・説教 ルカの福音書11章37-44節「心の内側を見られる神」
2024.3.24
鴨下直樹
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今から20年以上前のことです。以前牧会していた教会でもこのルカの福音書から説教をしたことがあります。それで、時々ですが、以前どんな説教をしたか見てみることがあります。すると、今回の説教の原稿に面白いことを書いていました。
ちょうどこの時期に説教していたのですが、当時私は教団学生会の責任を持っていまして、この季節になると教団学生会の春キャンプが行われます。春キャンプでは、中学生から大学生までが集まるのですが、その時のエピソードが書かれていました。
そのキャンプの中で行われた分科会で、ある一つのアンケートを取ったのです。
「あなたにとってクリスチャンというのはどんなイメージですか?」という問いかけです。
アンケートの結果は大きく二つに分かれました。一つの意見は敬虔なクリスチャン像です。「やさしい」「まじめ」「聖書をいつも読んでいる」「いつも礼拝に通っている」。そんな言葉がアンケートに埋め尽くされています。もう一つの答えはこれとは真逆です。とても否定的な意見が強く、その中にはこんな答えがありました。「自分の力では何もやろうとしない人」「しなければならないことがたくさんある」「聖書の通りには生きていない人」こういった言葉が続きます。なかなか厳しい答えです。
当時のキャンプに集まってくる学生は、クリスチャンホームの学生が半分ほど、半分は自分から教会に来ている学生たちです。おそらくですが、クリスチャンホームの学生たちの意見の中に否定的なものが強いのだろうと思います。ただ、このアンケートは20年前です。今ならもう少し違った結果になったのかもしれません。あるいは、今もそれほど変わらないのかもしれません。
その時のアンケートを見ながら、これは今日の聖書箇所の導入としては興味深いものだと思いました。
クリスチャンはしなければいけないことがたくさんあるというイメージがあるのです。礼拝に参加しなければならない。聖書を読まなければならない。お祈りしなければならない。献金しなければならない。そんな「やらせられている」というイメージです。これは、クリスチャンホームの子どもたちの中にあるイメージなのでしょう。
ある意味では、仕方がない部分もあると思います。スポーツを身につけるのも同じですが、基礎訓練というのは大抵つまらないものです。やらされていると感じる場合もあると思います。けれども、基礎訓練をしっかりしなければ、どんなスポーツも同じですが自由自在にプレイすることはできません。そういう意味では当時のクリスチャンホームの家庭の親たちが、そのイメージを持っていたので、子どもたちにしっかりと信仰生活の基本を身につけさせようとしていたのだということは言えるかなと思います。
ただ、このクリスチャンは硬くて厳しくてというイメージのまま、それが本当にそういうものだという理解になってしまうのだとすると、それはとても残念なことです。
アンケートに答えた子どもたちにも、その親たちの思いのイメージが共有されていなかったことはとても残念なことだと思いました。
今日の聖書箇所は、あるパリサイ人が主イエスを家に招いたところから始まります。しかも、今日の箇所を読んでみると、このパリサイ人は一言も発していません。ただ、38節で「そのパリサイ人は、イエスが食事の前に、まずきよめの洗いをなさらないのを見て驚いた。」と書かれているだけです。
パリサイ人の家に主イエスが招かれたのです。その時に、手を洗わなかったのです。今ならほとんど何の問題もないことです。ただ、コロナになってから、その様子は少し変わりました。アルコールが備えられている場合があるからです。レストランに行っても、入り口にアルコールが備えてあります。感染しないように、手を綺麗にするわけです。
この手を洗うという習慣はイスラエルの人々にとって、とても重要な戒めでした。出エジプトの時代、エジプトからカナンまで40年間荒野をさまよったイスラエル人は、病気に感染しないために、この手洗いの習慣、きよめの習慣を徹底したのです。そのおかげで、荒野で死に絶えることもなく、イスラエルの民は守られてきたのです。
ですから、手を洗わなかった主イエスを見て、驚くくらいのことは当然の反応だったと言えます。ところが、そのパリサイ人の顔を見た主イエスは、ここから一気に捲し立てます。39節から44節まで一気に話しかけられます。
木曜日の祈祷会に来られた方も、「こんなイエス様が家に来たらちょっと嫌です」と言われた方がありました。それがもっともな反応だと思うのです。
主イエスはこの時、「わざわいだ」「わざわいだ」「わざわいだ」と三度も繰り返してパリサイ人を非難なさったのです。このパリサイ人はまだ何も口も開いていないのに、です。
主イエスの言葉はこういう言葉で始まります。39節から41節です。
なるほど、あなたがたパリサイ人は、杯や皿の外側はきよめるが、その内側は強欲と邪悪で満ちています。
愚かな者たち。外側を造られた方は、内側も造られたのではありませんか。
とにかく、内にあるものを施しに用いなさい。そうすれば、見よ、あなたがたにとって、すべてがきよいものとなります。
外を綺麗に洗い清めても、内側が汚ければ意味がないと言われたのです。この時「内側は強欲と、邪悪で満ちています」と言われました。この「邪悪」という言葉は、以前も説明した34節にでてきた「目が悪い」という言葉の「悪い」という言葉と同じ言葉です。
細かな議論はしません。が、ここで主イエスが言っておられるのはこれまでのしきたりであった「きよめ」の考え方の変革です。これまでは、汚れというのは、菌がついている、汚れているという理解でしたから、洗い清めることで、きよくなると教えていました。旧約聖書はそういった理解でしたから、パリサイ人が考えているのは間違いではないのです。
けれども、問題は最初の学生たちへのアンケートと同じです。「きよめ」の本質を理解しないで、文字通りやっていれば良いと考えてしまうと、神が求められるきよめの本質に到達することができないのです。ただの、厳しい戒めのオンパレードということになってしまいます。
これは、子どもの時の信仰理解からの脱却が必要になるということです。基礎理解がしっかりと出来ていれば、自由自在にものごとを考えることができるようになるはずです。そして、主イエスはまさに、その自由を持っておられるお方でした。基本が、神の意図が、分かっているからです。
本当の問題は手を洗ったかどうかを神が見ておられるのではなくて、汚れ(よごれ)たものに浸っていないか、神の思いに反していないかどうか、そのことを神は問われておられるのでした。
基本は大切です。それは間違いのないことです。手を洗うことは大切です。しなくて良いものではありません。けれども、この時主イエスは、このパリサイ人の内側の思いがどんなものであったのかまで、見抜いておられたのです。
先日の祈祷会で、ある方が「このパリサイ人は大勢の群衆が集まっていた時に、いい格好をしようとして、主イエスを招いたのかもしれない」と言われました。私ははじめそこまでは読み取れていなかったのですが、この41節やこの後の43節などを読むと、このパリサイ人の心の中にある思いが見えてきます。主イエスをお招きしたその心は、施しの思いや、主イエスへの関心よりも、むしろ自分自身が人々から良く見られたいという思いからであったのではないかという気がしてきます。41節をもう一度お読みます。
内にあるものを施しに用いなさい。そうすれば、見よ、あなたがたにとって、すべてがきよいものとなります。
「施し」とありますが、パリサイ人は施しの思いで主イエスを招いたということなのでしょう。そのパリサイ人の心の中にある思いがきよければ、あなたがたにとって、その振る舞いもきよいものとなるのだと言っておられます。
主イエスはその人の心の中を見ておられるのです。
42節から、主イエスの言葉はさらにエスカレートしていきます。
だが、わざわいだ、パリサイ人。おまえたちはミント、うん香、あらゆる野菜の十分の一を納めているが、正義と神への愛をおろそかにしている。十分の一もおろそかにしてはいけないが、これこそしなければならないことだ。
ここで献げもののことが出てきています。この十分の一の献げものは、イスラエルの民に与えられた戒めでした。この習慣はすでにアブラハムの時から記されています。これは、すべてのものは神から与えられていることを覚えるために、自分の収入の十分の一を神へのささげものとして、ささげるという習慣です。私たちも、「月定献金」という言い方をしていますが、このささげものをすることで、私はすべてのものを神から与えられていることを、神の御前に表したのです。これは、それこそ信仰者の基本的生活の土台となる教えです。ここでも、「それはおろそかにしてはいけないが」と断りながら、重要なことは正義と神への愛を表すことだと言っています。
なかなか厳しいことは言いにくい世の中ですが、主イエスはここで、パリサイ人の心をご覧になられて、こう言われました。このパリサイ人がささげものをおろそかにしていたわけではないでしょう。けれども、「ちゃんとやっている」ということではなくて、「神への義と愛を示すことが大切だ」と言われたのです。主は、心を見られるお方なのです。
43節もそうでしょう。パリサイ人は人々から会堂や広場で挨拶をさせることを好みました。自分が重要人物であるということを、人々に示すことができるからです。ところが、44節では、「わざわいだ。おまえたちは人目につかない墓のようで、人々は、その上を歩いても気がつかない。」と言われました。人々はあなたがたのことなど、たいして気にもとめていないのだと、痛烈に非難なさったのです。
今日の説教箇所はここまでです。まだ話は続いています。読んでいると、あまり慰めの言葉がありません。福音の言葉を見つけることも困難です。一方的に、パリサイ人を非難しておられる主のお姿がここにはあります。
主は、なぜここでこのような振る舞いをなさったのでしょう。この出来事は、ザアカイの物語に少し似ています。主イエスは招かれるところには、どんなところでも訪ねていかれました。パリサイ人は文句ばかり言うから嫌だなどとは思われませんでした。福音を語る機会があれば、その機会をお用いになられるお方なのです。
そこで、きよめの本質について理解していない同胞をご覧になられたのです。ちょっと過剰なまでの反応とも思えますが、それほどに主イエスの心が動いたとも言えます。深い愛情をお持ちのお方です。主は、何とかこのきよめの理解をただして欲しいと願われたのです。主イエスは情熱的な愛をお持ちのお方で、見かけで判断なさるお方ではありません。自分のことが嫌いな人でも、その人を訪ねるお方です。そして、神のお心を少しでも知ってほしいと願っておられるお方です。
主イエスは、その人の心を見られるお方なのです。
私たちは、信仰生活の基本的なところでつまずきを覚えることがあるかもしれません。献金のことなどは、その最たる例です。聖書は、しなければならないことがたくさん書かれていると考えてしまいがちです。けれども、そう感じるのはそれほどに、私たちの生活が見当違いのところにあるからということも、言えるのです。
聖書の語る基本は愛です。神を愛すること、周りの人を大切にすることです。それが、自分本位な生き方になっているとすれば、それは改める必要が生じます。主イエスはそこで、愛情を傾け、時には厳しくもなるのです。本気で叱ってくれるのは、本気で愛している人にしかできないことです。
ここには、主の本気の愛が溢れ出しているのです。大切なことは、あれもこれもしなければならないということではなくて、神の義と愛を受け取っているかどうかです。そうであれば、すべてのことはきよいと言ってもらうこともできるのです。まさに自由に生きることができるのです。主は、私たちが主イエスのように自由に生きることを願っておられるのです。
そのためには神の義と愛をまず受け取ること。この神の思いを知ること。ここからすべては始まります。この愛を知るならば、私たちは自由に生きることができるようになるのです。
お祈りをいたします。