2024 年 4 月 21 日

・説教 マルコの福音書1章9-13節「私の愛する子」

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〈全地よ喜べ〉
2023.4.21

内山光生

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(本日はYouTube動画はありません)


序論

 私たちの家族が住んでいる借家において、私は2階の部屋を書斎にしてメッセージの準備をしています。窓の外には木の枝が風に揺さぶられている姿が見えます。また、鳥たちの鳴き声がまるでBGMのように響いています。とても恵まれた環境で聖書と向き合うことができることに感謝をいたします。昨日の子ども食堂も大勢の方が来られたことを感謝いたします。

I バプテスマを受けた主イエス(9節)

 9節から見ていきます。

 イエス・キリストが公に活動を始められる少し前に、バプテスマのヨハネが悔い改めのバプテスマを宣べ伝えていました。悔い改めのバプテスマとは、人々が自分の罪を告白し、神様に心を向けること、それらの「あかし」として水によるバプテスマを授けてもらうこと、そういう意味がありました。

 バプテスマのヨハネの噂は、ユダヤ地方だけでなく多くの地域に広がっていきました。それでガリラヤ地方の田舎町、ナザレという村に住んでいたイエス様もわざわざヨハネの元にやってきたのです。

 マルコの福音書では、この時の詳しい様子が省略されています。一方、マタイによると、ヨハネがイエス様にバプテスマを授けるのをためらった事が記されています。ヨハネは「どうしてこんな私がイエス様にバプテスマを授ける資格があるのだろうか?」と疑問に思ったのです。

 ある人々は、そもそもイエス様は神の子であって何一つ罪のないお方ではないか。罪がないのに「悔い改める必要」はないのではないか。と考えるかもしれません。確かに、その通りです。イエス様は私たちのように悔い改める必要はないのです。

 けれども、マルコの福音書は、単純に、この時起こった出来事を記すにとどまっていて、私たちの心に浮かぶ疑問に対して沈黙をしています。そしてそれがマルコの福音書の特徴なのです。だから、書かれていないことに目を向けるのではなく、はっきりと記されていることに目を向けていけばよいのです。ただマタイによると、イエス様がヨハネからバプテスマを受けられたのは、正しいことなんだと記されています。つまりイエス様は、私たち人間に対して、模範を示してくださったのです。イエス様は罪なきお方でした。しかしながら、ヨハネからバプテスマを受けられたことによって、私たち人間に対して、悔い改めて心を神様に向けることの大切さを示して下さったのです。

 まだ洗礼(バプテスマ)を受けていない方々に伝えたいことがあります。それは、イエス様を救い主として受け入れているならば、そして、洗礼を受けたいという気持ちがはっきりと出てきたならば、ぜひ、早めに洗礼を受ける決心をして頂きたいのです。それが神のみこころであって、神に喜ばれる正しい事だからです。

 ただ焦る必要はありません。自分の周りの人々が洗礼を受けるからという動機ではなく、自分自身が本当に洗礼を受けたい、そういう気持ちが沸き起こった時にこそ、ちょうど良いタイミングと言えるのです。そして、その時が必ず来ると信じて神様に祈っていきましょう。

II 御霊と父なる神によるあかし(10~11節)

 10節11節に進みます。

 これらの箇所で言わんとしていることは、聖霊と父なる神とイエス様とが密接な関係にある、ということです。言い換えると、三位一体なるお方について記されています。

 三位一体は、正統的なキリスト教ならば、皆、受け入れている教えです。昔の時代において、三位一体が聖書の教えなのかどうかで大論争がありました。というのも、この教えは、どうも人間の理性では理解しがたいからです。また、人間の知能によって説明しようとしても、限界があるからです。

 興味のある方は、三位一体に関する詳しい本を読むとよいでしょう。でも、そういうのが苦手だと思う人は、シンプルに聖書に書かれていることを、素直に受け止める、そういう姿勢でよいと思うのです。つまり、父と子と聖霊という三つの位格があって、しかし、父と子と聖霊は一体なんだ、と。それをそのまま本当の事だと受け止めればよいのです。

 さて、10節ではイエス様がバプテスマを受けられた時、御霊あるいは聖霊が鳩のように降ってきたとあります。このような形で聖霊は、イエス様のことを「あかし」しているのです。

 そして11節では、天からの声がしたとあるように、父なる神が、イエス様のことを「わたしの愛する子」と証言されることによって、イエス様がどういう立場なのかを示して下さったのです。

 イエス様は私たちの罪を赦すために十字架にかかるという目的で、神の子でありながらも地上世界に遣わされたお方です。

 その役割は、イエス様ご自身から出たことではなく、父なる神がイエス様に与えられたものなのです。また、その役割を果たすことができるのは、イエス様以外におられない、つまり、イエス様が唯一の救い主なのです。

 10節11節で何を言おうとしているのかを読み解くのは、結構、難しいです。しかし、とても重要な内容が含まれていることを心にとめておきましょう。

 もう一度説明しますと、イエス様は父なる神によって「愛する子」、言い換えると「唯一の子」と証言された方です。このことは、イエス様こそ人々の罪を赦すために地上世界に遣わされた神の御子なんだということを意味しています。

 聖歌392番「神はひとり子を」という賛美があります。そこには神様がどれ程、私たちを愛しておられるかが歌われています。その愛がどれ程、偉大なものかに気づかされる時、私たちの心に神を愛したいという思いが強まるのです。しかしながら、今日の箇所を通して私たちは、神はひとり子イエス様を心から愛しておられるということに目を向けていきたいのです。

 親ならば自分の子を愛するものです。人間の心に与えられている親の子に対する愛は、とてもすばらしいものですが、人間がゆえに限界があります。一方、神様がひとり子に注ぐ愛は、無限の愛だと言えるでしょう。イエス様に対して、そのような父なる神の無限の愛が注がれているのです。更には聖霊がイエス様を「あかし」することによって、聖霊とイエス様とが特別な関係にあることを示しているのです。

 三位一体については、分かったようで完全には分からない不思議な教えです。恐らく、天国に行ったら、はっきりとどういうことなのかが分かるでしょう。

III 荒野における勝利(12~13節)

 12~13節に進みます。

 12節の冒頭で「それからすぐに」とあるように、マルコでは、「主イエスがバプテスマを受けられた出来事」と「サタンの試み」との間の時間がとても短かった事が強調されています。

 ところで、ここには御霊、すなわち聖霊がイエス様を荒野に追いやったとあります。聖霊はいつも私たちを良い方向へと導いて下さるかというと、そうではない事もあるのです。

 11節において、イエス様が御霊と父なる神によって祝福を受けていたかと思えば、その直後に、荒野という暗闇の世界へと追いやられるのです。このことは、今の時代の私たちにも似たようなことが起こる事をほのめかしています。

 ある人は洗礼を受ける時に「救われている喜び」で満たされていた。しかし、その直後から、「試練」にあって教会から足が遠のいてしまった、と。どこの教会でもこのような事例があることだと思います。ですから、そのような事にならないように、洗礼を受けた後でも、しっかりとイエス様につながっていくことの大切さを学んでおくことがよいのです。

 多くの人にとって、聖霊が荒野、つまり暗黒の世界へと導くというのは受け入れがたい事柄かもしれません。なぜ聖霊が私たちにとって都合の悪い方向へと導くのか全く理解できないと考える人もおられるでしょう。しかし現実には、試練というものが存在し、それらの試練が一時的に私たちの信仰を揺さぶることがあるのです。でも、大切なことは、私たちは、イエス様がとりなしてくださっているゆえに、その試練を乗り越える事ができるんだということを覚えておきましょう。私たちが試練を乗り越えることができる時、今までよりも神様との関係が深くなっていくのです。そして、人生において、何度も何度も試練を経験し、その都度、信仰が強められていくのです。そこに目を向けることができる時、私たちは希望を見出すことができるのです。

 旧約聖書のモーセの時代において、エジプトの奴隷状態から助け出されたイスラエルの民。しかし、そのイスラエルの民は、40年もの長い期間、荒野をさまようという試練が与えられたのでした。モーセをはじめイスラエルの民の不信仰ゆえに、荒野をさまよわなければならなかったのでした。

 一方、イエス様は40日間、荒野にいて、サタンの試みを受けられました。この試みが何であったかはマルコでは省略されています。しかしマタイやルカを読むと、具体的にどういう試みだったかが示されています。今日はその部分は取り扱いません。マルコがそこを強調していなからです。ではマルコの短い文章から、何を読み取ればいいのでしょうか。

 マルコでは13節でイエス様が「野の獣とともにおられ」とあります。これは、例えばサファリパークのような楽しいイメージではありません。そうではなく、死と向き合わせの過酷な環境に立たされていたことを意味しています。イエス様が受けられた試みは、人間では簡単に打ち負かされるほど激しいものだったのです。それゆえ、御使いたちがイエス様を野の獣から守る必要があったのでしょう。

 旧約のダニエル書で、ダニエルたちがライオンのいる穴に投げ込まれましたが、しかし、ダニエルたちはライオンに襲われることがなかったように、イエス様も御使いたちによって野の獣から守られたのです。こうして、イエス様は荒野での過酷な生活に耐えることができ、また、サタンの試みに勝利することができたのです。

 そして、この後、イエス様は本格的に宣教活動を繰り広げていく中で、サタンとの戦いも激しさが増していきます。でも、イエス様はサタンに決して負けることがないのです。

まとめ

 今日の箇所はイエス様が本格的に宣教活動をする前の準備段階にどういう出来事があったのかについて記されていました。

 イエス様が人間であるヨハネからバプテスマを受けられた事は、私たちに悔い改めてバプテスマを授けてもらうことが大切なんだという模範を示してくださった、そういう意味があるのです。それゆえ、イエス様を信じている人々がバプテスマを授けてもらうことは良いことなのです。またバプテスマを受けた後でも、私たちは信仰生活の中で、神様に対して罪を告白し、悔い改めの実を結んでいくことができるよう祈っていくことが大切なのです。

 ある人々は、洗礼を受けた頃のあの喜びがずっと続けばいいのに、と思うかもしれません。ところが、洗礼を受けた後に、必ずと言っていいほど、試練を味わうこととなるのです。正直、試練に遭っている時は、神様に感謝をする気持ちが湧き出てこなくなることもあるでしょう。教会から足が遠のく、そんな事が起こるかもしれません。でも、私たちに与えられる試練は、決して、乗り越えることができないものではなく、むしろ、脱出の道が備えられているとの聖書の約束に心をとめたいのです。

 父なる神はひとり子イエス様に対して「わたしの愛する子」と証言して下さいました。父なる神のイエス様に対する愛は、人間に与えられている愛よりも遥かに大きく、無限大のものなのです。そのような愛を受けているイエス様は、私たちのために命をささげて下さいました。その十字架の愛に心から感謝をいたしましょう。

 お祈りします。

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