私たちにとって切実な祈りです。私たちのことを、ご自分のいのちを捨ててまで愛してくださる神の愛が受け留められていない、そこからくる祈りです。でも、主は、そんな愛をうまく受け止めることのできない私たちに、愛想を尽かしてしまうこともなく、諦めることもなく、私たちに今も心を向けて愛を示し続けてくださいます。
この主の祈りの後半にはこうあります。
私たちも私たちに負い目のある者をみな赦します。
これは色々と分かりにくい祈りです。まず、気になるのが「みな赦します」という言葉です。私たちは全部赦しますと祈るのです。何を赦すのかというと、「私たちに負い目のある者」です。では、「私たちに負い目のある者」ってどういう人たちのことなのでしょうか?
まず「負い目」って何? と引っ掛かりを覚えます。「負い目」というのは「負債」のことです。簡単にいうと「借金」のことです。私たちに負い目のある人が、私たちの人間関係にはいるというわけです。この場合の被害者は私です。私が赦してやらなければならない側にいるのです。借金は返さなければならない負債です。ということは、貸した側は優位な立場にいることになります。ところが、せっかくの優位な立場にいるのに「みな赦します」と、ここで祈るわけです。
「えっ?ちょっと待って! そんな勝手に言わないで!」と言いたくなります。誰かに10万円を貸している、返してくれると言うのなら話は簡単です。「ありがとう」と言って受け入れればいいだけです。でも、その借金を「ゆるします。無しにしてもいいです」と祈るようにというわけですから、私たちは心中穏やかではいられません。
赦すということは損をすることと同義です。さて、どうしましょう? こんなとんでもないことを私たちはお祈りできるのでしょうか?でも、主イエスはこう祈りなさいと言われるのです。
そこが、この祈りのミソです。私たちに考えさせるポイントです。まず、そこでは、そんなことをしたら損をするという感情が起こります。そして、実際に赦すとなれば損をすることになるわけです。
そこで、私たちは考えるのです。「本当に損なのか?」私たちはこの祈りの前に、「私たちの罪をお赦しください。」と祈っています。ということは、私たちは主なる神様に負い目を負っています。借金があります。それも莫大な借金です。その借金の金額は「イエス様のいのちの代価」と言い換えることができます。
刑事事件では身代わりなんてことはできませんから、イエス様が身代わりとなって私たちの罪が赦されるという話自体が、何となくピンとこないという人もあるかもしれません。私が学んだ神学校の先生は、「これは民事裁判のように理解するとよい」と教えてくださいました。なるほど、確かに反則金であれば誰かが代わりに用立てることもできます。
いずれにしても、私たちの主は、私たちを罪から救うために身代わりとなって、その負債の支払いをしてくださいました。なので、私たちは主に借金があります。まだ、その返済が済んではいないので、私たちは精一杯神に感謝して、神の御思いに応えて生きる必要があります。それが、罪と離れて義に生きるという生き方です。
その生き方の一つとして、「私たちは私たちに負い目のある者を赦す」ということが求められるわけです。ですから、私たちが人を赦すことは損をすることではないわけです。神が損をしておられて、その神への負債を、私たちは私たちに負い目のある者を赦すことで、神に返済をしていくことになるのです。
この祈りの理屈はそういうことです。
こうやって理屈を牧師が一生懸命説明しても、感情がついてこなければどうにもなりません。赦すということは損をすることには違いないのです。でも、主イエスはだから、こう祈るように勧めているのです。「私たちも私たちに負い目のある者をみな赦します。」と、自分自身に言い聞かせるように、自分自身に宣言するかのようにして祈りなさいと言われるのです。
愛を受け取ることの下手な私たちは、神の愛も、隣人からの愛も、なかなか上手に受け取れません。けれども、人にされた嫌なことは、とても上手に受け取ることができます。だからこそ、「私は赦します」「あのことも赦します」「このことも赦します」そう祈ることを通して、赦しを自分自身の中に刻み込んでいくのです。
私たち自身にその覚悟と自覚を与えるように祈るのです。
昨日、神学校で、ある教会の女性の牧師とお話をしました。その先生は、教会の若い奥さんの何人かは、もう夫がゆるせなくて、ゆるせなくて仕方がないが、今離婚すると大変なので今は我慢している。けれども、今のうちに資格をとって仕事を覚えて、夫が定年退職になったと同時に、離婚状を突きつけて見返してやりたい。「この見返してやる」という気持ちが、生きるモチベーションになっている人が少なくない数いるという話を聞かせてくださいました。
とてもリアルな声だと思う反面、とても苦しい毎日だなと聞きながら思いました。怒りがエネルギーになる。そういうことがあるのかもしれません。その牧師は、こうも言っていました。「日本人は忠臣蔵が大好きなんです」と。復讐の物語を、どこかで爽快に感じるのだと。
けれども、ここには何の福音もありません。そこにあるのは罪の悲惨さです。私たちの主の御心は、憎しみに生きることではなく愛に生きることです。
そして、愛に生きるために、どうしても必要不可欠なのは「損をすること」なのです。でも、その損は全部神が負ってくださる。これが、主イエスによって示された愛です。
愛は赦しです。ひたすら赦すことでしか愛は育ちません。馬鹿みたいに、何度も何度も、赦すこと。損をすること、自分には一ミリの非が無かったとしても赦すことです。そんな愛を、主イエスは私たちに示してくださったのです。
愛を示して、示して、示し続けても返ってこないことがあります。赦して、赦して、どれだけこちらからボールを投げても受け取ってもらえない。そんな悲しみを経験することがあります。本当に、どうしようもないほど鈍い人もいる。残念ながらいる。それも事実です。そうすると虚しくなってきます。そして、だんだん我慢の限界が近づいてくることもあります。でも、我慢の限界があることもまた福音なのです。そこまで愛を示したからです。我慢の限界が来てブチ切れることがある。その時にやってしまったと後悔する。でも、それは、実は神もなさることなのです。
「愛の反対は無関心です」と、かつてマザー・テレサが言いました。無関心になるまでは、少なくとも愛したのです。でも、愛することに飽きてしまわないで頂きたいのです。無関心にならないで頂きたいのです。時々、爆発してもいい。怒ってもいい。それは愛の表れです。でも、そのあと、もう一度赦すのです。愛するのです。そうやって、私たちは少しずつ、愛することを学んでいくのです。
神の裁きがあるのも、これと同じです。神の愛にも限界があるのです。タイムリミットがあるのです。それは、神が私たちに対して無関心ではいないことの表れです。
私たちの罪をお赦しください。
私たちも私たちに負い目のある者をみな赦します。
私たちは、この祈りを日毎に祈るのです。自分に言い聞かせるように祈るのです。その時、私たちは主の愛に触れていくのです。こう祈るごとに、私たちはキリストの愛の大きさを知るようになっていくのです。
この祈りを祈り続けていく時に、私たちは人の罪を数えることから、自分の罪へと目が向かっていくようになります。そして、自分から、主イエスへと目が向かうようになっていくのです。そして、ついには私たちがキリストの、み顔を見上げられるようになった時には、私たちはこの愛を、完全に自分のものとしていくように、キリストのように変えられていくのです。
お祈りをいたします。