2024 年 3 月 29 日

・説教 ルカの福音書11章45-54節「預言者の血の責任を問う」

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受難日
2024.3.29

鴨下直樹

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 今日は受難日です。灰の水曜日から始まったレントも、今日で日曜を除いて40日が経ちました。前に並んでいた受難節のろうそくも全て消え、今日は黒いろうそく1本に火が灯されました。毎年お話ししていることですけれども、これで主イエスの命が完全に尽きたことを表現しています。教会の暦の中で生まれた習慣の1つです。

 毎週1本ずつろうそくの灯火が消えていって、この日全てのろうそくが消える。主イエスの命が尽きたことを、このように表現してきたのです。

 私たちの人生のことを考えてみる時に、私たちの寿命の残りがあとどれくらいで、今何本目のろうそくまで来ているのかが分かれば、残りの人生の過ごし方を考える機会にできるかもしれませんが、私たちは誰も自分の寿命の残り時間を知りません。ということは、私たちは、自分の人生をどう歩むかを先延ばしにすることはできないわけです。

 全ての人は、やがて死を迎えます。そして、その時に全てのことが清算されることになります。死んだ後からは何もすることができませんから、今、私たちがどう生きるかということが問われています。

 私たちは誰もが、この世界で生きるための判断基準を持っています。何が良いことで、何が悪いことか、善悪の基準は人によって違いますし、文化や時代によっても変わります。そこには、さまざまな価値観や、信念の違いが生まれます。そして、何が正しくて、何が正しくないのかを見極めることはとても難しいことです。

 聖書は、神がこの世界を創造されたと語っています。そして、この世界を創造された神は、この世界に生きる一人一人に、どう生きてほしいかを記録として残されました。それが聖書です。そして、聖書の興味深いことは、ここには人にとって都合の悪いことがたくさん書かれているということです。誰か頭の良い人の創作であるとすれば、完全な理想像を示そうとするのだと思うのですが、聖書はそうは書いていません。

 聖書の時代、この神の教えのことを「律法」と呼び、この律法をどのように正しく読み解くのかを教える「律法の専門家」と呼ばれる人たちがいました。

 この律法の専門家は、人々に聖書の読み方を助言するのが役割でした。ただ、ここで大きな問題が起こります。当時のパリサイ人や律法学者たちが、聖書に書かれている神の願いを受け取ることができていたら、なんの問題もなく、パリサイ人や律法学者の教えに耳を傾ければ良いわけです。ところが、この人たちが神の思いを受け取り損なってしまうと大変なことになってしまいます。

 どんな仕事でもこれと同様なことが起こり得ます。時計を直す人が時計の構造を理解していなければ壊れた時に直すことができません。医者が思い込みで病の人を診るることになれば、患者は見当違いの治療を受けることになってしまいます。

 聖書の専門家が、神の言葉の意図を間違って理解していたら、誰も神の意図を正しく聞き取ることができなくなってしまうわけで、こうなるともう大変です。神の創造されたこの世界で、神の願いを知らないままに人は生きなければならなくなってしまうからです。

 今日の聖書箇所は11章の最後の部分です。この前のところでは、パリサイ人に対して厳しい言葉を発せられた主イエスのお姿が描かれていました。今日の45節以下の部分はその続きの部分です。パリサイ人を非難なさった主イエスの言われる言葉を耳にして、今度は律法の専門家が、主イエスに「先生。そのようなことを言われるなら、私たちまで侮辱することになります。」と主イエスの発言に対して不快感を示したのです。

 パリサイ人と律法の専門家との違いが、私たちには少し理解しにくいのですが、簡単な言い方をすれば、律法の専門家はパリサイ人の上位互換の人です。パリサイ人よりもさらに上の立場の人です。主イエスのなさったパリサイ人への非難は、そのまま律法の専門家にも当てはまるので、彼らは不快感を示したのです。

 そして、ここから主イエスの厳しい発言は、今度は律法の専門家に向けられることになります。「わざわいだ」という言葉が、パリサイ人に向けられたと同じように、ここでも3度繰り返されます。

 主イエスがここで指摘されたのは3点です。掻い摘んで紹介します。まず第1の点は、あなたがたは人々に荷物を負わせるが、自分では指一本動かさないと言っています。律法学者たちは、神はこう言っておられると厳しい負担を民には強いるのですが、自分は発言した通りには行動していないということです。

 なんだか、説明しながら自分自身の首を絞めている気がしてなりません。「神様はこうするように望んでおられますよ」と言うのですが、要するに綺麗事で、実際に自分たちもやっていないようなことを人々に要求したのです。聖書を毎日読むといいですよ。お祈りもちゃんとしましょうね。献金も礼拝出席も、また教会で奉仕することも大切です。という具合にです。それを聞いた人々はどうなるかというと、良いことをちゃんとやったら神様は喜んでくださるんですねと思うようになります。

 それは言い換えれば良いこと、正しいことを行なっていなければ神様は私のことを祝福してくださらないし、私と一緒にいてもくださいません。そういうふうに思わせてしまうのです。そうなると、自信の無い神様の民がどんどん増殖していきます。そして、まるで律法の専門家たちだけが正しい信仰に生きているのだというように思い込まされていくわけです。だから、そういう教えをするあなたがたはわざわいだと主イエスはここで言われたのです。

 2番目のポイントは何かというと、神様のメッセージを民に伝えた預言者たちを殺したのは、あなたがただという主張です。これまで何人もの預言者たちが神から遣わされて、神のメッセージを語って来ました。51節の「アベルの血から、祭壇と神の家の間で殺されたザカリヤの血に至るまで。」というのは、ヘブル語の旧約聖書で最初に殺された人から、最後に殺された人までという意味です。

 神の民がどこで間違えて来たのかを何も学ばずに、今もなお過去の過ちを繰り返しているのは、あなたがたが聖書を正しく受け留めめていないからだという指摘です。

 そして、3点目は52節です。「知識の鍵」つまり「神の言葉」を預けられているのに、それを正しく用いず、神の国の入り口を開いて人を招き入れることをしないで、かえって、その扉を塞いできてしまったと言っておられるわけです。

 「えー聖書なんて堅苦しいし、自分にはできそうもないし、自分には必要ないかな」と思わせてしまったのは、あなたがた律法の専門家のせいだと主イエスはここではっきりと言明なさったのです。

 ここで語られている指摘は、今に生きている私たちにも、そのまま当てはまるとさえ言える言葉ですから、私たちはよくよく耳を傾ける必要があります。

 主イエスがここで言っておられるのは、「あなたがたは聖書を退屈なものにしてしまった」という批判です。

 私がこの芥見教会の牧師として願っていることは、「聖書を読むのは楽しい。分かる。ああ聖書というのはこうやって読むのか」と皆さんが体験して下さることです。いつも聖書の学びと祈り会に参加してくださっておられる方には、よりそのように感じてほしいと思っています。

 私自身、この教会の皆さんと聖書を読むことをとても楽しく思っています。毎週、実に色々な意見が飛び出して来ます。そこでは私はギリシャ語の話もしませんし、基本的な質問の繰り返しだけで、ほぼ話を進めていきます。それでいながら、聖書が分かるということを体験してもらえると思っています。今でも、水・木の参加者を合わせると20名弱の方が参加して下さっていますので、一般的には多めの参加者なのだと思います。

 自分勝手な聖書の読み方をするのではなくて、聖書には正しい読み方というものがあるのです。それを知ってほしいと願っています。自分で聖書が読めるようになれば、自分で考え、自分で判断することができるようになります。そして、それはそのまま皆さんの信仰の歩みの自由さと直結します。

 冒頭にお話ししたように、物事の判断基準を持ち、聖書を根拠にした生き方ができるようになるのです。それは、私たちがやがて死を迎える時に、自分の人生の歩みはこれで間違いなかったと安心できるようになるためでもあります。それは、家族や周りの人に対しても少なくない影響力を持つようになるのだと思うのです。

 前回の箇所も、今回の箇所もそうですが、ここには私たちが聞いて嬉しくなるような言葉は書かれていません。厳しい言葉の羅列が続きます。キリスト教はやっぱり厳しいなぁという印象を持つ方が出ないとも限りません。

 前回もお話ししましたが、これだけ主イエスが厳しい言葉を使っておられるというのは、ここが信仰の急所だからです。私たちがどこで間違い易いのかが、ここで明らかになっているのです。

 このパリサイ人や律法学者が、イエスとの対話の後でどうなったかというと、53節に「イエスに対して激しい敵意を抱き」と書かれています。ここで叱責されたパリサイ人や律法の専門家たちは、主イエスの意図を聞き取ることができませんでした。まさに、ここから主イエスの死への歩みが始まっていくことになるのです。

 恥をかかされたという彼らの思いが、主イエスへの敵意となっていったのです。しかし、本当であれば、彼らはここから主イエスの福音を聞き取ることができたはずなのです。

 主イエスの願っておられることはこういうことです。

「あなたがたは人々が聖書の読み方がわからなくて困っているので、聖書の読み方を教えてやりなさい。また先祖の預言者たちの言葉を思い起こし、彼らが何を語っていたのかをよく思い出して、神のみ思いを知りなさい。そうすれば、あなたがたは幸いに生きることができるだろう。あなたがたには『神の知恵の鍵』が託されています。この聖書はあなたがたを自由にするから、多くの人々をこの神の支配の中に招き入れてください。このように生きることができるあなたがたは何と幸いな人だろう」

 これが、この所から主が私たちに語っておられる福音の知らせです。主は私たちが自由に喜んで生きるために私たちの一切の罪を引き受け、今宵十字架にかけられたのです。主の十字架は、私たちがやがて死を迎える時に、平安の中で自分の人生を悔いることがないためのものなのです。

 お祈りします。

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