2024 年 2 月 25 日

・説教 マタイの福音書6章25-31節「心配しなくて良いのです」田村洸太神学生

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2023.2.25

田村洸太

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 皆さんおはようございます。今日は2月最後の主日礼拝となります。次週からは、もう早いもので3月になります。

 皆さんは、3月と聞きますと、どのようなことをイメージされるでしょうか。3月というのは、子どもにとっても大人にとっても、年度替わりの季節です。学生であれば1年間のまとめ、進級、進学、または就職といった新しいステージへと飛び込んでいく時期です。大人であれば、新卒社員が入社してくる4月に向けて、人事異動や部署内の人員調節などが行われていく時期です。当教会でも先週、教会総会が行われ、来年度に向けた話し合いの場がもたれました。

 新しいスタートを迎えようとするこの季節は、来年度に向けての期待感と共に、今までとは違った状況に身を置くことになるため、心配や不安もまた大きくなる時期ではないでしょうか。

 本日は、そのように心配や不安が大きくなる時期を迎えるにあたって、私たちキリスト者が一体、何に目を向け、どのようにして信仰生活を歩んでいけば良いのか、そのことをマタイの福音書6章25節から31節のみことばを通して、味わっていきたいと思います。

 まず初めに今日の説教箇所のみ言葉が、どのような状況の中で語られたものであるのかについて、見ていきたいと思います。マタイの福音書6章の少し前、4章23節〜25節にこのようにあります。

イエスはガリラヤ全域を巡って会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、民の中のあらゆる病、あらゆるわずらいを癒やされた。
イエスの評判はシリア全域に広まった。それで人々は様々な病や痛みに苦しむ人、悪霊につかれた人、てんかんの人、中風の人など病人たちをみな、みもとに連れて来た。イエスは彼らを癒やされた。
こうして大勢の群衆が、ガリラヤ、デカポリス、エルサレム、ユダヤ、およびヨルダンの川向こうから来て、イエスに従った。

 あらゆる悩みを抱える大勢の人々が、全土からイエス様のもとに集まり、癒やされ、従ったとここに書かれています。そして、次、5章の初め。

その群衆を見て、イエスは山に登られた。そして腰を下ろされると、みもとに弟子たちが来た。
そこでイエスは口を開き、彼らに教え始められた。

 大勢の群衆が集まって来るのを見て、イエス様は山に登られたとあります。そして、山の上で弟子たちや群衆に向けて、教えを語り始められました。イエス様のこの教えは、5章の初めから7章の最後まで続いていきます。

 ここで語られた多くの教えは、山上の垂訓や山上の説教とも呼ばれ、当時の人々の考えや価値観を大きく刷新するものでした。

 本日の説教箇所もそのような状況の中で、多くの悩みをもつ人々に対して語られたみ言葉です。それでは、早速今日の聖書箇所に移っていきたいと思います。25節。

ですから、わたしはあなたがたに言います。何を食べようか何を飲もうかと、自分のいのちのことで心配したり、何を着ようかと、自分のからだのことで心配したりするのはやめなさい。いのちは食べ物以上のもの、からだは着る物以上のものではありませんか。

 25節冒頭、「ですから」という接続詞によって始められています。イエス様は、この一つ前、24節において、「あなたがたは神と富とに仕えることはできません。」と語っています。そして、この25節から神に仕える者たち、言わば私たちキリスト者が一体どのような価値観、視点を持って、生きていけばよいのかについて語り始めます。

 何を食べようか何を飲もうかと、自分のいのちのことで心配したり、何を着ようかと、自分のからだのことで心配したりするのはやめなさい。いのちは食べ物以上のもの、からだは着る物以上のものではありませんか。

 ここでイエス様が語るのは、人々の生活の中で起こってくる価値観、優先順位の迷走についてです。

 本来、私たちのいのちを生かすために食べ物、飲み物が造られたのであって、食べるため、飲むために私たちにいのちが与えられたわけではありません。私たちのからだを着飾り、寒さや暑さから身を守るために服が存在するのであって、服を着るために私たちのからだが造られたわけでもありません。神が私たちを恵みによって富ませてくださるのであって、富が私たちを豊かにしてくれるわけではないのです。

 この世界が造られた時から、今も変わらないこの世界の秩序を、人間はいとも簡単に忘れてしまう。見失ってしまう。イエス様はここで何が一番、重要であるのかをもう一度、思い出させてくださっているのです。

 先日水曜日の、聖書の学びと祈り会で、直樹先生が、創世記を通して語ってくださいました。神様は、私たち人間を創造される前に、私たちに必要な全てを整えてくださいました。そして、全てが整えられた状況の中、「さあ、人を造ろう!」と仰られ、人間を創造されたのです。

 この「さあ」という言葉には、神様の期待感、「とうとう準備が整ったのだ」という喜びの思いが感じ取れます。神様がこの世界のすべてを創造された最大の目的は、人を造ること、また生かすことにあったのです。

 大切ないのちやからだは、神様が私たちに与えてくださったものです。であば、それよりも小さなこと、食べ物や飲み物、着る物などの私たちに必要なものすべてを神様が与えてくださらないわけがないのです。

 しかし、私たちはそのことを理解していながら、時に、目に映る物質的な物ばかりに目を奪われ、神様を見失い、不安や心配に陥ってしまうことが多々あります。ですから、主はこう言われるのです。

空の鳥を見なさい。種蒔きもせず、刈り入れもせず、倉に納めることもしません。それでも、あなたがたの天の父は養っていてくださいます。あなたがたはその鳥よりも、ずっと価値があるではありませんか。

 イエス様はここで、神様の造った世界、神様が養う被造物を見なさいと言われます。私たちの目には無計画で、常に自由気ままに、人と比べればはるかに怠惰に暮らしているように見える鳥が、なぜ毎日、生きていられるのか。それは、神様が養ってくださっているからだと言われます。

 ここでイエス様は、私たちに鳥のように無計画で、怠惰であるようにと勧めているわけでは決してありません。神様は私たちに多くの仕事、役割をも与えてくださっているからです。しかし、私たち人間が一体、何によって生かされているのかは、見誤ってはいけないとイエス様は、言っているのです。

 ルカの福音書12章16節から21節にこのようなたとえがあります。

ある金持ちの畑が豊作であった。
彼は心の中で考えた。「どうしよう。私の作物をしまっておく場所がない。」
そして言った。「こうしよう。私の倉を壊して、もっと大きいのを建て、私の穀物や財産はすべてそこにしまっておこう。
そして、自分のたましいにこう言おう。『わがたましいよ、これから先何年分もいっぱい物がためられた。さあ休め。食べて、飲んで、楽しめ。』」
しかし、神は彼に言われた。「愚か者、おまえのたましいは、今夜おまえから取り去られる。おまえが用意した物は、いったいだれのものになるのか。」

 この世界に生きとし生けるもの全てのいのちは、神様によって養われています。富や財産によってではありません。私たちのいのちは一羽の鳥よりもはるかに価値あるものです。そんな一羽の鳥さえも愛し、その全てを養ってくださっている神様が、私たち人間を大切にしてくださらないわけがないのです。ですから、心配はいりません。主は私たちの必要を全て知っておられる方だからです。27節。

あなたがたのうちだれが、心配したからといって、少しでも自分のいのちを延ばすことができるでしょうか。

 心配することによって、自分のいのちを延ばすことは出来ません。むしろ、心配は、人のからだやいのちをどんどん蝕んでいきます。

 心配によるストレス、それによって引き起こされる頭痛や腹痛。円形脱毛症に不眠症、不安症。心配によって引き起こされる病は、数えきれないほどにあります。心配は、からだやいのちを健康にするどころかどんどんと人を害していくのです。私たちは心配を手放さなくてはいけません。28節。

なぜ着る物のことで心配するのですか。野の花がどうして育つのか、よく考えなさい。働きもせず、紡ぎもしません。

 イエス様は次に、野の花を引き合いに出されます。ここで語られている野の花というのは、人が種を蒔き、水をやり、肥料を与えて丹精に育てる花のことではありません。気づけば、どこからともなく生え出してくる雑草のような花のことを言っています。そんな野の花でさえ、働きもせず、紡ぎもしないのに生きています。それどころか、時期がくれば美しい花を咲かせます。神様が養ってくださっているからです。29節。

しかし、わたしはあなたがたに言います。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも装っていませんでした。

 長きにわたる人類史の中で、最も富を得たとされるソロモンでさえも、その美しさ、栄華は、人の目には、比べものにならないほど劣って見える野に咲く花ほども無かったとイエス様は言われます。

今日あっても明日は炉に投げ込まれる野の草さえ、神はこのように装ってくださるのなら、あなたがたには、もっと良くしてくださらないでしょうか。信仰の薄い人たちよ。

 野の花のような儚い存在、ちっぽけで、多くは私たちの目に触れることもなく、ひっそりと咲いている存在でさえも、神様は、美しく着飾ってくださる。そんな憐れみ深い主が、野の花よりもはるかに価値ある私たちに対して、良くしてくださらないわけがないのです。

信仰の薄い人たちよ。

 この言葉は、私たちを間違った視点から、正しい視点へ。目を向けるべきものへと向け直させてくださる主イエス・キリストの愛の言葉です。叱咤激励とも言える言葉です。この言葉は、マタイの福音書の他の箇所においても見られます。

 ある時は、大荒れの湖で、大波が押し寄せ、舟の上で怖がる弟子たちに対して語られました。またある時は、夜明けが近づく湖の上、強風が吹き荒れ、怖がり、沈みかけていたある一人の弟子の手を掴みながら語られました。

 どの場面においても、この「信仰の薄い人たちよ」というイエス様の言葉は、実際に起こる問題や困難に目を奪われる弟子たちに対して、見るべきものは、恐れや不安を与えるものではない。主イエスキリストご自身に目を向けさせるため、発せられた言葉でした。

 そして、弟子たちがイエス様に目を向けた時、実際に風は止み、波はおさまったのです。目に見える問題や困難に目をとめるのではなく、私たちの救い主、主イエス・キリストに目を向けるなら、問題や困難の中にあっても、心配や不安から私たちは解放されるのです。

 「信仰」は、ギリシャ語で「ピスティス」。信じることは、「ピステューオー」という言葉で表されます。新約聖書における「信じる」という動詞のほとんどに、「~の中に/(ギ)エイス」や、「~の上に/(ギ)エピ」というが言葉が、セットで用いられています。これは、救い主イエス・キリストの中に、または上に、私たちのすべてを、不安や悩みもなにもかもすべてを委ねることこそが、聖書の示す信仰であることを意味しているのです。

ですから、何を食べようか、何を飲もうか、何を着ようかと言って、心配しなくてよいのです。

 私は、芥見教会へ初めてきた時に起こったことが今でも忘れられません。当時の私は、多くの不安を抱えていました。全く知らない土地での暮らし、神学校へ通いながら、仕事をし、教会の奉仕も上手くこなせるだろうか、何よりも芥見教会の皆さんと馴染めるだろうか。本当に数え切れないほど多くの不安の種がありました。ですが、主はその不安を取り除いてくださいました。

 皆さんも覚えておられるでしょうか。芥見教会へ初めて来た時、鴨下夫妻と一緒に、朝、草刈りに来ていたYさんと朝食を取りました。
その際、私たちが群馬県から来たことをお伝えすると、Yさんも実は、群馬県に何度も足を運んだことがあり、娘さんの通っていた高校の同級生も、群馬県に住んでいると話してくれました。それから話題はどんどんと盛り上がり、ある一つのことに気づかされました。それは、Yさんが話しているこの娘さんの同級生というのは、私の兄のことだということです。私はあの時の驚き、あの場にいたみんなの驚いた顔を今でも鮮明に覚えています。

 次の日にも驚くべきことがありました。その日は、日曜日でした。前の週にFさんが、高校の同窓会に参加され、ある一人の方がみんなの前で話をしてくれたと、礼拝後の報告の時に話してくださいました。

 そして続けて、Fさんは、「今ここに来ている田村くんのお兄さんは、結婚していて、実は、その奥さんは、私が参加した同窓会で話をしてくれた方の娘さんなんです。」と話してくれました。今でもこの時の驚きも、芥見教会の皆さんの驚いた顔も私は忘れられません。

 岐阜での生活、芥見教会の皆さんと馴染めるかどうかという不安は、この時からもうどこかへ飛んでいってしまいました。「ああ、神様は本当に素晴らしい方だな」「私の不安を良く知っておられる方だ」。

 それからもさまざまな困難を経験しました。住まいのこと、仕事のこと、そして、新型コロナウイルスによる影響も計り知れない大きなものでした。不安や心配になることは、数え切れないほど何度もありました。ですが、どんな時でも、問題に目を向けるのではなく、ただ神様を見つめ、信じて歩むことが大切なのだと教えられたのです。

 私たちが目に見える問題、不安や心配に目をとめるのをやめ、神様に目を向けるなら、たとえ今、問題や困難が目の前にあったとしても、何か足らないものがあるように感じていたとしても大丈夫なのです。なぜなら、救いはいつも主から来るからです。

ですから、何を食べようか、何を飲もうか、何を着ようかと言って、心配しなくてよいのです。

 イエス様は、私たちが心配すること自体を、悪や、罪であると責め立てているわけではありません。ただ優しく、愛に溢れたこころで、「心配しなくて良いんだよ。わたしが共にいるから。」そう仰るのです。

 心配から解放され、私たちが主にある信仰生活を生き生きと生きられますように。また、芥見教会の皆さんの今年度の歩みが、不安や恐れから解放され、主からくる平安と喜びとに満たされた一年となりますように。

 お祈りいたします。

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