・説教 ルカの福音書12章1-7節「一羽の雀」
イースター礼拝
2024.3.31
鴨下直樹
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イースターおめでとうございます。今朝は、イースターということで、みなさんと共に朝食をいただき、その後で聖餐式をして、子どもたちは「イースターエッグ探し」をしてと、楽しい一時を過ごしています。今日は主イエスがよみがえられた祝いの日です。私たちが苦しみや試練、そして、私たちの最後に待ち構えている死、これらの恐れを主イエスが取り去ってくださったことをお祝いする日です。
このイースターの礼拝において、私たちに与えられている聖書箇所はルカの福音書12章の1節から7節です。この箇所で扱われているテーマもまた「恐れからの解放」です。
主イエスはパリサイ人や律法の専門家たちに向かって、神の思いがどこにあるかをお話になられました。この主イエスの話を聞いたパリサイ人や律法学者たちは主イエスに対する敵意を剥き出しにします。ところが、そのようすを見ていた群衆たちと、さらに大勢の人々がやってきます。1節には「数えきれないほどの群衆が集まって来て」と書かれています。また、「足を踏み合うほど」とも書かれています。それほどの人混みというのは満員電車か、ディズニーランドのアトラクションの待ち時間くらいでしか経験することはないかもしれません。それほど多くの人々の関心を集めたと、ここに書かれています。言ってみれば主イエスの伝道は大成功を収めたかのように見えるわけです。
ところが、主イエスはこれだけ人々が主イエスに関心を持ち、大勢の群衆が集まって来たにも関わらず、その群衆たちに語りかけたのではなくて、弟子たちに向かって語りかけます。ということは、主イエスの伝道というのは、大勢の人々に語りかけるというよりも、弟子たちに対して福音を徹底的に教えるということの方が重要であったことが分かります。それが、今日の箇所です。
この時弟子たちに向かって語られた主イエスの言葉は、12節まで続きますから、本来なら12節までまとめて説教すべきですが、二回に分けまして今朝は7節までとしました。ここで主イエスがまず弟子たちに向けて語られたのは、理由があります。主イエスがパリサイ人や律法学者たちに向けて語られた後、今度は弟子たちに話をされたのは、その意図を明らかにする必要があるからです。
ここで主イエスが語られたのは、一言でまとめると隠れているものは全て明らかにされるということです。
ここのところ、アメリカの大リーグでプレイする大谷選手とその通訳だった人が大谷選手のお金を使い込んでしまったというニュースでもちきりになっています。6億円という莫大な金額を、ギャンブルで負けてしまって、その支払いに困っていたということです。ここでこんな話をすると、もう皆さんの頭がイースターどころではなくなってしまいそうなのでやめたいと思いますが、この報道が出た時、誰の頭にも思い浮かんだのは、「そんなのどうやったっていつかはバレてしまうのに、どうして隠し通せると考えたのだろう?」という疑問ではないでしょうか。
これは、面白いもので他の人のこのような出来事を耳にすると私たちは冷静でいられますから、こんなにも分かりきったことが、なぜこの人は分からないのだろうと不思議がります。けれども、その問いかけを自分に向けてみるとどうでしょうか?
私たちの中に、「この秘密は墓場まで持っていかなければならない」と考えているようなことがないと言えるでしょうか。隠し事のない、心の中に何のやましさもない人間なんているのでしょうか。
時々、伝道していると「罪が分からない」という方と出会うことがあります。皆さんの中にもかつてはそのような思いでいたという方があったかもしれません。自分の罪が分からないというのは、ある意味ではとても幸せなことです。わざわざその罪に気づかせてあげなくても良いのかなと思うこともあります。もっとも、そこでいう「罪」という言葉を「犯罪」という意味に理解している場合が多いわけです。私たちは人との関わりの中で、これまでに誰も傷つけずに歩むことができている人がいるとしたら、それこそその人には救いは必要ないのかもしれませんが、そんな人は一人としておりません。まして、相手は神様です。神の御前で隠し通せることなど、一つもありません。
主イエスは言われました。2節です。
おおわれているもので現されないものはなく、隠されているもので知られずにすむものはありません。ですから、あなたがたが暗闇で言ったことが、みな明るみで聞かれ、奥の部屋で耳にささやいたことが、屋上で言い広められるのです。
主イエスはここでパリサイ人たちの問題点をこのように指摘しました。自分たちのしていることはバレないと思っている。今の政府の政治家も同じかもしれません。どうしても、人を教えたり、指導したりする立場の人間のところにはいろいろな特権が発生するのでしょうか。そうすると、自分の思うように何でもできると考え、隠し事も隠し通せるとでも考えてしまうのかもしれません。けれども、それらは、すべて必ず明るみに出ると、主イエスは言われます。ただこれは、「私たちはそういう立場にいないから安心だ」というわけではありません。これはどんな立場の人も例外なく、神はすべてを見ておられるということなのです。
この「神はすべてを見ておられる」という、主イエスのメッセージには二つの側面があります。一つは監視の目です。見張っているぞというメッセージです。けれども、もう一方では、「あなたのことを理解している」、「ちゃんと分かっている」というメッセージでもあるのです。誰からも評価されていなくても、神はその姿を正しく見ておられるというメッセージ。あなたがどんなに苦労しているか、どれほど心を痛めているか分かっているというメッセージです。
そこで、主は言われます。4節です。
わたしの友であるあなたがたに言います。からだを殺しても、その後はもう何もできない者たちを恐れてはいけません。
隠し事がある。秘め事がある。そういう人に知られたくない思いの背後にあるのは「恐れ」です。自分が非難されるかもしれないという恐れ、人の信頼を裏切るかもしれないという恐れがあります。そのような隠し事、秘め事の多くは罪に根ざしています。そして、それらの罪は、人を死に追いやってしまうことがあるのです。
主イエスはここで弟子たちに「友よ」と語りかけました。そこで主イエスは「あなたがたも彼らのようになるな」とは言われませんでした。人には恐れがあります。さまざまな恐れがあり、それが人を死へと追いやってしまうことがある。けれども、主はこうわれるのです。
「友よ、彼らにできることはせいぜい体を殺すことだ。その後はもう何もできない。そんなものを恐れるな!」と。
死に追いやられてはたまりませんが、主は、「人は死んで終わらない」と言われるのです。友よと語りかけられた主イエスは、その後でこう言われました。5節です。
恐れなければならない方を、あなたがたに教えてあげましょう。殺した後で、ゲヘナに投げ込む権威を持っておられる方を恐れなさい。そうです。あなたがたに言います。この方を恐れなさい。
「ゲヘナ」というのは英語の聖書などでは「地獄」と訳されているものもあります。もともとは、エルサレム近くにある「ヒノムの谷」という場所があり、この場所はかつてモレクの神に子どもを殺していけにえとして捧げる場所となっていました。その後、この場所は「ゲヘナ」と呼ばれ、廃棄物やゴミ捨て場、遺体を火葬する場所となりました。こうしてこの「ゲヘナ」は常に火で燃えている場所となったのです。
ですから、この「ゲヘナ」というのは、人が死んだ後に裁きを受ける裁きの場所という意味はもともとはないのですが、このゲヘナを主イエスは、死んだ人がその後、焼き滅ぼされる場所の比喩として語られたのです。そして、人のいのちの最後の鍵を握っているまことの神を恐れなさいと言われたのでした。
死ですべてが解放されるわけではない。その後で、神がそのいのちの鍵を握っておられるのです。人は死を迎えた後、神にそのいのちが託される。その時、私たちを本当の意味で裁かれる神を恐れなさいと主イエスは言われたのです。恐れるのは人ではなく、神ご自身なのだと。
そして雀の話をなさいました。これは主からの慰めの言葉となりました。6節です。
五羽の雀が、二アサリオンで売られているではありませんか。そんな雀の一羽でも、神の御前で忘れられてはいません。
アサリオンというのはこの時代の最小単位の銅貨のことです。欄外の中を見ると「1アサリオンは1デナリの16分の1。1デナリは当時の一日分の労賃に相当」とあります。
今、岐阜県の最低労働賃金の時給が1000円弱です。愛知県は1000円を超えました。一時間1000円で一日8時間労働とすると日給8000円が1デナリということになります。その16分の1だと、1アサリオンが500円、2アサリオンだとちょうど1000円ということになります。
ちょっと日本のお金の価値の低さが気になるところですが、この時代最も安い雀を買うのに5羽で1000円。ある説明ではもともとは1アサリオンで二羽の雀が買えたそうです。2アサリオン出すとおまけで一羽つけてくれて、五羽の雀を買うことができた。その時におまけでついてくる一羽の雀でさえも、神は見ておられる、知っておられるのだと言われたのだと書かれているものもあります。
おまけの一羽の雀。そんなふうに考えると一羽の雀の価値がいかに小さなものかと考えさせられます。しかし、主は、そんな一羽の雀でさえ、心を留め大切に見守っているのだと言われているのです。
そして7節です。
それどころか、あなたがたの髪の毛さえも、すべて数えられています。恐れることはありません。あなたがたは多くの雀よりも価値があるのです。
主イエスが語っておられる慰めの言葉です。神が見ておられるというのは、恐れの対象としてではなくて、慰めの対象としてだと主は言われるのです。主は死を滅ぼし、人を生かすために私たちを見ていてくださるお方です。
主は私たちの髪の毛一本一本のことまで主は知っておられるというのです。髪が減って悩んでいることも主は当然ご存知です。ですから、この主に隠せることなどありません。そうであるとすれば、この神の前に誠実に生きること、そして、この神が見ていたくださることの意味は、私たちを支えるためであることを知ることが大切なのです。
主は私たちを見られことで「恐れ」を起こさせて人を支配しようとなさるお方ではありません。人を死に追いやるのではなく、いのちへと導かれるお方です。人を恐れと死に支配させるのではなく、喜びといのちへと私たちを進ませるのです。
神の眼差しは、時に厳しい父の眼差しですが、その本質は愛と、いのちの眼差しです。主は私たちの価値を、私たち以上に知っておられます。一羽の雀も神のみ前には尊い価値ある命なのです。だとすれば、私たちの価値は主の前ではどれほど大きな価値と見出されていることでしょう。
今日はイースターです。主は、私たちの心の中にある死と恐れを取り除いてくださったことをお祝いする日です。主は、この喜びを私たちに与えるために、小さな私たち一人一人の、どんな小さなことにまで目をとめておられ、私たちにその愛を示そうとしておられるのです。
主は私たちの罪を、私たちが墓場までこの罪を隠し通さなければならないと考えていたような罪も、日毎の小さな罪も、人を傷つけてしまったり、誰かを裏切ってしまったりした罪も、一切の罪を背負うために十字架にかけられたのです。そして、その罪の一つ一つをもって、よみの世界、滅びの世界に投げ捨てて、三日目のこのイースターによみがえられました。私たちは、このすべての罪を贖ってくださり、もう私たちの罪を思い起こすことはないと言われる主の十字架と復活をこの覚えてお祝いするのです。主は、私たちを見ておられ、私たちを喜びの中に、平安の中に歩んでほしいと願っておられるお方なのです。
私たちはイースターのこの日、恐れを取り除いてくださる主の思いを、受け取って、主の復活を高らかに喜び、ほめたたえたいのです。
お祈りをいたします。