2024 年 3 月 17 日

・説教 ルカの福音書11章29-36節「あなたの目に見えているもの」

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2024.3.17

鴨下直樹

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 今日の説教箇所はルカの福音書11章29節から36節です。この前のところでは主イエスによって悪霊から解放されて話すことができるようなった人の出来事が記されていました。そこではこの出来事をきっかけにして、集まってきた群衆とのやりとりが記されていました。そして、今日の29節ではこのように記されています。

さて、群衆の数が増えてくると、イエスは話し始められた。「この時代は悪い時代です。しるしを求めますが、しるしは与えられません。ただし、ヨナのしるしは別です。」

 この冒頭の言葉だけでもかなりいろいろなことが語られています。

「群衆の数が増えてくると」とあります。別の翻訳では「押し寄せてきた」とか「集結して来た」と訳されています。これは少し珍しい言葉で「さらに集まる」とか「どっと押し寄せる」という意味の言葉で、新約聖書の中でここだけに使われている珍しい言葉です。悪霊追い出しの一件から、人々の関心が一気に主イエスに傾いて来たことをここで表しています。

 この時に、集結して来た人々の要求は何かというと、「しるし」を見たいということです。主イエスは信頼に足る人物かどうかを見極めようということです。

 私たちの周りには今、さまざまな情報が溢れています。スマホのおかげで手軽に情報を得ることができるようになりました。もちろんそれはスマホに限った話ではありません。書店に行くと、いろいろな雑誌が積み上げられています。健康食品やサプリなど、どうしたら健康が維持できるかという情報や、新型NISAや投資などでいかにして利益を出すかといった経済の情報、美味しい食べ物や旅行案内などの旅情報、あげればきりがありません。その中で、人々は自分なりに最善の判断をするための「しるし」を求めているといえるでしょう。どうやったら間違いないか、失敗しないか、その見極めをしようとやっきになっています。

 「この時代は悪い時代です」と主イエスは言われました。この言葉は、考えてみれば今でも全く同じように言うことができます。戦争や災害、政治不信や経済情勢、あげればきりがありませんが、今は良い時代であるとはなかなか言えません。

 しかも、この「悪い」という言葉は、ただ「良い悪い」という判断の言葉ではなく、とても厳しい言葉です。「邪悪」という言葉です。「よこしまな」と訳している聖書もあります。ただの「良い悪い」という判断の言葉ではなくて、悪に引き込もうとしている時代だと主イエスは言われます。

 それこそ、悪に引き込もうという話は、私たちの周りには溢れています。こういう投資をしたら儲かるよと言われて、お金を儲けたいのに、そのお金がまるまる奪われてしまうなどというニュースを、私たちはひっきりなしに耳にするのです。

 誰もが生きるために賢い選択をしたいと思いながら、さ迷い歩いています。もうずいぶん前のことですが、私たちがドイツにいた時に時間ができると時折旅に出かけました。お金が豊かにあるわけではありませんから、旅に出る前は大抵前もって宿を探しておいてから出かけます。けれども、いつもそうできるわけではなくて、思いつきで旅に出かけることもあります。そうすると、その目的の街に到着すると、まずその街の観光案内所を訪ねます。そこで宿の情報を貰うのです。少しでも安くて、より条件の良いところを探そうと必死になって探します。すぐに見つかることもありますが、なかなか見つからないこともあります。すぐに良さそうな宿を見つけても、街中を観光していると思いがけずもっと良さそうな宿を見つけてしまうことがあります。そうすると、しまったもっと探せば良かったと後悔するのです。

 私たちの人生というのは、このような経験の連続なのかもしれません。居心地の良い場所、最善の場所を求めて旅する者のようなのです。良い人がいて、良い環境があって、良い職場があって、よい信頼関係を築くことができる。そういう私たちが安心して生活できる場所を得たいと思うのです。誰も、失敗したいと思う人などいないのです。居心地の良い、生活のしやすい場所を私たちは探し求めています。

 だから、「これは良い」という知らせを耳にすれば、そこに人々が集まってくるのは当然のことです。そういう噂を耳にして人々が主イエスの周りに大勢集まって来たのです。「集結した」「どっと押し寄せて来た」のです。そういう人々をご覧になりながら主イエスは「この時代は悪い時代だ」と言っておられる。この主イエスの言葉の重みをどうしても、ここで感じざるを得ないのです。そのために人々は「しるしを求めますが、しるしはあたえられない」と主イエスはここで言っておられるのです。

 主イエスはここで、私たちに何を気づかせようとしておられるのでしょうか。私たちの何が問題だと言っておられるのでしょう。

 私たちが大きな人生の決断をする時というのは、その見極めをします。その時の判断基準は人それぞれでしょう。けれども、その判断基準の中に「邪悪さ」「悪」が入り込んでくるのだと主イエスは言っておられるわけです。それが、私たちが見極めようとする「しるし」の中に込められているというのです。

 けれども、主イエスはそう言われた後で、「ヨナのしるしは別です」と言われました。ということは、求めるのであれば「ヨナのしるし」を求めなさいということになるわけです。

 では、その「ヨナのしるし」とは何でしょう。ヨナは預言者でした。主の言葉をアッシリアの首都であるニネベに伝えるようにと、ヨナは主に命じられました。しかし、ヨナは主の命令に背いて船でニネベとは反対側のタルシシュへ行こうとします。ところが、そこで嵐に遭遇し、この嵐の原因がヨナにあることが分かると、ヨナは船から嵐の海の中に投げ込まれてしまいます。そこで、ヨナの命は尽きてしまうはずだったのですが、主は大きな魚を備えてヨナを嵐の海から救い出されます。こうして三日間魚の腹の中にいたヨナは、陸地に吐き出されて九死に一生を得て、主の命令に聞き従いニネベで説教をしました。すると、このヨナの説教を聞いたニネベの人々は悔い改めたのです。

 これが「ヨナのしるし」です。30節にこうあります。

ヨナがニネベの人々のために、しるしとなったように、人の子がこの時代のために、しるしとなるからです。

 ここからも分かるように、ヨナのしるしというのはヨナの説教です。ということは、ここでいう人の子がこの時代のためのしるしとなるというのは、主イエスの説教こそがしるしとなると言っておられることになります。

 すると今度は、続く31節で南の女王とソロモンのことが書かれています。南の女王とはシバの女王のことです。今度の新改訳2017では「シェバの女王」となっています。シェバの女王はダビデ王のあとでイスラエルの王となったソロモンの名声を聞き、知恵比べのためにやってきました。そこで女王の問いかけに完璧に答えたソロモンの知恵と、イスラエルの繁栄を目にして、この南の女王は膝をかがめたのです。

 そこで、主イエスはニネベの人々や南の女王が、この時代の人の罪を裁く者となると語られました。ニネベの人々も南の女王も、神の民ではありません。これらの人々は主の言葉を聞き、主のちからある業を見て、主を畏れ、主に信頼しました。この人たちには、「しるし」が見えたのです。

 つまり、神の言葉を聞き、その言葉の影響力、力を目の当たりにしたのです。そして、主イエスは、ご自身はこの時のヨナやソロモンにもまさる者であられることを明らかになさいました。主イエスが語られると、それはその通りになるのです。これこそが、神の言葉の力でした。神の言葉だけが、いつの時代であったとしても、しるしとなるものなのだと、主イエスはここで語っておられるのです。

 この話に続いて33節から、主イエスはもう一つのたとえを話されました。明かりのたとえです。明かりというのは、穴蔵や升の下に隠す人はいません。光は高く掲げて、部屋全体を見通すことができるようにするものです。そこまでは、分かります。ところが、主イエスは次の34節で少し不思議な言い方をされました。

からだのあかりは目です。あなたの目が健やかなら全身も明るくなりますが、目が悪いと、からだも暗くなります。

 少し不思議な言い方です。まるで、私たちのからだがランプであるかのような言い方をしています。

「からだのあかりは目です」とあります。明かりが目から入ってくるというのは、分かります。けれども「からだのあかりは目です」とは普通は言いません。この「あかり」というのは「ランプ」とか「ともし火」のことです。あまり、細かな言葉の意味を考えなくてもよいのかもしれません。主イエスの言葉はイメージ豊かな言葉です。私たちの体と目をランプにたとえておられるのです。

 私たち自身が光り輝いて、世の光のように輝くためには、目が健やかである必要があるというのです。この「健やか」というのは、「純粋」とか「単純」という意味の言葉が使われているのですが、この言葉は先ほどの「悪」とか「邪悪」の対義語として使われている言葉です。目が澄んでいればと訳しているものもあります。新改訳の「健やか」というのは「健全」というイメージでしょうか。悪とか邪悪という言葉の対義語としても良い言葉だと思います。

 私たちの目に入ってくるものが、健やかであれば、ちゃんと見えてくるものがあるわけです。その光を健全な眼差しで見るのか、邪悪な眼差しで見るのかという問題が、この34節では書かれています。私たちの目が邪悪であれば体は闇に支配されてしまって、私たちが輝いて生きるどころか、私たち自身が闇に呑み込まれてしまうようになるのです。

 ところが、続く35節ではこう言われています。

ですから、自分のうちの光が闇にならないように気をつけなさい。

 ここまで読んでハッとするのです。光はどこか遠くに光源があって、入ってくるのではなくて、「自分の内に光」がすでにあるというように書かれているのです。もう、私たちのところに光が届けられているのです。この35節では「自分のうちの光が闇にならないように」と言っておられます。私たちのところには、すでに光の福音が届けられているのだと主イエスはここで語っておられるのです。

 神の言葉である光の福音は、もう私たちの中にあるのです。そうすると、私たちの目が健やかであれば、私たちの中にある光は輝き出して、私たちを光源として、周りに光の影響を及ぼすようになると言っておられるのです。

 ここからいろいろな御言葉が連想されます。
詩篇119篇105節の「あなたのみことばが私の足のともしび 私の道の光です」という御言葉を連想した方もあると思います。
あるいは、第二コリントの4章7節を思い起こした方もあると思います。
私たちは、この宝を土の器の中に入れています。それは、この測り知れない力が神のものであって、私たちから出たものではないことが明らかになるためです」という御言葉を連想された方もあると思います。または、マタイの福音書の5章14節の「あなたがたは世の光です。山の上にある町は隠れることができません」という御言葉を思い出された方もあるでしょう。

 ここから語られている福音は明らかです。神の言葉は、私たちにとって光の言葉です。
神の光を、言葉を聞き取るならば、その光は私たちを包み込み、私たちだけでなく、私たちの周りに生きる人々をもその光で包み込んでくださるのです。

 神の言葉の前に、私たちの打算は入り込む余地がありません。その光の前に闇は追い出されてしまうのです。

 私たちは誰もがこの世にあって、幸いに生きたいと願っています。暗闇の中に留まり続けたいと願っている人などおりません。けれども、不本意ながら、暗闇に支配されてしまって、光がどこか遠くにいってしまって見出すことができなくなっている人たちがたくさんいます。誰もが、居心地のよい、安心して生きることのできる場所を求めているのに、なかなかそのような、居場所を見つけ出すことができないでいるのです。

 人々はしるしを探し求めています。安心して生きることのできるサインを見つけたいと必死になって探します。追い求めます。そんな私たちに主イエスは、ご自身をしるしとして、この世界に生まれてくださいました。主イエスのお姿そのものが、光のしるしです。主イエスの言葉が、光そのものなのです。

 そのしるしに気づくためには、主イエスの言葉に浸ることが不可欠です。主イエスの言葉は、私たちを闇から解き放ち、悪霊の支配から解放し、私たちに喜びと平安を与えます。それは、どこか遠いところにあるものではなくて、私たちのすぐ近くにあるのです。

 塩谷直也牧師の書かれた本で『忘れ物のぬくもり』という本があります。その本には「聖書に学ぶ日々」というサブタイトルが付けられています。先日、その本を何気なく開いていたら、興味深い文章が目に止まりました。そこで、塩谷先生の幼稚園の頃の話が書かれていました。そこでは、ある聖書の学びに来ている人との会話が記されていました。

「幼稚園に行く前まで、僕はひとり遊びしか知らない子どもだった。チラシの裏には自分しかわからないマンガを書いて、一人で何役もこなして、観客のいない人形劇を延々と続けていた。六歳年の離れた兄とも遊んだけれど、幼いからすぐ飽きられて、あまり相手にされていなかった。」そんな話をすると、聞いていた人が「寂しーっ」と答えます。
 
「そう思うだろう。でも寂しくなかった! 友だちが欲しいとも思わなかった。自分なりに満たされた引きこもった生活だったね。 ところが、そんなぼくの生活が崩れる時がくる。ある日の夕方だった。家の前の空き地から子どもたちの歓声が聞こえる。あれ、この辺りに小さな子どもはいないはずだが? 恐る恐る玄関から外をのぞく、ほぼわたしと同年齢の男の子が三、四人遊んでいた。……その後どういう経緯だったか、はっきり覚えていないんだ。ただ気がつくと、ぼくは彼らと思いっきり遊んでいた。ぼくはすぐに自宅に引き返し、持っているおもちゃをかき集めた。この『生まれて初めての友だち』といっしょに遊ぼうと思ったのだろう。兄と遊んでも今一つ盛り上がらなかったおもちゃのバトミントンの道具などを、あれこれ胸に抱えて飛び出した。 ところが……そこにはだれもいなかった。まるでさっきの出来事が夢であったかのように。おもちゃを胸に抱えたまま、ぼくは立ちつくしていた。おもちゃをとおして胸がドキドキしているのがわかった。」
 
「はあー。ショックでしたね。見捨てられた感じ?」
 
「うん。ショックは受けた。でも見捨てられたショックじゃないんだ。……ぼくはその時はじめて知ったんだよ。自分が今までどんなに寂しかったか、ということを。今まで一度も寂しいと感じたことはなかった。しかし、友だちと遊んで、初めて自分が一人ぼっちだとわかった。そのことがショックだったんだ。」

 その話のあとで、一つの言葉が書かれています。

「暗闇は光を理解しなかった ヨハネ1章5節」

 この本の文章はまだ続くのですが、ここまでにします。

 光を知らないと、暗闇が分からないという話がこの後に描かれているのです。そのために、一人の寂しさを知ったのは、友だちと遊ぶことを経験してはじめて分かったという自分の小さな時の経験を話しているのです。

 私たちは主イエスの光の言葉にひたってみるまでは、闇の恐ろしさを本当の意味では気づけないのかもしれません。闇をあたりまえに生きている人にとって、光の言葉を聞くということは想像もできないようなことなのかもしれません。

 ニネベの人々も、シェバの女王も、神の言葉を聞いて、自ら目の当たりにしたこの光の言葉の本当の姿を、体験したのです。しかし、一度この光の言葉を知ってしまうと、もうそれを知らなかった生活に戻ることができなくなったのです。それが神の言葉との出会いです。

 主は光の言葉をもって私たちに語りかけてくださいます。この光の言葉に身を置く時、私たちはもう闇の中の生活、一人遊びの生活の中にとどまることが寂しいことなのだということを知ることになるのです。そして、光の中にとどまりたいと願うように変えられるのです。

 主は私たちにとって、かけがえのない幸いと喜びの生活を備えておられるお方です。そして、この神の国に生きる喜びを伝えようと光の言葉を語りかけてくださるのです。この主の語りかける神の言葉に生きる時、私たちは神の光の中を歩む幸を味わうことができるのです。

 お祈りをいたします。

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