2024 年 4 月 7 日

・説教 ルカの福音書12章8-12節「神が知っていてくださる」

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〈新生〉
2023.4.7

鴨下直樹

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(本日はYouTube動画はありません)


 今日は、私自身がコロナになってしまったために、このようなオンライン越しで説教することになってしまったことを申し訳なく思います。お聞き苦しいところがあるかもしれません。ご了承ください。

 さて、今日の聖書の中にはとても気になる言葉が記されています。10節にこういう言葉があります。

聖霊を冒瀆する者は赦されません。

 聖書の中に赦されない罪があると書かれているわけですから、どうしたって気になるのではないでしょうか?ここで、主イエスはいったい何を語りかけようとしておられるのでしょうか。

 先週のイースター礼拝ではこの前の1節から8節までの箇所を取り上げました。その時にもお伝えしたのは、主イエスのこの時の話は1節から12節まで一まとまりの文章で語っておられますから、内容としては1節から12節までを一つの内容と考えた方が、よく理解できると思います。

 前回の復習も兼ねて少しお話ししますと、冒頭の1節から8節までで、まず主イエスはパリサイ人の偽善に気をつけなさいと語り出されました。そして、神は小さなことをも見ておられるお方だから、人に見られていないから大丈夫と思って行動するのではなく、神の御前で誠実に生きるようにとお話しなさいました。主は、自分は無価値な存在だと思っているような人であっても、その人をとても大切に思ってくださるお方であることが、語られていました。

そこまでが、前回の内容でした。そして今日の続きの箇所、8節と9節にはこのように書かれています。

あなたがたに言います。だれでも人々の前でわたしを認めるなら、人の子もまた、神の御使いたちの前でその人を認めます。しかし、人々の前でわたしを知らないと言う者は、神の御使いたちの前で知らないと言われます。

 一瞬、突然違うテーマの話になったのではないか?と思えるほどテーマが変わった印象を持ちます。けれども、主イエスがお話になられた意図としては、ここからが大事なところになるわけです。

 神様にとっては、パリサイ人のような目立つ存在が大切なのではなく、一羽の雀のような、たとえ小さな者であったとしても、自分に自信がないような者であったとしても、そんなあなた方が大切なのだと主イエスは伝えました。そして、今日の箇所です。そのようなあなた方、弟子たちが人々の前で、私たちは主イエスの弟子なのだと宣言することが大事なのだと言っておられるのです。

 この時、主イエスと弟子たちの周りには大群衆が押し寄せてきていました。そんな中で、主イエスは、群衆に向かってではなく、弟子たちに向かって話しかけられます。大事なのはあなたがた弟子たちが、わたしのことを、主イエスのことを認めているかどうかが鍵なのだと、このところで言っておられるのです。

 ここで「認める」という言葉が出てきます。これは、「告白する」という言葉でもあります。旧約聖書のヘブル語では、この時と同じ言葉は「感謝する」と訳されています。ということは、主イエスを心の中で認めているというようなニュアンスではなく、人の前で感謝するくらいに明らかにするというニュアンスです。人前で、「私は、自分が主イエスの弟子であることを心から感謝している」と言えるかどうかということです。そのように、主イエスとの関係を公にできるように「認める」ならば、主イエスの方も、その人のことを神の御使たちの前で、誇りとする。そう言っておられるのです。

 ちょうど、知り合いがテレビか何かに出ていて、「あの人、私の知り合いだよ!」と自慢するような感覚で、主イエスの方が、私たちのことを御使たちの前で、自慢してくださる。そんなことが書かれているのです。

 でも、その逆もあるわけです。私たちが主イエスのことを知らないと言う、私はあの人と関係ないというような場合には、主イエスの方も私たちのことを知らないと言われる。

 そうすると私たちが思い出すのは、主イエスの裁判の時にペテロのとった行動の場面が、まさにこれに似ているということに気づかされるのではないでしょうか。

 主イエスはあらかじめペテロに「今日、鶏が鳴くまでに、あなたは三度わたしを知らないと言います」と言われました。その時にペテロは主イエスに「主よ。私は、あなたとご一緒なら牢であろうと、死であろうと、覚悟はできております。」と答えます。しかし、実際にその後主イエスが捕えられ、裁判にかけられると、その様子を見に行ったペテロはそこで主イエスの弟子ではないと拒んでしまったことが記されています。

 この11節にこう記されています。

また、人々があなたがたを、会堂や役人たち、権力者たちのところに連れて行ったとき、何をどう弁明しようか、何を言おうかと心配しなくてよいのです。

 まさに、ペテロが置かれた時のような状況に、私たちが陥ることがあるでしょうか。信仰のために裁判にかけられるようなことまではあまり起こらないかもしれません。けれども、ペテロが裁判の時の庭で、不意に声をかけられ、「あなたは主イエスの弟子かね?」と聞かれるような具合で「あなたは教会に行っているんだったかね?」と聞かれるようなことは、きっといくらでもあるでしょう。

 そういう時に、「何をどう弁明しょうか」と考えるかもしれません。「弁明」なんて立派なものではなく「言い訳」のような言葉が口から出てくるかもしれません。その時に、言い淀んでしまうことがあるとすれば、私たちの中でその時さまざまな計算が働くからだと思います。「この人はどういう影響力があるか。自分の悪口を言い広められないか」そんな考えが、頭をよぎるかもしれません。あるいは、「自分がクリスチャンなどと答えてしまうと、他のクリスチャンに迷惑がかかるかもしれない、それならいっそ否定しておいた方がいいかもしれない」と考えることがあるかもしれません。こういったことは、私たちの日常生活に何度も起こることです。

 問題は、こういう話を主イエスがなさっている時に言われた、この言葉があるので困ってしまうのです。

聖霊を冒瀆する者は赦されません。

 聖霊を冒涜する者は赦されません。これはどういう意味で言っておられるのか、分からないと下手なことが言えなくなってしまいます。この言葉にはかなり重みがあります。この言葉の意味を知らないままでは、私たちは今日、家に帰って安心して生活できなくなるかもしれません。
 10節にこう書かれています。

人の子を悪く言う者はだれでも赦されます。しかし、聖霊を冒瀆する者は赦されません。

 「人の子」というのは、主イエスのことです。この世を裁く権威を持っておられるお方として、出てくる言い方です。この世を裁く主イエスのことを悪く言っても、それは赦されるというのです。けれども、聖霊を冒涜することは赦されない。ということは、かなり強い意味で語っています。これはどういうことでしょうか。聖書学者たちの中でもこれはどう言うことなのか長い間、いろいろな理解が示されてきました。

 たとえば、それは聖書の時代にもすでにこういう理解がうまれています。それはヘブル人への手紙6章の4節から7節です。

一度光に照らされ、天からの賜物を味わい、聖霊にあずかる者となって、神のすばらしいみことばと、来たるべき世の力を味わったうえで、堕落してしまうなら、そういう人たちをもう一度悔い改めに立ち返らせることはできません。彼らは、自分で神の子をもう一度十字架にかけて、さらしものにする者たちだからです。

 これは一度信仰をもって聖霊に預かる者となった人が、その後で堕落してしまうならその人は立ち返ることができないだろうという理解です。

 すでに、ヘブル書にそういう理解が生まれたわけです。それで、このヘブル書を例にとって、「聖霊を冒瀆する者は赦されない」というのは、一度クリスチャンになった者が信仰を捨ててしまうと、その人は赦されることはないというように解釈する人々が出てきます。このような一度クリスチャンになってから信仰を離れる者は赦されないという解釈は、かなり長い間、そして広い範囲で受け止められてきました。信仰から離れないようにする一種の脅しのような役割を持つようになったのです。

 けれども私たちは、シモン・ペテロが裁判の時に主イエスのことを三度拒んだのに、その罪が赦されたことを知っています。もちろん、先に話したような解釈をした人たちも、このことは当然知っているわけです。ペテロが主イエスを拒んでしまった時は、ペンテコステの前だから、聖霊がまだ与えられていない時だというように理解します。

 ただ私たちがここで聞き取らなければならないのは、主イエスの意図です。一羽の雀さえも見ていてくださる主イエスが、クリスチャンになる前ならどんなことでも赦されるけれども、クリスチャンになってから、信仰から離れることは赦されないということを言おうとしているとはやはり読めません。こういう解釈は、後々のさまざまな教会の事情で出てきた発言だと思うのですが、それはやはり最初の1節に出てくる「パリサイ人のパン種」、人のことはとやかく言うが、自分には甘いということなのではないかと思うのです。

 主イエスがここでおっしゃりたい一番のメッセージは12節の「言うべきことは、そのときに聖霊が教えてくださる」ということです。

 私たちはいろいろな場面で、自分の信仰のことを話さなければならない時があると思います。そう言う時に、どうしても「言い訳」がましいことを言ってしまったり、クリスチャンを貶めてしまわないようにと「自分は大したクリスチャンではないんで」と謙遜ともならないような自己卑下をしてしまったりすることがある。そうやって聖霊を悲しませてしまうことがあるのです。けれども、主イエスは、そう言う場面でこそ、聖霊にお任せしたらよい。心配しなくても大丈夫、その時その時、話す言葉が与えられるからと主イエスはここで仰りたいのです。禁止事項に強調点があるのではなく、励ましに力点を置いておられるのです。

 ただそうすると、皆さんの中には「でも、うまく話せなくて、不利になってしまうようなこともあるのではないか?」と心配される方がおられるかもしれません。それこそ、裁判のような重要な場面で、知恵の効いた言葉も出ないことがあるかもしれないではないかと不安になるかもしれません。けれども、主イエスは、それも含めて聖霊に委ねなさいと言われているのです。その結果、殉教ということだって起こり得ると思います。けれども、それも聖霊が与えた結果だということです。どんな状況に置かれることになったとしても、あなたには聖霊が共におられるのだから不安になることはない。主イエスはそう言われるのです。つまり、「聖霊を冒涜する者は赦されない」というのは、「聖霊の働きに信頼できないなら、救いを拒むことになっているのだ」ということを主イエスはここで言おうとしておられるわけです。

 ペテロの裁判の時の話が出て来るのは一年ほど先のことなので、少しだけお話ししておこうと思います。

 たとえばこのペテロの場合でもそうです。主イエスが復活された後で、もう一度「あなたはわたしを愛するか?」とペテロに三度問われるところがあります。この時ペテロに問われた「愛するか?」と聞かれたのは「アガペー」という愛で問いかけられています。この「アガペー」は「無条件の愛」のことだと言われます。けれども、ペテロは「愛します」「フィレオー」と答えます。この時にペテロが答えた「愛します」は「家族のような愛で」と答えます。答えとしては正解ではなかったかもしれないわけです。でも、それで問題ないのです。その時、その時示された答えで応答することしか私たちにはできないのです。

 主は私たちに「かっこいい」答えをお求めになられているのではありません。完璧な答えを期待しておられるわけでもありません。その時、その時に、誠実な答えを求めておられます。失敗することだってあるはずです。そして、私たちが失敗の答えを選んだ場合は、もう二度と赦さないなどと主イエスは言われるお方ではないのです。ただ、その時その時、聖霊が教えてくださることに、忠実に応えなさいということを仰りたいのです。

 聖霊は、私たちの心の中で、私たちに語りかけてくださいます。その時、その時、私たちがどうするように導かれているのか。その心の語りかけを無視して、人の顔色を見たり、自分の立場を守ろうとしたり、そんな信仰の歩みをしてしまうなら聖霊は私たちの中で自由に働くことができなくなってしまいます。

 その時は、場の空気を読む必要はないのです。読み取る必要があるのは聖霊の思い、神の想いです。私たちの心の中に生まれてくる主イエスに対する誠実な信仰の言葉を口にすることです。神は、私たちの心の中までご存じのお方なのです。

何をどう弁明しようか、何を言おうかと心配しなくてよいのです。言うべきことは、そのときに聖霊が教えてくださるからです。

 私がまだ若い時、中学生の時です。ある伝道者の牧師さんがこの箇所の説教をしておられました。その時に、この牧師さんはこんな経験をしたと話をされました。

 ある時、その牧師さんは飛行機に乗ってアメリカに向かっていたそうです。すると、飛行機の中で病気のために体調を壊してしまった方があったそうです。機内で「お医者様か、看護師の方はいませんか?」とアナウンスが入ったそうですが、誰も動いた様子がなかったそうです。誰も行かないのを見ていたその牧師さんはしばらくして、客室乗務員のところに言って、「ドクターはいますか?」と尋ねたそうです。「まだ見つからない。あなたはドクターですか?」と尋ねられます。すると、「私はパスター(牧師)です」と答えます。そこでその牧師は「お祈りしてもいいですか?」と聞くと「お願いします」と言われたので、お祈りをしようと思って病気の人を見るとアメリカ人だったそうです。その途端、これは困った自分は英語ができないと思ったのだそうですが、今更後にもひけず、腹を括って英語でお祈りをはじめたそうです。すると自分でも驚くくらいすらすらと英語で祈ることができたそうです。そのお祈りのおかげか、その後その人は回復したという話でした。

 私がその話を聞いたのは中学生くらいだったものですから、自分の英語力の程度を想像しながらこのメッセージを聞いていまして、とても感動したのを覚えています。

 聖霊は、英語で話すことができる力まで与えてくださるのか、これは安心だと思ったのです。だから、今でもこの話を覚えているのです。

 今になって思えば、いくら英語ができないとその牧師さんが言ったとしても、仕事でアメリカまで招かれているわけですから、中学生の英語力とはまるっきり違うのだと分かります。きっと、とっさに英語でお祈りする自信はなかったけれども、いざ祈ってみたら無事に祈ることができたということだったのだろうと今なら分かります。けれども、この私の麗しい勘違いは、その後の私にとても大きな平安を与えました。「もし英語で話さないといけなかったとしても、聖霊は話す言葉を教えてくださる」と信じて歩んできたわけですから。

 もちろん、これはかなり極端なたとえですけれども、聖霊は本当に私たちが信仰の言葉を語る時にも、いつでも語る言葉を与えてくださる方であることに違いはないのです。

 主は私たちのことを、小さなことにまで目をとめていてくださいます。そして、私たちが本当に必要な時には共にいてくださる聖霊が、私たちを支えてくださり、その時、その時必要な言葉を語らせてくださるのです。だから、人前でいいかっこうをしようとする必要はないのです。自分を取り繕ったり、偽善で自分を覆ったりする必要は全くないのです。

 今、私たちは復活節の喜びの季節を過ごしています。復活節第二主日は「新生」という名前が付けられた主の日です。私たちは聖霊によって新しく生きる者とされました。これは、聖霊の働きによる者です。私たちに与えられている聖霊は、私たちを新しくし、新しい存在へと生まれ変わらせてくださいます。この主が、私たちと共におられます。聖霊と共に私たちは新しく生きる者とされるのです。

 お祈りいたします。

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